45.孤高の巨人は独りぼっち
授業中、鉄将の視線は教科書の上を素通りしていた。
板書を追うこともなく、頭の中では過去の記憶が断片的に霧のように浮かんでは消えていく。
この数日間で揺さぶられた心が入学当初の自分を引きずり出す。
鬼怒川鉄将は自分自身を変えたかった。
過去の自分を捨てるために。
誰も知る者のいない場所でまっさらな自分を始めたかった。
だから彼は電車をいくつも乗り継ぎ、地元から離れた金敷高校へとやってきた。
この背丈、この風貌――どれも否応なく目を引くものだったが自分が変わればいいと信じていた。
だからこそ、彼は人知れず決意していた。
何か行動を起こせば、変われると――。
鉄将は美化委員に立候補した。
金敷高校の委員会制度は厳格だ。
一・二年各クラスから五名ずつ、保健、体育、図書、美化、風紀の五つの委員に一人ずつが割り振られ、合計で八十名が学校運営の一端を担う。
最初、鉄将は風紀委員を希望していた。
変わるために、規律の側に立ってみたかったのだ。
だがーー鏡に映った自分の姿を見て、諦めた。
厳つい髪型、冷たい目元、それらが「風紀」という言葉と致命的に噛み合わない。
もしこんな見た目の人間が風紀を語れば、それこそ皮肉であり、挑発でしかない。
それでも意外なことに誰からも頭髪についての指摘はなかった。
この学校は案外そういった部分には寛容なのかもしれない――そんな淡い期待も胸に灯ったが、それでもなお、風紀委員という選択肢は封じられた。
他の委員も次々と希望者が立ち上がり、鉄将の手が上がる隙はなかった。
机の下でそっと握られた右手が何度も引っ込められる。
そして最後に残ったのが「美化委員」だった。
意を決して、鉄将は手を挙げた。
「えっ……? 鬼怒川、お前……大丈夫か?」
教師の困惑に満ちた声が今も耳の奥に残っている。
それでも鉄将は真っ直ぐに頷いた。
「……大丈夫です」
声に力を込めすぎたせいか、表情が強張っていたのだろう。
教師は気まずそうに咳払いしながら応じた。
「そ、そうだよな……じゃあ、よろしく」
その瞬間、教室に漂っていた視線の波が引き潮のようにすっと引いた。
こうして鉄将は美化委員としての第一歩を踏み出した。
初めての委員会集会は放課後のとある教室で行われた。
扉を開けて鉄将が入室すると、それまでの和やかな雰囲気がひと息に凍りついた。
会話が止まり、誰もが動きを止める。
――慣れている。
鉄将は無表情を崩さず、椅子の一つに腰を下ろした。
誰も何も言わない。その沈黙すら空気の一部のように馴染んでいた。
自己紹介が淡々と続き、委員長や副委員長がすぐに決まる。
役割分担も流れるように進んでいった。
鉄将には北校舎にある花壇の管理という仕事が割り当てられた。
一人で行える作業だ。自ら立候補したのもそれが理由だった。
孤立していたが、トラブルを起こすこともなく作業に打ち込む鉄将を見て、周囲は少しずつ警戒を解いていった。
けれど彼は常に目立たぬよう振る舞うことを忘れなかった。
委員会が終わっても誰も彼に話しかける者はいなかった。
業務を説明してくれた上級生も用が済めばすぐに立ち去った。
――それでもいい。
鉄将は自分の中で「踏み出した」という事実を大事に抱えていた。
毎日、彼は花壇へ向かった。
水をやり、枯れかけた花を摘み、必要な時は肥料も施す。
手順も育て方も分からず、その都度スマホや図書室で調べた。
初めてづくしだったが、それがどこか心地よかった。
――変われている。そう思っていた。
ある日、事件は起きた。
いつものように教室に入った鉄将は、教室が一瞬で静まり返るのを感じた。
落ちていたプリントを拾えば、怯えたように引き攣った笑顔で「ありがとう……」と礼を言われる。
そんな日常にもすでに慣れていた。
昼休み。
いつものように、人の少ない場所を選んで一人で弁当を食べようとしていた時のこと。
立ち上がった鉄将に背後から誰かがぶつかってきた。
女の子だった。足をもつれさせていたようだ。
勢いで鉄将の手から弁当箱が落ちる。中身が宙に舞い、床にぶちまけられた。
鉄将は息を飲みながら、その惨状を見下ろした。
(……母さん、ごめん)
小さく心の中で詫びながら、尻餅をついた女子に手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
だが――その手を取ろうとした彼女は、鉄将の顔と散らばった弁当を交互に見て、悲鳴を上げた。
クラスの視線が一斉に鉄将へと注がれる。
「鬼怒川! どうした!? 何があった!!」
教師が血相を変えて駆け寄ってくる。鉄将は声を低くして答えた。
「……ちょっと、ぶつかっただけです」
それだけを言い残し、黙っておかずを拾い、逃げるように教室を出ていった。
誰も彼を責めてはいなかった。
だが――あの視線が鉄将の心に鉛のように重くのしかかった。
ぶつかった女子はその後、いの一番に謝罪してきた。
だがその目は恐怖に濁っていた。
自分はやはり、他人と関わってはいけない人間なのだ。
その事実だけが鉄将の胸に静かに沈んでいった。
彼はそれから放課後、周りから身を隠すように美化委員の仕事に没頭した。
一人作業なのが救いだった。
ある日。
北校舎裏の花壇に新しく何を植えるか、鉄将は図書室で植物図鑑を探していた。
その時である。
「おーい、チビでかー! 良かったなぁ、優しい後輩がいてよぉ!」
嘲笑混じりの罵倒が耳に届いた。
思わず顔を上げ、書架の隙間から覗き込むと、そこには小さな背の少女と一年生と二人の上級生。
その少女の目には見覚えのある色が宿っていた。
寂しさと、怒りと、諦めと――今の自分と同じ色。
鉄将の拳が自然と握られる。
けれど自分が出ていけば彼女を余計に怖がらせてしまうかもしれない。
その事実が鉄将を押し留めた。
唇を噛み、迷っていると、前の三人は少女を挟んで熱を上げていく。
お互いに引くことはなく、一年生は真っ直ぐに相手へ噛みつき、拳が振り上がりそうになるその瞬間――。
鉄将の身体が無意識に飛び出していた。
もう人に関わるまいと決めたはずだった。
けれど、止めなければ誰かが怪我をする。そう自分に言い訳しながら足は一年生の元へ向かっていた。
その男こそが求平強だった。
その場は逃げるように立ち去った鉄将。もう関わることはないと思っていた。
しかし後日、学校新聞で求平強を見て吹き出し、中庭で駆け回る彼を見つけていつの間にか歩み寄っていた。
まるでアンコウの光に引き寄せられる魚のように、それが運命であるかのようにその足は自然と強へ向かっていったのだ。
その瞬間、鉄将の中の何かが、確かに音を立てて、ひび割れた。
あの時、名乗るつもりはなかった。しかし気がつけば自分の名を口にしていた。
ーーそれは人と繋がるための小さなパス。
それを鬼怒川鉄将は無意識に求平強へと渡していた。




