23.果たし愛のその後
「やりやがった!!」
「まじかよ……やべえな、あいつ……」
「あの人、誰なの!?」
「一色……嘘だろ……!?」
歓声でも悲鳴でもない。衝撃の余韻だけが場に深く染み込んでいた。
道場内には興奮が空回りしたような騒然さが残り、そこにいた誰もが現実をすぐには受け止めきれずにいた。
まず口を開いたのは主に男子生徒達だ。その熱量の裏には「あの一色桜が敗れた」という衝撃と恐れがある。
誇りが粉々に砕ける音が彼らの喉から漏れた言葉に滲んでいた。
一方、桜のファンである女子たちは悲鳴を上げることもなくただ静かに立ち尽くしていた。
現実を受け入れてはいる。だが、口をつぐみ、目に涙をため、沈黙を守っていた。
偶像が崩れ落ちた瞬間に言葉は無力だと、本能で知っていた。
「押忍。ありがとうございました」
静けさの中に凛とした強の声が響いた。
「えっ……あ……ああ……」
呆然と立ち尽くす柔道部の主将がそれに生返事を返す。道着を差し出されて手に取ったものの、その視線は虚空をさまよっていた。
魂が体を抜け落ちたような、茫然自失の面持ち。
強はそれ以上言葉をかけることなく義手とブレザーを肩に担ぎ桜のもとへ歩み寄る。
桜はうつ伏せのままかすかに呻いている。彼女の髪が畳に散らばっていた。
唇を噛んで悔しさに震えていた。でも泣いてはいなかった。
強が振り返る。負けた彼女に手を伸ばす。
「大丈夫か? すまんな、俺が強すぎたせいでお前に土をつけちまった」
桜は一瞬、睨みつけた。だが次の瞬間、ふっと表情がほどけた。
「……あんた、最っ低」
桜は強の手を取らなかった。彼女の心に残る悔しさが考える前に彼の手を弾いていた。
「いいわよ……おとなしく敗けを認めるわ。あんたの勝ちよ」
ギャラリーが一拍遅れて沸き立つ。拍手が巻き起こり、口笛が飛ぶ。
中には「男女平等!」と叫ぶ者もいた。だが誰もが知っていた。それがどれだけ苦しい勝利だったか。
桐人はその場で立ち上がり拳を握った。誰にも聞こえない声でぽつりと呟く。
「……ありがとう。強君」
その瞬間。彼の計略と強の勇気がただの策ではなくなった。
それは物語だった。一つの奇跡だった。
道場の天井は高く、窓から差し込む午後の光が畳を金色に照らしていた。
強はその光の中でただ静かに右手を天に掲げた。
勝者の姿はどこまでもまぶしかった。
強は仲間達の元へとゆっくり歩き出す。たった数メートルがまるで数時間のように長く感じられる凱旋。
だがその終わりには熱い祝福が待っていた。
実況担当、解説役、両手が自由になったお嬢様、大食らい。仲間達が歓声もろとも強に飛びかかり背中に平手を浴びせていく。
その全てが「よくやった!」という言葉の代わりだった。
「いってぇな、おい!!」
強が両手を上げて威嚇のポーズをとると仲間たちは歓笑と共に四方八方へ散っていった。まるで熊に驚いた小動物のように。
その喧騒の中で強は一人にだけ名を呼んだ。
「桐人」
その名に応じるように惰性桐人が静かに足を止める。背中越しに呼ばれた声にはただの感謝以上のものが含まれていた。
振り返った彼の表情は静かに揺れている。
「……何?」
「お前がいてくれたから、勝てた。ありがとう」
「けど僕は作戦を考えただけ――」
「誇れよ」
強は少し照れくさそうに、だが誠実な笑みを浮かべた。
「俺達二人の勝利だ」
「まったく、君達二人は……」
言葉の端にどこか温かさが滲む。皆人が言った言葉をまさか強が言うとは。二人の長い絆が自然に滲み出ている。
桐人は静かに右手を差し出した。感情の波を飲み込み、涙を押し込めるようにただ一言。
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人の手がしっかりと重なった、その瞬間だった。
