5.学食の黒渦と食堂の平和条約
「で? そのくうちゃんって何だよ?」
重い空気を破ったのは強の鋭い問いだった。
皆人はまだぽかんとしたまま。その意識は遠く、夢の中をさまよっているようだった。
「くうちゃんはE組のマスコット! 灯と同じクラスですのよ! わたくしが遊びに行った時に、それはもう一目惚れでしたわ!」
「わかる!」
ようやく現実に帰ってきた皆人が無意識にうなずいた。けれど、その目にはまだ夢の欠片が揺れている。
「そしてわたくし達は無口親衛隊ですわ!」
「暇なときに付き合ってます」
「です」
その滑稽でどこか熱量のこもった名乗りに皆人はすぐに察した。
これはローズが一人で突っ走っているだけなのだと。
「なるほどな、ストーカーか」
「違います!」
きっぱりと否定しながらローズは購買部で買ってきたパンを喰臥へと差し出す。
「パシリですわ!」
「それもどうなんだよ……」
「頼まれてもないんですけどね……」
「くみちゃんが勝手に貢いでる」
「お黙り! わたくしはくうちゃんが美味しそうに食べる姿を見ているのが幸せなのです!」
喰臥はその名の通り言葉を発さない。ただ、目の前に差し出されたチョココロネを宝石のように見つめるとローズへペコリと頭を下げた。
その仕草はまるで小動物のように愛らしい。ローズと皆人は思わず「ぐわぁ!」と奇声を上げ、崩れるように後退った。
「何やってんだ、お前ら……」
強に呆れられた時点ですでに末期である。
だが二人にとってはいま確かに心が震えた。
それがときめきというものだと気づくのに時間はかからなかった。
「あなた、やりますわね」
「巨傲さんもな。……俺は普済皆人」
「ローズですわ」
そして二人は固く手を握り合う。周囲から見ればなぜか急に認め合い妙なテンションで意気投合した変人二人にしか見えなかった。
杏子も灯も、強でさえも、戸惑いを隠せない顔をしている。
その時だった。
強がふと視界の隅に違和感を覚えた。
その違和感に導かれるように視線を向け、そして——
「……なっ……」
衝撃に、息を呑んだ。
「皆人さん、あなたを無口親衛隊にご招待しますわ!」
「親衛隊、か……」
「あら? 何かご不満が?」
皆人は少し言い淀みながらも、慎重に言葉を選びはじめた。
「いや、くうちゃんは確かに……キュートだし。アイドル顔負けのビジュアルだし……。ローズ達のやってることも意外と必要なのかも知れない」
珍しく要領を得ない皆人にローズはまっすぐ見つめながら言った。
取り繕わず、正直な気持ちを聞かせて欲しいと。
——きっと、くうちゃんを好きな人に悪い人はいない。
ローズのその思考はどこか飛躍していたが、まっすぐだった。
そのまっすぐな思いを受け取り、皆人はゆっくりと思いを口にする。
「……親衛隊って名目で、独占するのは良くないんじゃないか?」
「な、な、なんですって!? わ、わたくしはそんなつもりじゃ——」
「でも、確かに他の人避けてた」
「無口君も別に喜んでるようには見えなかったですね」
「ぐはぁっ……!」
親友たちの追撃が容赦なくヒットし、ローズは膝から崩れ落ちる。
「こ、これは……わたくしのエゴだったということ……? ふ……ふふふ……オーホホホホホ!」
本気で脳がバグってしまったのかと、周囲から「救急車呼んだ方が良くないか?」の声も出る始末。
だが、皆人がそれを手で制す。
「大丈夫だ、彼女は正気だ。強に似てるだけだよ。……これが巨傲久美子の日常ってやつだ」
ネジが外れている相手ならいつもしている。
それが誇れることでないのは明白だがこの場でローズのことを思えるのは皆人だけだった。
「恋は盲目、とはよく言ったものですわね……」
ローズは手を上げ、潔く降参のポーズ。
皆人はそっとその手を取り、引き上げた。
「何も悪いことじゃない。親衛隊はローズなりの愛だった。それなら、こういうのはどうだ?」
皆人の提案にローズの顔がぱっと花開くように明るくなる。
「それ、良いですわね! あぁ、どうして気づかなかったのでしょう!」
「恋は盲目、だからだろ?」
「言いますわねっ!」
しっかりと、熱い握手が交わされた。
その手には、情熱と想いと、そして新しい友情が込められていた。
「くみちゃん……」
「なんて、なんて素晴らしいのでしょう……」
灯が、杏子が、そして見守っていた野次馬達がその光景に涙し、拍手が沸き起こる。
まるで国交が結ばれた瞬間のように。
この出来事はのちに『食堂の平和条約』と呼ばれることになる。
拍手が静まった時、誰もが思った——これで一件落着したと。
だが。
「見つけたぁぁぁぁあ!!」
耳を劈くような叫びが木霊し、皆の視線が一点に集中する。
「何だよ、強……いきなり」
皆人の言葉に強が震える指で指し示した先にいたのは——無口喰臥。
その視線を追った瞬間、誰もが目を疑った。
彼はまだ食べ続けていた。いや、食べるというより、吸い込んでいた。
チョココロネ、カレーパン、焼きそばパン、メロンパン……どれも消えるように彼の口に吸い込まれていく。
「まるで……バキュームカー……」
誰かの呟き。
だが皆人が静かに手を上げ訂正した。
「いや、これは……ブラックホールだ。そうか、君が——」
「学食の……黒渦!」
金敷高校の七不思議の一つ【学食の黒渦】。
まさかこんな形で出会うとは。
「お前の胃袋どうなってんだ!? お前の口は何なんだ!?」
強のテンションは天井知らず。興奮のあまり、喰臥のもちもちの頬をむにっと摘まみ、ぐいっと引き上げた。
「やめんかぁぁあ!!」
ローズと皆人の手刀が強の頭頂を鋭く叩き、強は床に沈む。
こうして、一つ目の噂は静かに幕を閉じた——
◇◇◇
そしてここからは後日談。
「見ろよ、普済」
振り向きざま、秋山が見せてきたのは一枚のカードだった。
そこには『無口喰臥ファンクラブ』の名と、会員番号0111、そして彼の名前。
「たまたま見かけたけど、E組の可愛い子って実は男だったんだな。いや、それでもスカート履いてたら完全に女の子にしか見えねぇよ」
「へぇー」
「でさぁ、何かファンクラブがあるみたいで会長の巨傲さんに言ったら作ってくれたんだよ。あの巨傲さんだぜ? しかも会員番号111、ゾロ目って凄くね?」
「へぇーすごいなー」
知らないふりでやり過ごそうとする皆人だが発案は彼である。
ファンクラブなら皆が平等に無口喰臥という存在を愛でる事ができるからだ。
もちろん、本人にも了承済みだ。とはいえ当の本人はそんなことなんて興味無さそうで、分かっているのか、いないのか、ただ頷くだけであった。
それよりも驚くべきところはローズの行動力だ。まだ二日しか経っていないのにどれだけ手回しをしたのか。
その会員数は驚愕に値する。
皆人は適当な相槌を打ちながらそっとポケットに手を入れる。
その内ポケットには生徒手帳——そして、誰にも見せられないある会員証がしまわれていた。
『無口喰臥ファンクラブ会員番号0000|名誉会長:普済皆人』
あんなことを言った手前、秋山に気付かれるわけにはいかない。
この唯一無二の会員証の存在に。