6.無口喰臥のあだ名
【学食の黒渦】を見つけてから三日が過ぎた。
嵐のあとの水たまりのように、日々はやけに静かだった。
強も飽きたのか、七不思議探しをやめてしまったように見えた。
——が、それはあくまで表面上の話。水面下で何かを蠢かせている可能性は十二分に考えられる。
それでも、皆人にとっては「何もない」がいちばん良かった。
午後の教室、色の抜けた空が窓の外に広がっている。
皆人は頬杖をつきながら、二日前のことを思い返していた。
『無口喰臥ファンクラブ 会員番号0001 会長』を名乗る巨傲久美子は、自分と同じ——あるいはそれ以上の称号を皆人に授けようとした。
「そこまでしなくてもいい」と言ったはずなのに、彼女はその言葉を聞こうともしなかった。
結果、折衷案として『名誉会長』という役職に落ち着いた。
金髪の縦ロールはどこまでも律儀で、どこか抜けていた。
「最近、求平のやつ来ないな」
六時間目の終わり。秋山が後ろから声をかけてきた。
「……いいだろ。これが平和だ」
霊の話をすると、霊が寄ってくると言う。
強もそれと同じ。名前を呼んだだけでなにかが始まりそうで怖い。
皆人は肩をすくめ、ふと、口角を歪めた。
「どうした?」
「んー……嵐の前の静けさ、って感じ? 嫌な予感がしてさ」
「虫の知らせってやつか?」
「そんなとこ。でも……あー、もう考えるのはやめやめ」
思考を放棄することでしか心の平穏は守れなかった。
タイミングよく、HRのチャイムが鳴る。
「では皆、気をつけて帰るように」
担任の声と共に日常が締めくくられる。
秋山と軽く手を振って別れ、皆人は鞄を片手に立ち上がった。
扉に手をかけ、教室を出ようとした、その時——
「よぉ皆人! 息災か?」
誰よりも聞き慣れた声に、皆人は天井を仰いだ。
扉の向こう、案の定、強がいた。
「……はぁ……」
思わず頭を押さえる。
実際に痛いのか、気のせいか。いや、思い込みってのは怖いものだ。
視線を逸らそうとした先でふと目に入ったのは無口喰臥だった。
強の隣に、ぽつんと立っていた。
その姿に皆人の肩の力がふっと抜ける。頭にあったはずの痛みはどこかへ消え失せていた。
単純な頭は、単純な安心で緩むのだ。
「少なくとも、お前のせいで頭痛がしてたよ」
「ハッハー、冗談が冴えてるなぁ〜。なぁ、ムック〜?」
棒読みの逆撫でボイス。
だが、皆人の耳は別の言葉に引っかかった。
「……ムック? 何だそれ」
一瞬、赤くて大きい何かと緑の恐竜が脳裏をよぎったがすぐに追い出した。深く考えない方が良いこともある。
「あれって雪男の子供らしいぞ」
「やかましい」
平然と思考を読んでくる強に嫌気をさしながらもう一度改めて問う。
「無口だからムックだ! 本人も納得してるぞ!」
強の言葉に、皆人は思わず隣の少年に目を向ける。
無表情で、何も気にせず、ポップコーンを口に放り込む喰臥。
背中には大きなリュック。どこかぬいぐるみのような存在感。
その無垢な姿に三度の衝撃、皆人は地面を握りしめる。ここで倒れるわけにはいかない。最終決戦前の勇者のような気持ちだった。
「まぁ、本人がいいなら……で、何の用だ?」
「七不思議だ!」
「……だろうな!!」
少しでも期待した自分が馬鹿だった。と目頭が熱くなるのを感じる。
分かり切っているなら聞かなければいいのに——それでも、念のため、もう一つだけ。
「……で、ムックは何で一緒に?」
ローズの姿はない。
強とムック、二人だけというのが逆に不気味だった。
おそらく、何かしらの食べ物で釣られたのだろう。だが理由は不明のまま。
そして気づけば「ムック」という呼び名が皆人の中で妙にしっくりきていた。
「ムックをある人に会わせたくてな」
「……ある人?」
「ああ、チビでか先輩だ!」
……矛盾している。
皆人は顔をしかめながら、思考停止に近い形で問いを続けた。
「その先輩はどこに?」
「放送部だ」
「ってことは……放送室か。それってどこだっけ?」
「職員室の隣だ。皆人は何にも知らないな〜」
強のジェスチャーが鬱陶しい。
いや、そもそも普通の学生生活をしてたら放送室なんて行かないのだから知らないのもしかたないことだろう。
皆人は踵を返し、このまま帰ろうとした——が、通せんぼ。
小さな影が、目の前に立ちはだかった。
それはムック。小さい両手をめいっぱい広げて、一言も発することはない。
その愛らしさに心が折れる。
強にいくら渡されたのか。……いや、何を食べさせられたのか。どちらにせよ、ムックの防御力は圧倒的だった。
「……わかった。行けばいいんだろ、行けば」
皆人はため息をつき、二人について行くことにした。
再び日常がぐらりと傾きはじめた音がした。