「強さん! よくやりましたわね」
勢いよく背後に飛びついてきたのはローズだった。
「いくらわたくしが桜さんの手の内を明かさせたからといって、まさかここまでやるとは思いませんでしたわ! 後日貴方が桜さんの犬に成り下がったところを三時間ほど撮影して、皆さんの前で上映会をしようと思っていたのにその計画が台無しですわ! どうしてくれますの!?」
言いたい放題だ。いつもの強なら問答無用で彼女を前に投げているところだが、今日は違う。
もう力は残っていなかった。ローズは満足げに彼の背中にぶら下がったまま微笑んでいる。
そんな一幕に皆人とムックも加わろうとしたその時、道場の扉が勢いよく開かれた。
「求平君が一色君を手籠めにしたって!?」
現れたのはチビでか先輩だった。息を切らしているのは情報の鮮度ゆえか。
「確かに間違ってない」
皆人の冷静なツッコミの後を追うように、今度は岡屋杏子が勢いよく登場した。
「求平君が一色さんを押し倒したって聞いて!」
「……あながち間違ってない」
正確には「引き倒した」が事実だが世間にはどう聞こえていたのやら。
そんなことを考えていると客人がまだ止まらない。次にやって来たのは小野灯であった。
「私の占いの勝利」
「それはほんとにそう!」
開口一番それであった。希薄な表情だが掲げられたVサインが彼女の心情を語っている。
強は礼を言いつつ義手を返還していた。
「灯の占いもたまには役に立つんですわね」
背後から聞こえた失礼な物言いに杏子が僅かに身を引いた。
「……久美子ちゃん。あなた、何してるんですか?」
一瞬だけ――本当に一瞬だけ、杏子の顔に鬼神が宿った。雷を孕んだような無音の怒気。ローズはそれを見て戦慄する。
自分が見知った親友の中に見たこともない狂気が潜んでいた。
「求平君も困ってるじゃないですか」
杏子が穏やかに言う。だがその声は刃のように鋭かった。
「いや、俺は別に……」
「何ですか?」
「……なんでもないです」
あれほどの死闘を乗り越えた強ですら声を小さくしていた。
ローズがそっと背中から降りると不思議と杏子からも殺気が消えていた。あっけないほどに。
それを見て皆人は過ぎ去った嵐に安堵の息を落とすのだった。
「私を置いて話をしてんじゃないわよ」
そう言って現れたのは一色桜だった。鼻にティッシュを詰め、首をさすりながら。どうやら立ち直ったらしい。
「悔しいけど完全にやられたわ。手品みたいにいろいろ物が出てくるし……あんた何者なのよ?」
その問いに強と桐人は顔を見合わせて「にしし」と笑った。桜は不満そうに眉をひそめる。
「……まぁいいわ。で? 強って言ったわね。あんたは果たし愛に勝った。ってことはあたしはあんたと付き合うわけね?」
「ああ! 仲間としてな!」
「……はぁ?」
桜の頭上に浮かぶはてなマーク。チビでか先輩は流れを察して微笑むが、杏子は首を傾げたままローズに耳打ちを求めている。
皆人は嘆息しながらこれまでの経緯を桜に説明した。七不思議の話。彼女がその一つであること。
そしてあの誤解を招く発言の原因はただのアホの失言だったことも――。
桜は黙って最後まで聞いた。静かに、しかし確かな熱を残した沈黙の後、彼女は一つ頷いた。
「なるほどね……逆に好都合だわ」
「えっ……?」
悪い予感が背中を撫でるが桜は「こっちの話」とだけ告げ、全てを断ち切った。
「ってか勝負を挑まなくても話くらいは聞いてあげたのに」
「……誰がこの状況に導いたんだっけ?」
一斉に視線が集まる。彼女を仲間にしたければ勝負して勝てば良い、そう言ったのは確かにローズだ。
「わたくしが言わなくてもどうせこうなっていましたわぁ!」
「かもしれないが……とりあえず有罪」
「い、痛いですわ~~!!」
お嬢様は強の腕の中で軽やかに吊し上げられていた。




