55.鬼の拳は空を切る
鉄将には誰にも語ったことのない秘密があった。
それは本人ですら理解しきれない、酷く不可解で、少し恥ずかしい秘密。
けれど、その秘密を口にしようと決心できたのは他ならぬ強達が彼の氷のように冷たく固まった心をじんわりと、しかし確かに溶かしたからだった。
鉄将は無言のまま一歩前へ出て、ゆっくりと拳を構える。
空気が張り詰める。まるで何かが起こるのを待っているように、チビでか先輩は息を呑んだ。
そして振り下ろされた一撃――しかし、その拳は目の前に立つ強の体を大きく逸れて風を斬った。
「……これが、俺の秘密だ」
鋭い風が頬をかすめ、教室のカーテンが大きく揺れる。
まるで拳が通った道筋を示すかのように空気の流れが可視化される。
「俺は……人を殴ったことがない……どんなに本気で殴ろうとしても、拳が当たらない。まるで何かに拒まれるみたいに、だ」
鉄将の声は低く、だが真っ直ぐで誠実だった。
強は小さく目を見開き、それから笑った。
「なんて格好つけてるけどクソノーコン人間扇風機なだけだからな」
「なんだとッ!?」
強の軽口に鉄将が反射的に拳を振るう。だがそれは先ほどと同じく空を切り、ただ涼風だけを残した。
「えぇ……そんな事ってあるのかい……?」
半信半疑のまま呟く先輩にローズが頷いた。
「でも、これが現実ですわ」
「むしろ、鬼怒川君の優しさが出てて私は素敵だと思うな」
静かに微笑む美月の言葉に、一瞬場の空気が和らいだ。
鉄将の力はーーその巨大な拳は人に向けて振るわれる時に限って、どうしてか当たらない。
狙えば狙うほど、狙いが外れてしまう。それは呪いのようでもあり、救いのようでもあった。
「……つまり、思いとどまったわけでもなく、ただのノーコン野郎ってことよね」
「一色てめぇ!」
「でもまぁ、涼しい風をくれるのはありがたいわよね〜」
桜は壁に寄りかかりながら、髪を揺らして笑った。
鉄将のぶんぶんと振るう両手を見据えながら、桐人はげんなりとした顔をしていた。
「当たらないって分かってても、あの暴風の中で平然としてる二人は……マジでイカれてると思う……」
彼の視線は強と桜に向けられていた。
あの二人だけが鉄将の拳が目の前で唸るなか、まるで無風の空間にいるかのような顔をしていたのだ。
そんな不可思議な現象が存在するのか、と先輩は頭を掻いた。
しかし彼らがそんなしょうもない嘘をつく筈がない。ならばそれは真実なのだろう。
先輩は理解し、同時に納得する。
「そういえば先輩、例のやつは?」
強は思い出したかのように声をかけた。
それに対し先輩も忘れていたようだ。「そうだった」と呟くともったいぶるように強へと語りかけた。
「例の頼みは……無事聞き入れてもらったよ」
パフォーマンスを披露するようにチビでか先輩が口を開く。その声に強がぱっと顔を上げた。
「おっ! マジすか!」
また何かを企んでいる――その悪だくみの匂いを感じ取って、皆人の胃がキリキリと痛んだ。
「先輩に何を頼んだんだよ……」
「内緒だ」
予想通りの答えに皆人は大きなため息をついた。
桜が縄で脅しても、鉄将の拳が唸っても、彼の口からその内容が漏れることはないだろう。
ということは――近々何かが起きる。ほぼ確実に。
できることなら自分が巻き込まれませんようにと、皆人は心の中で手を合わせるのだった。
「さて――」
その時。チビでか先輩が、軽く手を叩いて全員を静めた。
教室の空気が少しだけ引き締まる。
「七不思議の謎はこれで全て解決した。じゃあ求平君、君はこれからどうするんだい?」
誰もが心の中で思っていたが、口にはしなかった問いだった。
それを言葉にすれば皆との日々が終わってしまうような気がして――。
視線が集まる。全員が、強に注目する。
強はその中心ではっきりと笑った。
「部活をしようと思ってます」
「部活に入るのかい?」
「違います。俺が作るんです。この特別なメンバーで」
その瞳には曇りがなかった。
始まりから終わりまで見据えた者だけが持つ、未来への確信。
「良いよな? お前等」
強の言葉に皆が順に頷いていく。
「求平には借りがあるからな。どこまでも付いていってやるよ」
「私も! 皆といるの、すごく楽しいから!」
鉄将と美月がまず声を上げる。
「むしろ、あたし抜きは許さないわよ?」
「たまに刺激が強すぎて胃もたれするけどね……それでも僕は歓迎だよ」
桜と桐人も続いた。
「くーちゃんがいるなら、わたくしは文句ありませんわ」
「………………」
ローズに続き、ムックが静かに頷く。
そして残る一人、皆人の答えを強が静かに見つめた。
この目まぐるしい日々を皆人は思い返す。
悩み、笑い、巻き込まれては振り回された数々の出来事。だが、何より――楽しかった。
彼は軽く拳を握り、強の肩をぽんと叩いた。
「俺がいなきゃ、誰がお前らにツッコむんだよ」
それが皆人の答え。
そしてこの物語の次なる一歩の始まりだった。
だがその時、新たな疑問が浮かぶ。口火を切ったのは桐人だ。
「で、その部活は何をするの?」
「決めてない!」
「部活ってそんな簡単に発足できるの?」
「知らん!」
行き当たりばったりの男、求平強。
目的地だけを決め、そこまでの道は未舗装、看板なし、マップもコンパスも持っていない。
だが彼はそれを恐れず、笑って走り出す。
いつものように、その尻拭いをする羽目になるのは皆人だ。
その肩に、今にも後悔がのしかかろうとしていたが、それもまた手慣れた日常だった。




