18.亀甲乙女(3)
皆人は縛られたまま転がる老人を見つめていた。
その眼差しは哀れみを含んだものだった。
視界に入るたび、彼の語った熱弁が思い出され、その威厳が風化していくのを感じる。
いや、それだけならまだしも。これほどまでに話の余韻を自ら壊してしまう人間が存在するとは皆人の常識の中にはなかった。
せめて理由を聞かせてくれと、皆人はひとつ質問を投げかける。
「……あなたはなんで縛られてるんですか?」
老人は一度咳払いをしてからどこか誇らしげな面持ちで言った。
「教え子たちだけにやらせるわけにはいかん! 教育者とは先に立つものである!」 「で、返り討ちにあったと」
「全盛期に比べたら儂も衰えたものよ……」
「そうですか。ちなみに今のお気持ちは?」
「……癖になりそう」
ためらいもなく漏れ出た本音。もはや皆人は何も言えなかった。
「老人がずっと縛られているのは見ていられない……僕が外してあげましょう」
そんな折、ふいに現れた強が真面目な顔で縄を解き始めた。皆人は目を丸くする。
突拍子もない登場。だが、強の言葉遣いが丁寧な時は要注意だ。大抵ろくなことを考えていない。
そして縄を解き終えた老人はまるでお年玉を取り上げられた子どものような目で強を見ていた。
「……もう少しあのままでもよかったのに」
「本音が出てるぞじじい」
皆人のツッコミはもはや慈悲を持たない。するとすぐ近くで別の声がした。
「さすがですわね、桜さんは」
その姿を見て皆人は絶句した。
「……何でお前はそんなボロボロなんだ?」
そこに立っていたのはローズだった。制服は乱れ、髪はふわふわとほつれている。
まるで猫と格闘でもしてきたかのような様子だ。
「少し強さんとじゃれただけですわ」
「ほんとにバトってたのか」
本番はこれからだというのに余計なことで体力を消耗している奴ら。
どちらが勝ったのか気にはなるがそれより気になるのは強の頭に突き刺さっているストローである。
(……もしかして本当に脳ミソチューチューされたのか?)
皆人はその異様な光景から目を逸らすしかなかった。
前方で歓声が上がる。主将が一色桜の襟を取ったのだ。
他の部員たちとは違い、気迫と技術を兼ね備えている。しかし、その左手は身体の脇に縛られており使えない状態だった。
右手一本で戦う不利な条件。だが、桜との体格差を考えれば十分に勝機はある。
主将は一気に体を回転させ、桜を肩に担ぎ上げる。
力任せに投げ飛ばそうとするがその瞬間である。
桜の体が空中で弾けるように反転し、猫のように地面に着地した。
「そんな馬鹿な!」
主将の顔から血の気が引いていく。
あれは決まってしかるべき技だった。たとえ片手でも桜のような少女を地面に叩きつけるには十分なはずだった。
だが、現実は違った。
彼女は空を舞う蝶のように、しなやかに的確に着地した。
そして音もなく距離を詰め――主将の瞼が静かに閉じられた。
次の瞬間には彼もまた美しい縄の模様の一部となっていた。
道場は静まり返った。倒れ伏した柔道部員達を前にして一色桜が静かに立つ。
そしてその場に響くように叫んだ。
「あんた達ねぇ、一週間前と何も変わってないじゃないの!」
「二度目かよ」
「三度目じゃ」
――とんだ変態部である。もはや稽古の名を借りたプレイだった。
「でも主将さん、あんたは良かったわ。前より強くなったわね」
その言葉に主将の目が潤む。
「一色……俺は……! お前が好きだ! 付き合ってくれ!」
「あたしに勝機を見出してから言いなさい。その時は一回だけ本気で戦ってあ・げ・る」
艶やかにウィンク一閃。
柔道部員達は一斉に沈黙し静かに膝をついた。
その表情には敗北と恍惚の入り混じった、複雑すぎる感情が浮かんでいた。
試合は終了した。顧問の老人がすっかり開放された身体で一色桜に手を差し出す。
「よい試合じゃった。皆、貴重な経験を積ませてもらった。礼を言う」
「いえ、こちらこそ。対人戦で技を磨くいい機会でした。あ、そうだ。縄は洗って返してくださいね。柔軟剤はラベンダーでお願いします、好きなので」
要望が細かい。そしてあの縄が使い回しだったという事実を知って、無限に出てくると思っていた皆人は自分が完全に麻痺しているのだと認識したのだった。
「じゃあ、失礼します」
桜が鞄を拾い、去ろうとしたその時である。
「おいおいおいおい、まさかこのまま帰れると思ってねぇだろうなぁ?」
「試合が終わってもここからは『死合』のお時間ですわよ」
ローズと強が雑魚キャラじみた台詞で彼女の前に立ちはだかる。なぜそんなセリフを選んでしまったのか。
皆人は嘆息しながら見つめるしかなかった。
「何? 飛び入りってわけ?」
「ああ! お前は俺の求平殺法に敗れるのさ!」
恥ずかしげもなく大声で宣言する強。そのメンタルの強さだけは尊敬に値する。
「求平殺法? あまり聞かない流派ね。まさか、闇の!?」
桜のノリも最高だった。
何故この学校の人間はこんなにも強と波長が合うのか。もはや運命としか言いようがない。
だが強が前に出ようとしたそのとき、ローズが手で制する。
「……やれるのか?」
「わたくしを誰だと思ってますの?」
交差する視線。二人の間に熱が走る。 強は頷き顧問の方へ向き直った。
「先生、場所を少し借りるぜ」
空気が変わる。
熱を失いかけていた観衆の目に再び火が灯る。まさかの延長戦に。
野次馬達は荷物を置き、再びその場に集まってきた。
そして桜とローズ――【亀甲乙女】と【放課後の哄笑】の行く先が分からない異種の闘いが幕を開けようとしていた。
皆人はもう限界だった。
「助けてくれ桐人……ツッコミ切れない」
泣きそうな声で懇願する皆人だが桐人はどこからか机とパイプ椅子とマイクを出し、実況席を組み始めていた。
「さぁやって参りました! 注目カード、巨傲久美子 vs 一色桜! 実況は私、惰性桐人が務めます! さてこの組み合わせをどう見ますか、解説の普済さん!」
「……早く帰りたいです」
皆人の心からの本音だった。