37.六不思議達の休日(3)
一色桜は優雅な朝のひとときを過ごしていた。
寝巻き姿のまま、手入れの行き届いた縄の繊維を指先でなぞりながらもう片手ではスマートフォンを軽やかに操る。
通話ボタンを押してから四つ目のコールが鳴ったところでようやく電話の向こうが応答した。
「……もしゅもしゅ?」
掠れた声に桜は苦笑した。
「美月? 今日、暇?」
「ん~~……?」
布団の中で転がるような曖昧な返事。桜はその声に夜更かしの名残を感じ取った。
おそらく昨晩も遅くまでゲームに没頭していたのだろう。
その様子を想像しながら桜は言葉の調子を一段落とした。
「……とりあえず、顔洗ってきなさい」
「うーん……行ってくる」
通話は続いたまましばらくの間、水道の音や足音が携帯越しに聞こえてきた。
やがて水の音が止まり、代わりに小さな唸り声が一つ。
そしてそれに続いて明るい声が戻ってくる。
「一色さん、どうしたの?」
「暇なら女子会しない? ローズにはもう声かけてあるわ」
「別にいいけど、どこ行くの?」
「お昼食べながら決めよっか。じゃあ時計台に集合で」
軽やかに約束を取り付けると桜は通話を終える。
「さてと、まだ時間はあるし……」
朝食は簡単に済ませ、桜はリビングの窓際でマニキュアを塗りながら、指先の輝きに目を細めた。
途中ふと何かを思い出したようにスマホを手に取り、慣れた手つきで強に短いメッセージを送る。
『今日はデートしないわよ』
送信した直後、すぐに既読がつき間を置かず返信が返ってくる。
『最初からする気ねぇよ』
『今日は3人で女子会なの』
『聞いてねぇよ』
『羨ましい?』
『構ってちゃんか?』
『よし、今度縛る』
『理不尽だろ!』
桜はそのやり取りを眺め、画面越しに慌てる彼の様子を想像してクスリと笑った。
まるで新しいおもちゃを与えられた子どものように心が浮き立つ。
そのままふと、ここ最近の出来事が脳裏をよぎった。
日常の中に突如として現れた、予想外を繰り出す男、強。彼は桜の平凡な日々をまるで何かの魔法のように色づけた。
授業、友人との会話、そして時折訪れる気の抜けた男達との遊戯的な拘束。
そんな変わらない毎日の風景が彼の存在だけでまるで違ったものに思える。
びっくり箱のようなその男は何が飛び出すか分からない。
けれど、だからこそ面白い。果たし愛という呪いのような執着を砕き、新しい感情の扉を開いてくれた。
「おっと、もう準備しないと……」
床に寝転がりながら緊縛の参考書を読んでいた桜は時間を確認して小さく呟いた。
時計を見ると集合時間の一時間前。彼女はクローゼットを開き、手慣れた手つきで数着を取り出しながら鏡の前で服を当てては首を傾げる。
「……まぁ、これで良いか」
桜が選んだのは薄い桜色のリブニット。
首元にあしらわれた控えめなフリルが彼女の魅力を後押しする。
スカートはふわりと広がる白のフレアで膝下までの丈感が品の良さを演出している。
そしてトレードマークのリボンは白のサテン地。ナチュラルながらもしっかりと桜らしさを主張するコーディネートだった。
桜は縄をリュックにしまい、外出の前に両親の部屋へ向かう。
扉に掲げられた小さなプレートが視界に入る。
『ノックしてね。パパより』
桜は律儀にノックをすると、中から緩んだ父の声が返ってきた。
「はーい」
「パパ、開けていい?」
「いや~、ちょっと今は……娘に見られたくないかな~?」
「そう、じゃあ出かけてくるね」
「いってらっしゃい! ……あっ!?」
その声を背に桜はそっと扉を少しだけ開け、中の様子をスマホに収めた。
そこには芸術品のように縛られ、天井から吊るされた父の姿があった。
一階へ降りると、母の声が優しく響く。
「あら桜ちゃん、おでかけ?」
整った顔立ちと穏やかな物腰。まるで姉と見まがうほど若々しく、そして美しい母の姿に桜は胸を張る。
この母が自慢でないわけがない。
「見て、さっきのパパ」
桜はスマホの画面を見せる。母はそれを一瞥し、頬に手を当てて小さく笑った。
「ここの縛り、手が込んでて凄いわね。バランスも完璧」
「まだまだよ。幅に数ミリのズレがあるし、編みも遅いわ」
親子とは思えぬ高度な会話。それでも桜はその背中に憧れの眼差しを向ける。一色凛桜——この母こそ、彼女が目指すべき緊縛の師だった。
胸を躍らせながら桜は家を後にする。
芸術を味わった直後のように心は高揚し、空の青ささえ一段と澄んで見えた。
予定はまだ白紙。けれど、それもまた楽しい。行き当たりばったりも三人なら立派な冒険になる。
そんなことを思っていると集合場所の時計台が視界に入ってきた。
ちょうど時刻は正午。からくり仕掛けの時計が優美な音色を奏でながら時を告げる。
音に耳を傾け、しばしその旋律に身を委ねていると——
「どこですのぉぉおおお!!」
その穏やかな空気を突如として吹き飛ばす絶叫が響いた。
白のワンピースは袖にレースをあしらったクラシカルなデザイン。金の縦ロールを際立たせるように上品にまとめられている。
胸元には小さな薔薇の刺繍があり、見る者に高貴な印象を与える。
頭に乗せたストローハットにはリボンと羽飾り。バッグはイタリア製と思しき上質な革で彼女の手元で軽やかに揺れている。
まさに街に降りた舞踏会の姫君のような装いだった。
だがその表情は今、優雅さとはほど遠い。時計台を駆け回り、目をギラつかせているその姿は洗練された台風のようだ。
それはローズだった。
桜は通りすがりにその足元をさりげなく払った。
一瞬体勢を崩したものの、持ち前の運動神経で華麗に着地。ローズはすぐさま怒りの表情で桜に詰め寄った。
「何しますの!?」
「あんたこそ何してんのよ……」
ギャラリーの視線が痛い。大半は派手なローズに向いているが数人は桜にまで注がれている。それでも桜は気にも留めず、冷静に問いかける。
「どうしたのよ?」
「どうしたもこうしたもありませんわ! ありませんわぁああ!!」
「うるさい」
駄々をこねる子どもをあやすようにローズを落ち着かせ、ようやく話せる状態まで持っていく。ローズは震える手でスマホを突きつけてきた。
画面にはドーナツを片手に時計台に寄りかかるムックの姿。どこかのんびりとした表情が妙に画になる。
「皆人さんから送られてきましたの……あぁ、くうちゃんは何処へ……」
「それって結構前の写真じゃない? どうせ他の場所に移動してるでしょ。皆人に聞けば?」
「送りました! でも既読がつきませんの……」
「もう……仕方ないわね」
桜はローズの頭を撫でて宥めながら、スマホを取り出して一通のメッセージを打ち込む。
その直後——
「ごめーん、遅くなった!」
とびきり元気な声が響いた。振り返れば、夏の陽を浴びたような笑顔で美月が手を振って駆け寄ってくるのだった。




