51.夕暮れの鬼人(3)
そして現在に至る。
目眩ましは成功した——筈だった。
西校舎に逃げたと見せかけ、金髪はひっそりと北校舎のトイレに身を隠していた。
誰にも気づかれていない確信があった。だからこそ息を殺し、個室の中でただただ時間が過ぎるのを待った。
足音一つない空間。一つだけ閉じた扉。その奥で金髪は目を閉じ、逃げ切れることを信じ込もうとしていた。
だが気づいていなかった。
そのトイレのすぐ外、何気なくお菓子をつまみながら待機していたムックの存在に。
彼は静かに、音もなくそのトイレの前に立っていた。西校舎へと走った桜の姿を見届け、茶髪の取り調べにあたるローズは不在。
なんとなく通り掛かりに彼はトイレを覗いてみた。確信があったわけではない。本当の気紛れ。
もしかしたらーー。そんな予感に突き動かされた結果、彼は一つだけ閉められている個室を発見した。
それが金髪と決まったわけではない。しかしムックは万が一の可能性を考えてトイレの前でずっと待機していたのだ。
静寂の中で、お菓子の袋を開ける音だけが場違いに響く。
そして——中の人間が恐る恐る扉を開けた。金髪が廊下に顔を出し、右を見て、左を見て、安全確認の最中だった。
そして目が合った。二人の視線がぶつかる。
数秒の静止。
ムックはもごもごと口を動かしながらお菓子を呑み込み、そしてゆっくりと、にたりと笑った。
次の瞬間、両手を大きく広げて威嚇する。
「うわぁ!?」
金髪が跳ね上がる。男の中で格付けは終了していた。
彼は立ち向かうのではなく逃げを選択してしまった。
追い詰められた思考は後退という最も最悪な悪手へ導いてしまった。
正に袋小路、3階のトイレに逃げ場はない。
だからムックはひょいと手を上げ、奥から姿を見せた鬼を呼んだ。
そう、鉄将である。今や鬼としか形容できないその怒れる男は強や皆人、桐人にしがみつかれながらも、一歩、また一歩とこちらへと向かってきていた。
「そこかぁぁぁあああ!!」
怒声が校舎を震わせる。
その場の空気が一瞬にして張りつめ、ムックはようやく、自分がとんでもない存在を呼び寄せてしまったことに気づいた。
「止まれてっ、しょーっ!!」
三人掛かりで抑え込もうとしても、鉄将の歩みは止まらない。重く、破壊の予兆をまとったその歩幅に周囲の空気が歪んでいく。
何か様子がおかしい。そう思いながらもムックはお菓子の袋を見つめていた。
だから口元を忙しなく動かし、甘い煎餅を咀嚼しながら内心で焦燥をかき立てられていた。
そして鬼はムックの前を抜けトイレへと差し掛かる。
中に入ると一番奥の個室が微かに震えていた。鉄将の手が個室の扉にかかる。
鍵など無意味だった。
鬼の腕が振り上げられたと思った瞬間、鉄将はその巨腕で扉ごと壁を引き剥がした。
凄まじい破壊音。
砕けた扉が床を跳ね、個室の中にいた金髪が叫ぶ。
「ひぃ!?」
崩れ落ちた扉の向こうに見えたのは、憤怒に燃える鬼の双眸だった。
「ごめんなさい! ごめんなさいっ!!」
金髪は震え、頭を抱えてうずくまる。だがその謝罪は鉄将の耳には届かない。
拳が振り上げられる。
「鉄将止めろ!!」
「ごめんなさーーっ!!」
振り下ろされた拳が地を震わせる。壁を穿ち、石膏が砕け、瓦礫が飛び散る。
金髪の顔が蒼白になり、崩れた壁の穴を見つめる。
あの拳が自分に振り下ろされていたら——そう想像しただけで気を失いそうになる。
だが容赦なく二発目が放たれる。
ドゴン!! 重い音が壁を越えて響いた。
「止めろ鉄将っ!」
強が叫び、拳を止めようとするが彼は止まらない、止められない。
それでも拳は再び金髪を外れていた。彼の周囲にのみ、鋭い破壊の跡が増えていく。
金髪は白目を剥き、泡を吹いて倒れた。ズボンは濡れ、彼の誇りも何もかも砕けていた。
「鉄将君!」
皆人と桐人が背後から鉄将を押さえようとする。ムックも袋の中身を流し込み、慌てて抱きつく。
それでも鬼の怒りは収まらない。三度目の拳が天へと掲げられる。
もう、止められない——誰もがそう思った。その時、
「鬼怒川君っ!!」
その声が世界を貫いた。
「美月!?」
現れたのは妬根美月だった。
息を弾ませながら、凛とした目で鉄将を見つめる。すべてを見渡し、彼女は迷わず前に進んだ。
「危ないぞ、止めろ美月っ!」
皆人の制止も意に介さず、美月は桐人の背をステップにして高く跳んだ。
宙に浮いた彼女と鉄将の視線が交差する。
「目を覚ませ、ボケェェェッ!!」
魂を込めた頭突きが、真っ直ぐ鉄将の眉間に炸裂した。
——音が、空気を切り裂いた。
その衝撃に皆が呆然とする。鈍器と鈍器がぶつかる音。
かつて強が受けた頭突きの数倍の衝撃。思い出した強は思わず頭をさすった。
「いっ……てぇ……」
鉄将が小さく呻く。その一言に皆人は驚嘆の目を向けた。あれほどの一撃を受けて、それだけとは。
「鉄将、正気に戻ったか?」
「……俺は最初から正気だ」
「いやいや、話通じない時点でそれは無理があるでしょ……」
「なんだと?」
「もう、どっちでも良いからここで終わりっ!」
パンッ、と美月が手を叩いてその場を制する。そして鉄将の前に立ち塞がる。
これ以上、彼の手が汚れるのは許されない。そこに確かな意志があった。
「どけ。こいつは許せん」
「駄目! 鬼怒川君が本気で殴ったらこいつ……死んじゃう!」
緊迫した空気が再び張り詰めたその時、奥で乾いた音が響いた。
「お前か! あの女の子叩いたのはッ!!」
「へぶぅ!?」
「あとチビでか先輩をバカにした分だッ!!」
「ぶひぃぃ!!」
強が平手打ちを連発していた。金髪の顔が揺れるたび、湿ったズボンがくしゃりと音を立てる。
「……あいつは止めなくていいのか?」
「……ノーコメントで」
二人は視線をそっと逸らすのだった。




