20.主役は遅れてやってくる
「……負けましたわ」
静かな声が柔らかな風に溶けるように試合場に響いた。
「怪我してんでしょ? それであそこまで追い詰められたら……あたしの立つ瀬がないわ。今回は痛み分けってことで」
二人は仰向けのまま、見上げた天井越しに言葉を交わす。
汗と息遣いとそしてほんの少しの安堵と悔しさが入り混じった空気。
互いに手を伸ばすでもなく、ただそこに同じように倒れ伏しているという事実だけが戦いの尊さを語っていた。
のちにこの一戦は語り草となる名勝負となる。
それを目にした誰もがこの光景を瞼に焼き付け、心に深く刻むことになるだろう。
それほどに心を打つ試合だった。
「強君はどう思う?」
実況席で静かに見守っていた桐人が、ふと尋ねる。
問いかけに強はわずかに眉を寄せ、そして真っ直ぐに答えた。
「怪我がなけりゃ、ローズが勝ってた……って断言はできないけど俺はそう信じてる」
「そんな、新キャラを立てたいけどライバルの株を下げたくないから怪我設定でバランス取る格闘漫画みたいなノリで来られても……」
「ツッコミが長い」
一刀両断だった。鋭くも的確な一言に皆人は苦笑を漏らした。
そして不意に強は視線を隣の桐人に向け、問いかけた。
「桐人はどう思った? 一色桜のこと」
桐人は少し目を細めたまま静かに口を開く。
「恐ろしいね……ほとんどの技が一撃必殺に繋がると見た方がいいよ。ローズ君はあの怪我を抱えながらよく捌いた方さ」
「対策はあるか?」
「何とも言えないけど、弱点がまったく無いわけじゃなさそうだね」
そこで強は小声で囁くように何かを桐人に差し出した。
それは手書きのメモか、あるいは図解された技の応酬か。いくつかの秘策だった。
桐人はそれをしばし眺めそして口元を緩める。
「……これは面白いね。うん、使えるかもしれない」
その瞬間から、二人の作戦会議が始まった。
なぜ桐人なのか。皆人はすぐにその理由に思い当たる。
彼の目は異様なほどよく見えている。
自分には到底追えなかった場面を桐人は冷静に見極めていた。
実況の合間にふと呟いた分析の一言一言も、見逃せない鋭さがあった。
そう、この男――惰性桐人がこの【亀甲乙女】攻略のキーマンとなるのはもはや疑いようがなかった。それが彼の言った夢へと繋がるのだ。
強が指を鳴らす。
するとムックが生えてきた。……というのは例え話だが冗談抜きにそこへ現れたのだ。
あまりに自然にまるで舞台袖から役者が登場するかのように。
満足げな顔で登場したムックの様子に皆人の表情が一気に和らぐ。
間食を終えたムックは胃袋も心も満たされたのだろう、その幸福感がこちらにまで伝播してくる。
強はローズに視線を送り、ムックはそれを受けてすぐに駆け出した。
その所作はまるで長年連れ添った芸達者な犬と信頼しきった飼い主のようだ。
「さてと、俺は準備に入るかな」
呟きながら強は柔道部員へ向けて歩き始めた。
その背中を見送りながら皆人は自然と胸が高鳴っていることに気づく。
(あの桜にあの強がどう挑むのか――楽しみだ)
「そう考えればここもある意味、特等席だな」
「でしょう! しかも僕の実況付き! まさにプラチナチケットさ」
「桐人ってさ……格闘技とか好きなのか?」
「特にプロレスが大好きだね。もちろん観る専門だけど」
なるほどと皆人は頷いた。
確かに、桐人の引き出しの多さはその派生で積み重ねた知識の賜物なのだろう。
興味が無いことにはまるで無関心な彼がこんなにも熱心に関わってくれる。それだけで皆人の表情が綻んだ。
そんな皆人の思いを余所に、まだ仰向けのままの桜が口を開いた。
「ねぇ、巨傲さん。……あたし達って良いライバルになれると思わない?」
しかしいつまで経っても返事は返ってこない。
不審に思った桜が身を起こすと、その視線の先にあったのはまるでコントのような光景だった。
「あああああああああああっ!!」
小さな少年――ムックが両手を縛ったままのローズを縄で引き摺っているではないか。
その姿に桜は目を丸くし、すぐに自らが結んだ縄を引き寄せる。
……だがそこにあったのは千切られた縄であった。
(いつの間に!? 縄に触れた感触すら……全然なかったのに)
切断面をよく見れば僅かに擦れた跡がある。
だが注意して見なければそれはまるで刃物で斬ったかのような見事な断面だった。
少し切れ味の落ちたカッターナイフか何かで切られたのだと桜は考えた。しかしそんな安易な考えをやすやすと飛び越える事象、異端は自分以外にも蔓延っているのを彼女はまだ知らない。
桜の縄はただ千切られたのではない。噛み千切られたのだ。
「ただいまですわ!」
「お帰り」
「良い試合だったよ」
ムックに引き摺られながらもローズは満足げに笑っていた。
その様子に皆人は「それでいいのか?」と一瞬思ったが彼女が幸せそうならそれでいいのだと、静かに口を噤んだ。
「次戦う時は扇子に刃物を仕込んでやりますわ」
「そこは正々堂々戦わないのか……」
柔道場の床に寝転んだまま高らかに笑うローズの声が響いた。
どこまでも茶目っ気のある。お嬢様らしい締めくくりだった。
「そういえば強さんはどこにいますの?」
ローズの言葉に促され、周囲がふと周りを見渡す。
確かに、強の姿がどこにも見当たらない。
その瞬間、場がざわめき始める。
「逃げたんじゃないか?」
「今の戦いを見て怖じ気づいたんだろ」
無責任な憶測が飛び交うが皆人も、ローズも、ムックも、桐人さえもーーそんなことはないとはっきり分かっていた。
だからこそ落ち着いて、遅れている主役を待てるのだ。
「待たせたな!!」
その声と共に更衣室の引き戸が勢いよく開かれた。
そこに現れた強は奇妙な格好をしていた。
ぶかぶかの柔道着に黒い手袋。張った肩にサングラス、そして頭には未だに刺さったままのストロー。
胸には主将の名が縫い付けられていた。
……何かのパロディか、はたまた大道芸か。
「……なめてんの?」
その格好で桜へ相対するものだから彼女の眉が歪む。
さっきまでの熱戦の余韻が一瞬で吹き飛ぶ。
試合のメインディッシュと前菜が逆になったような、そんな気分にすらなる。
だが強の瞳だけは真っ直ぐだった。
「本気も本気だ」
「……あんた名は?」
「求平強。お前を倒す者だ。覚えとけ」
その堂々たる立ち姿に浴びせられるブーイング、しかし強は揺るがない。
内容で黙らせる。それが強の流儀だ。
今この瞬間、求平強が主役として舞台に立った。




