47.求平強はG組を掻き回す
初日だけでは終わらなかった。求平強は次の日も変わらず現れた。
朝のざわめきの中、勢いよく扉を開けたかと思うと迷いなく鉄将の席へ一直線。
その手に持っていたのはふんわりとした小さな包みだった。
透明なラッピングの中にパウンドケーキのような焼き菓子が数個。淡いリボンが結ばれ、どこか少女らしい気配が漂っている。
「美月からだ。助けてくれたお礼だってよ。それと……お姫様抱っこありがとう、だって」
「おいっ、声がでかい!!」
鉄将が思わず制止するが時すでに遅し。その言葉はクラスの空気に波紋のように広がっていく。
「えっ? お姫様抱っこ!?」
「えっ? 人攫いじゃなくて?」
「えっ……なに? えぇ……?」
普段は表情を崩さない鉄将の顔が目に見えて狼狽えていた。
耳元から首筋にかけて、茹でた蛸のように真っ赤に染まっている。
それを尻目に、強はまるで他人事のように笑いながら包みのリボンを解いていた。
「ちょ、おいっ! それ俺のだろ!?」
「お前の物は俺の物!」
「どっちかって言うと俺用のセリフだろそれ!」
怒り混じりの拳が宙を切る。
だが強はひょいとバックステップでそれを躱すと、一つ、菓子を咥えて脱兎のごとく教室を飛び出していった。
残された鉄将は騒がしさと怒りと恥ずかしさの中で深くため息をつき、ようやく席に腰を下ろす。
その視界の端に残ったままのかわいらしく包装された焼き菓子。
甘いものは苦手だ。けれどその包みをひとつ手に取ると何かに導かれるように口に運んでいた。
ふわりと広がる甘い香り。
舌にのせた瞬間、砂糖の優しさとバターの温もりが心の奥まで染み込んできた。
教室の空気が微かに変わった。
気にしていないようで、誰もがその巨人の動向を気にしている。
そして鉄将が菓子を飲み込んだちょうどその時、扉が静かにスライドした。
「……旨かったろ?」
強だった。懲りることなく、またその顔を覗かせている。
鉄将が立ち上がろうと力を込めると、反射のように強の頭が扉の向こうへ消える。
数秒の沈黙。その間に再び顔を覗かせる。
まるでいたちごっこのような状態が数回繰り返される。
そろそろ予鈴が鳴る時間だ。
強がさすがに戻ろうとした、その時だった。
「……妬根に伝えといてくれ」
鉄将はうつむきながら、それでもはっきりと告げた。
「……美味しかった。ありがとう、って」
強は一拍の間を空け、口元を指で押さえて噴き出した。
「ぷーーーっ、鉄将ちゃん、かーわいいーー」
「てめぇ!!」
再び拳を振り上げたが、届く距離ではない。強は高笑いと共に扉を閉じて姿を消した。
取り残された鉄将は仕方なく椅子に座る。周囲からくすくすと笑いが漏れ始めた。
その一人に視線を向けると慌てた様子で手を振る男子生徒。
「あっ! ご、ごめん鬼怒川君、違うんだ。なんか見てたら……かわいいとこもあるなぁって思っちゃって……」
「いや、まぁ……別に……」
言い淀む鉄将の顔は耳の奥まで真っ赤に染まっていた。
――その様子を誰かが覗き見ていた。
廊下の隅。強は扉の隙間からひっそりと覗いていた。
「美味しかったってさ」
その言葉に、隣で聞いていた妬根美月は口元を手で覆い、ぽつりとつぶやく。
「……聞こえてた」
彼女の頬もまた、鉄将に負けず劣らず赤く染まっていた。
この日、何かが変わった。歯車が一つ、ゆっくりとズレた。
そしてその変化はじわじわと鉄将の中に浸透していく。
求平強――この男が空気を変えた。
クラスの視線が少しずつ鉄将に近づいていく。
その風は翌日にも続いていた。
いつもぎりぎりに登校する鉄将がその日はなぜか早足で校門をくぐっていた。
自分でも気づかないふりをしていたが本当は分かっていた。
今日もまたあいつが来るのでは、と、どこかで期待していた。
だから鉄将はG組の扉を開けた。
教室にはすでに半数ほどの生徒がいた。
談笑に興じる者、後方でボールを投げ合う男子たち――
そんな中、事件は起きた。
その一人の生徒が手を滑らせたのだ。
すっぽ抜けたボールが談笑中の女子生徒に向かって一直線に飛んでいく。
「危ない!」
誰かの叫び声とともに女子生徒はようやく気づく。しかし彼女の反射神経では目を瞑るのが精一杯であった。
――バンッ。
鈍い音が教室に響いた。
女子生徒は恐る恐る目を開ける。けれど衝撃はなかった。
目の前にあったのは大きな手。
その奥に見える頼もしき巨人の背――鬼怒川鉄将が寸前でボールを受け止めていたのだった。
鉄将は遊んでいた男子達を睨みつける。
「……大丈夫か?」
「あ、う、うん……ありがとう」
優しい声だった。
巨人の口から出るとは思えないほど、落ち着いた声音だった。
鉄将は彼女の無事を確認するとゆっくりと主犯へと歩を進める。
その巨体が近づくたびに彼らは恐怖で固まり、冷や汗を流す。まるで生きた心地がしなかっただろう。
目の前までやってきた鉄将が右手を上げ、反発するように男子生徒達はぎゅっと目を瞑った。
「ボール遊びは外でやれ。危ないだろ」
その言葉と共にボールを彼の手にそっと渡し、鉄将は自席へ戻った。
あまりに呆気ない結末に、教室中がぽかんとする。
――静寂。
教室中がそのあっけなさに唖然とする。
(もう、大丈夫だな)
廊下の奥。強はクラスの目が確かに変わったのを見て取った。
今まで纏っていたフィルターが剥がれ、ようやく鉄将そのものが見えはじめた。
だからこそ今は現れるべき時ではない。
強は静かにその場を離れることにした。
帰り際、彼の視界には映っていた。先ほど助けられた女子生徒が何かを手に鉄将に近づいていく姿を。
しかしそれ以上、盗み見するのは野暮ってものだ。
強はその手応えを胸に仲間のところへ帰るのだった。
「き、鬼怒川君!」
「ん?」
「さっきは、助けてくれてありがとう!」
鉄将が顔を上げるとそこにいたのは先ほどの女子生徒。
その手には可愛らしく包まれたクッキーの袋があった。
「料理部で作ったの! もし良かったら……」
おそらく、友人と食べるために持っていたものだろう。
鉄将は、断ろうとした。だが――
彼女の目には恐れがなかった。
あるのは不安だけ。このクッキーを受け取ってもらえるかどうかという、純粋な不安。
「……いいのか?」
「鬼怒川君は甘い物好きって聞いたから、ぜひ食べてほしい!」
彼女の情報は間違いである。むしろ鉄将は甘い物はあまり好まない。
その誤解は昨日、強がお菓子を持ち込んだからだ。そのせいでクラスの中で甘党のイメージが根付いていたのだろう。
けれどその好意を無下にはできなかった。
「ありがとう」
そう言って、鉄将はクッキーをひとつ口に運ぶ。
「……うまいよ」
ぎこちなく、それでも誠実に微笑む鉄将に彼女はほっとしたように笑顔を浮かべる。
鉄将の胸の中にひとしずく温かい思いが灯っていた。




