48.静かな花壇に揺れる影
クラスの空気が変わった。その変化に誰よりも驚いていたのは鉄将だった。
かつて人目を避けるように過ごしていた教室が今は少しだけ暖かい。
無数の視線が刺さっていたあの頃とは違う。どこか優しさを孕んだ空気がそこにはあった。
事件の元凶だった男子生徒は被害に遭った女子生徒へと深く頭を下げた。そして鉄将の方へも向き直る。
だがそれは恐怖からではなかった。自分の過ちにようやく気づかされ、彼女を救ってくれた鉄将への心からの感謝がそこには込められていた。
鉄将はその謝罪を静かに受け入れた。鉄将の中で全てが解決したわけではない。けれど確かに何かが一つ前へ進んだ気がした。
男子生徒も女子生徒も鉄将に向かって笑った。
それは今まで彼が一度も受け取ったことのなかった種類の笑顔。
あまりにも自然であまりにも無防備な、柔らかい光のような笑みだった。
その光に鉄将は戸惑った。どう応えればいいのかわからなかった。
ただ心の奥にわずかに染みこんでくるような温かさだけが残った。
そしてその日、求平強の姿を見ることはなかった。
放課後。鉄将はいつもと変わらぬ動作で水撒きをしていた。
蛇口を捻る音、ホースの先からほとばしる水の音。慣れ親しんだその音が今日は妙に遠く感じる。
今週に入ってからの目まぐるしい日々。感情の波に晒された心はようやく落ち着きを取り戻しつつあるが、それでもまだ胸の奥には言葉にならないざわめきが残っていた。
ふと、あの先輩の言葉が脳裏に過る。
「変われるさ。少しのきっかけで」
まるで魔法の呪文のように、唐突に投げられたその言葉。
もう諦めていた。そんな自分が変わるなんて最初は思いもしなかった。
けれど――もしかしたら、と今は思う。
鉄将はホースを巻き取りながら、ふと花壇に目を向けた。そこにはやっと芽吹きはじめた小さな緑の命があった。
力強く、けれど慎ましやかに、地面を押し上げるようにして伸びるその芽に鉄将は語りかけるように呟いた。
「……俺はどうすればいいんだ?」
「鉄将君!!」
「どわぁっ!?」
背後から飛び込んできた甲高い声に鉄将は文字通り飛び上がった。
一人言を聞かれていたことに気づき、慌ててわざとらしい咳払いでごまかそうとする。
振り返ると、そこにいたのは三つ編みを左右に揺らした女子生徒だった。どこか童話に出てくるような、素朴で柔らかな印象を与える。
その生徒に見覚えがあった。彼女は美化委員の一人だ。
「確か……天宮花だったか?」
「はいっ! 鉄将君の後ろの花壇にマリーゴールドを植えてるんですか?」
「……そうだけど。なんで知ってるんだ?」
「委員長から聞きました!!」
「そっか」
言葉が途切れた。そこに静寂が流れる。風さえも空気を読んだかのようにピタリと時を止めていた。
会話が続かない。鉄将は戸惑っていた。
なぜ彼女が突然話しかけてきたのか。美化委員以外での接点はない。これまでまともに会話をしたことすらなかった。
まるでヒントのないクイズを出されたような感覚だった。
「……で、俺に何か用か?」
沈黙が居心地悪く、先に口を開いたのは鉄将の方だった。
ややぶっきらぼうな言い方になってしまい、すぐに後悔する。
その一言で彼女の肩がぴくりと震えたように見えたからだ。
だが彼女はすぐに深呼吸をし、胸いっぱいに空気を吸い込んで――
「鉄将君とっ! 話してみたいと思いましてぇぇぇぇぇ!!」
「うるせぇっ!」
反射で怒鳴る鉄将。まるで歩く拡声器。声量の調節機能が壊れている。
それでも彼女は全く気にした様子もなく、にっこりと笑った。
「すみませんっ! なんか鉄将君とお話できるのがすごく嬉しくて!」
笑顔は一面を照らして、まるでひまわりのようだった。
常に全力なその姿に鉄将は思わず毒気を抜かれてしまう。
「鉄将君って意外に真面目で……あっ! 『意外』は失礼ですよねっ! ご、ごめんなさい! 鉄将君はいつも一生懸命に取り組んでて……だから、植物が好きなのかなって!」
「一旦、落ち着け」
思ったことをそのまま機関銃のようにまくし立てる天宮を鉄将は手をかざして制止する。
深く呼吸を繰り返した彼女の音量はようやく落ち着いた。
「でも……最初は、話しかける勇気が出なくて」
小さく呟いたその言葉は時を感じさせた。鉄将が彼女の目に留まってから今日まで幾度話しかけようと挑戦したか、その思いを今、鉄将は知ったのだ。
けれどーーと、彼女はすぐに顔を上げる。そして真っ直ぐな瞳で鉄将を見つめた。
「でも最近の鉄将君、優しそうな顔してるから」
それが彼女が一歩踏み出せた理由だった。
数日前までの鉄将ならきっと彼女は未だ手をこ招いていただろう。
変わったのだ。鉄将自身が気づかぬ内に。
その言葉を受け止めた鉄将はゆっくりと視線を落とす。
自分の中で渦巻いていた何かが音もなく少し溶けていく。
――求平強。
あの男が作り出してくれたこの変化。
そして今、自分がその変化を喜んでいるという事実。
「……さっき、植物が好きかって聞いたよな?」
「はいっ!」
「……俺はな、これまで植物なんて、全然興味なかった。好きでもなかった」
それはただの手段。自分を変えるためのきっかけにすぎなかった。
天宮は俯いた。求めていた答えと違っていたからだ。
けれど鉄将は視線を彼女に向けて続けた。
「……でも、これからは好きになれそうだ」
その一言が全てだった。
言った後で恥ずかしさが込み上げてくるが、もう構わない。
天宮は顔を上げた。瞳が一気に輝きを取り戻し、ひまわりのように笑った。
「だから……他にも教えてくれないか? 植物のことを……」
その頼みに天宮は胸いっぱいに息を吸って――
「はいっっっっ!!!」
「うるせぇっ!」
あらかじめ読んでいた鉄将は先に耳を塞ぎながら叫んだ。
二人は笑った。心から、笑っていた。
だがその微笑ましい光景を、遠くから見つめる影が二つあった。
いや――正確には鉄将だけを見ていた。
その視線には明確な敵意が宿っていた。握られた拳に、憎しみのような力がこもる。
鉄将は気づかない。
その笑顔の裏で、新たなトラブルが密かに動き始めていたことに――。
翌朝。強達のメッセージグループにある一つのスタンプが届く。
それはデフォルメされたドジョウが熱を出して布団にくるまっているもの。
これは、あらかじめ取り決められていた――ムックからのSOSの合図だった。




