2.彼にとっての平和な居場所
金敷高校は正門からコの字を描くように三つの四階建て校舎が並ぶ。左の西校舎に一年と二年、右の東校舎に三年、そして奥の北校舎には特別教室――理科室、美術室、音楽室などが配置されている。
一学年320人、一クラス四十人、八クラス構成。皆人はA組、求平強はB組に所属していた。
A〜D組が一階、E〜H組が二階である。それぞれ教室に向かう朝の足取りも、もう慣れたものだった。
入学から二週間。
普済皆人はようやくこの場所を『平穏な日常』と呼べるようになっていた。
中でも前の席の秋山という男の存在が大きかった。
彼の人当たりのよさと程よい距離感はどこか安心できるものだった。
「そういやさ、普済。あの噂をよぉ? 聞いたか?」
「噂? ……七不思議か?」
思わず朝の出来事がよぎる。
「何だそれ?」
きょとんとした秋山に皆人は一瞬気まずそうに視線を泳がせた。
「いやなんでもない。で、何の噂だよ」
「いや、そっちの方が気になってきたんだが?」
「すまん、忘れてくれ……」
心の中では「あの七不思議はどこで拾ってきたんだよ!」ともう一人の自分が嘆いている。
だが口には出さず、ジュースを奢るということで話題を戻した。
「噂ってのはな……」
秋山は一度言葉を切った。皆人はその真剣な眼差しに唾を飲み込む。
「E組に超かわいい子がいるってさ」
「……なんだ、そういう系か」
「なんだって何だよ。男のロマンだろ? 特に新しい高校生活には最重要なイベントの一つだと言ってもいい」
秋山はどこか芝居がかった語り口で話しながら笑みを浮かべる。
浮かれた話題のようでいてどこか無邪気すぎず、現実感のあるその温度に皆人は小さく笑った。
秋山という男は見た目こそ飄々としているがその観察力と距離感の取り方には大人びたバランス感覚があった。
空気を読み、人を傷つけず、それでも言うべきことは言える――そんなところが皆人は心地よかった。
「ってわけで、見に行こうぜ!」
「どういうわけだ!?」
ツッコミながらも皆人は秋山の言葉の奥に、ほんの少しの冗談と、本気と、興味が混じっていることを見抜いていた。
「やめとけ。そんなに話題になってるならもう他の連中も群がってるだろ。じろじろと見られて嬉しい子ばかりじゃない」
そう言いながら心の中では「強は例外だけどな」と小さくつぶやく。
秋山は数秒黙り、そして「それもそうか」と肩をすくめた。
「まぁな。別に声をかけるわけでもないしな。どうせそのうち廊下ですれ違うか、学校イベントの時にでも顔見るだろ」
「だから秋山とは話が合うんだよなぁ」
「やめろ、気持ち悪ぃ」
いつものやり取りの中にささやかな信頼があった。
このまま一日が終わってくれたら……そんな願いは昼のチャイムによってあっさりと打ち砕かれた。
――ドタドタドタッ。
廊下を騒がしく駆け抜けてくる音。A組の教室のドアが乱暴に開く。
皆人は顔を上げるまでもなく、その足音の主が誰かを察していた。
「待ったか!?」
「誰が待つんだよ、毎回よ!」
入口近くの席というデメリットが今日も最大限に発揮される。
「よう求平。今日もご機嫌だな」
「秋山こそ、今日もご機嫌麗しゅう!」
「Yay!」
拳を合わせて笑い合う二人を皆人は半ば呆れながら見つめていた。
秋山と強。
どこで仲良くなったか知らないが不思議と波長が合っている。強の破天荒さに秋山が合わせているのか。
ともかく、強が言いたいことを言い、秋山が受け流し、それでも信頼がそこにあることは誰の目にも明らかだった。
そして秋山との挨拶を終えた強が急に真剣な目を皆人に向けた。
「行くぞ」
「どこへ?」
「決まってるだろ」
嫌な予感しかしない。
だが、強のその目に浮かぶのはただの勢いではない。何かを確かめようとするような、どこか探るような意志が垣間見えた。
「学食だ」
「俺は弁当がある……ぉぉおおおおい!」
有無を言わさず引きずられていく皆人。
秋山はそれを見て、片手を軽く振って見送った。
「行ってらっしゃ~い」
その横顔には微笑が浮かんでいる。
皆人は嫌そうな顔をしていたがその歩幅は強に不思議と揃っていた。
「何だかんだ言って、付き合い続けてるんだよなぁ……これが友情ってやつか?」
そんなことを考えてみた秋山だが正解はきっと出ない。
まぁいいか、と彼は黙って弁当を手に取り、クラスメイトたちの輪へと歩み寄っていった。