4.杏子の救世主
杏子はこの日、とてつもなく緊張していた。
もともと恥ずかしがり屋でひどいあがり症。
そんな自分が教室のど真ん中で自己紹介をしなければならないのだ。声が震える。手も冷たい。この緊張感は三年ぶりだった。
中学一年の春、自己紹介で頭が真っ白になった、あの時以来。
しかも、今回のクラスには顔見知りが一人もいない。孤立しないだろうか。誰にも話しかけられずに、一人浮いてしまわないだろうか。
不安が胸に重たくのしかかる。
中学の時は不意に話しかけてきた金髪縦ロールのお嬢様と前髪ぱっつんの彼女とすぐに打ち解けた。縦ロールのお嬢様は少し強引だったけれど、むしろ自分のような引っ込み思案にはそれくらいがちょうどよかった。
(……何ですかこの漫画でしか見たことない髪型は? 後ろの人はお付きの方でしょうか?)
当時の第一印象は正直、かなり失礼だった。でもお嬢様は見た目に反して常識的でぱっつんの彼女も芯のある優しい友達だった。
けれど、その二人も、他の仲良しも、この教室にはいない。
この未知の空間で頼れるのは自分の力だけ。
だからこそ、自己紹介だけは――絶対に失敗できない。
人は第一印象で他人を判断してしまう。自分だってそうだった。
金髪縦ロールなんて向こうから話しかけてこなければ怖くて近づけなかったに違いない。
(大丈夫。私はできる。できる……!)
杏子はゆっくりと深呼吸し、早鐘のように打つ心臓をなだめた。
男子が一人欠席していたせいで自己紹介の順番が思ったより早く回ってくる。
頭の中で何度も練習した定型文を繰り返すがほんの小さなひびが心に焦りを生む。
カウントダウンのように迫る出番。張り裂けそうな胸の鼓動。そして、ついに彼女の番。椅子を引き、立ち上がった瞬間――。
真っ白になった。
その時だった。
「おっはよーさん!」
突然、B組の教室の扉が勢いよく開いた。
視線が一斉にその男に集まる。場の空気をかき乱すように現れたのは、一拍置いて大きな声で語り出した。
「求平強だ。好きなものは目玉焼き、もちろん半熟な! 嫌いなものは……っと、人に弱点を教えるほど俺は甘くねぇ!」
呆気にとられる教室。その中で彼はなおも堂々と続けた。
「身長175センチ、体重は乙女の秘密さ!」
確実に、今の笑みで彼のことを苦手に思った人が生まれたことだろう。
そんなことは彼にとっては些事だ。
「恋愛相談大歓迎、俺は恋愛のプロだぜ。そして血液型はB型だ!」
沈黙――そして静まり返るクラス。
「あら?」
あまりの無反応に強はほんの少し困惑の色を浮かべた。せめて苦笑でも取れるかと思っていたがまさかの完全スベリ。
空気をどう軌道修正しようかと考える間もなく、場に居合わせた体格のいい男性教諭がようやく正気に戻った。
「こらぁ求平! 初日から遅刻とは何ごとだ!」
「すまねぇ先生、横断歩道で困ってて……」
「誰がだ!」
「先生の奥さんが!」
「何で賭けに出たんだ! わしは独身だ」
しばしの小芝居。初日ということもあり、教諭はため息をつきつつ、結局強を許した。
彼はそのまま自分の席へと向かい――ふと、教室の中央で一人、突っ立っている女子に気づいた。
こういう時の強は妙に勘が鋭い。
一瞬で状況を察し、静かに杏子の前に歩み寄る。
「悪い、邪魔しちまったな。求平強だ。よろしくな」
「あ、はい、岡屋杏子です。よろしくお願いします!」
杏子は自分でも驚く具合に力が抜けた状態で練習していた通りの自己紹介を口にできた。
本人にとっては強だけに向けて言ったつもりだったが、クラスメイト達はそれを全員への自己紹介と受け取ったらしい。
「こらぁ求平、さっさと座れ! ……岡屋も自己紹介ご苦労。座っていいぞ」
「え、あっ、はい……」
こうして杏子の最大の危機は――不意に訪れた救世主によって静かに去っていった。
そしてその後、「あの男の子ヤバくない?」という共通の話題が生まれたことで杏子も自然と隣の子たちと会話が弾み、友達の輪が広がっていった。
彼女にとって強は紛れもない恩人となったのだ。――これがこの話の全容である。
「お前は、相変わらずだな」
「褒めんなよ」
「褒めてねぇよ」
「しかもな、なんと三人に恋愛相談されたぜ? 男子一人、女子二人だ」
「……イカれてやがる」
おそらく、からかい半分の相談だったのだろう。でも問題は、そこではない。
求平強――この男のことだ。きっとわざと遅刻したのだ。誰よりも注目されたい、それが彼の信念。
長年の付き合いがある皆人には、よく分かっていた。
「とても愉快な方ですわね」
「お前には負けるよ。何だその髪型、少女漫画か?」
金髪の縦ロールは口元に扇子を当てて高笑いする。完璧なお嬢様スタイル。まるで演じているのではなく生まれながらにしてお嬢様という存在だった。
一呼吸置き、彼女は優雅に自己紹介を始めた。
「わたくしはローズ。そして、こちらが……」
「小野灯」
「岡屋杏子ですぅ……あと、巨傲久美子ちゃんです」
「本名はやめてくださいまし! ローズですわ!」
「くみちゃん」
「お黙り灯!」
三人の戯れはしばし続いた。
そしてふと、彼女たちは周囲の空気に戻り、もう一人の存在に視線を向けた。
騒がしいやり取りの中、まったく関心を示さず、黙々と――いや、狂気的なまでの集中力で超山盛りの白米を食べ続ける一人の人物がいた。
「彼は無口喰臥さん。通称くうちゃんですわ!」
「えっ? 彼?」
皆人の見事なまでの二度見。
それもそのはず。誰もが顔立ちにしか目がいっていなかったが、よく見れば着ているのは男子の制服。机の下に隠れていたのはスカートではなくズボンだった。
「お、男……?」
自分が見惚れていた相手が、男だった――。
その事実に皆人の心が崩れ落ちる。
ちょうど白米を食べ終えた彼は、教室中の視線に気づき、まっすぐに、無垢な瞳で皆人を見つめ返した。
それには一度目の衝撃で耐性ができている筈だった。なのに二度目の衝撃はそれをゆうに乗り越えて皆人へ多大なダメージを与えていた。
(うん……男でもいいや)
皆人の一ラウンドKO負けであった。