17.亀甲乙女(2)
「なるほどな……確かに、めちゃくちゃモテそうだな」
皆人はぽつりと呟いた。一目見ただけで理解できた。
彼女は男子人気を独占する類の美少女だ。だが、皆人の推しはあくまでムックだ。だから決して靡くことはない。
「実際、相当告白されたらしいよ」
「……だろうな」
「それで面倒になって、『私が欲しければ』――」
「勝負して勝て、か」
普通の人間ならどれだけ告白されようとそんな結論には至らない。
合理でも、冷静でもない。彼女、一色桜はまともではない――が、その破天荒さが逆に惹きつけてやまないのかもしれない。
男子生徒達が彼女に目を奪われていく様を見ながら皆人はふと、自分も危うかったのではと背筋を冷やした。
もし、彼女の手にあの縄がなかったなら――。
「……そうだよなぁ」
この噂は美しい美少女の話ではない、異質な人間が選ばれる金敷高校の七不思議の一つ【亀甲乙女】なのだ。
皆人は目の前に広がる光景に思わず言葉を失った。
柔道場の床にまるで見世物のように転がる柔道部員達。その体は見事なまでに縄で編み込まれていた。
しかもただの拘束ではない。脚と腕を結び、背中を反らせた状態――俗に言う「亀甲縛り」である。
不思議とその結び目には芸術的な精緻さがあった。乱れがなく、幾何学模様のように美しい。
皆人はそんなことを思ってしまった自分に驚き、同時に感性が麻痺してきていることを悟る。
そして今、また一人、彼女の「試合」が始まる。
主審が号令をかける。
桜の前に立つのは彼女よりも頭ひとつ分大きい男子生徒。筋骨隆々で威圧感がある。
その男がじりじりと距離を詰めていくにつれ、桜は後退――しているように見えた、が。
彼女は床を鋭く蹴り、体を低く滑り込ませる。
桜の体がまるで風のように男の股下をすり抜け、背後に抜けた瞬間、すでに縄は男の両足に絡まっていた。
男の巨体がぐらつき、崩れる。
地面に男が接するまでの一秒足らず、彼女の手がわずかに動く。その一瞬で完全な拘束が完成する。
「一本!」
主審の声となぜか湧き上がる歓声。
「何が!?」
皆人は思わず叫んだ。納得がいかない。けれど、道場全体がこの狂気を当然としている。
「まさか、あそこから一本が出るとはね……」
「お前も柔道のルール知らねえだろ!」
ツッコミが止まらない。皆人の脳は既に過負荷気味だった。
「というか、え? なに? 俺の目には桜が腕を交差したら柔道部員が縛られてたんだが?」
「おっ! 結構見えてるじゃないか。一般人にはその初動すら掴めないよ」
「いや、人の動きじゃないって言ってるんだけど?」
「ん?」
「ああ、これって俺がおかしい感じ?」
そうか、ここは異界だったかーー。皆人は思考放棄に走るのだった。
二戦目。新たな柔道部員が現れる。
前の男よりさらに体格が良く、見るからに慎重な構え。
主審の合図で始まるが、双方動かず、膠着する。
――静けさは長くは続かない。
次々と「指導」が入り、あと一つで反則負けという局面へ追い込まれる。退路を断たれた桜は突如猛然と前進した。
「ってか何でそういうところは柔道のルールに則ってんだよ……」
「しッ! 静かに!」
来る桜に男が右手を振り下ろし、彼女の襟を取ろうとする――が。
彼女はその動作の隙を縫い、流れるように左手に縄を引っ掛け、距離を取る。 一瞬のすれ違い。
縄が男の腕に絡まっただけに見えたが――。
「技あり!」
「何にだよ!!」
もはやルールも理屈も吹き飛んでいた。それでも試合は続き、縄の端を引き合う力勝負へ。
桜の腕が震える。だが揺るがない。
やがて男の足が前に滑る。踏ん張りがきかず、そのまま桜の手元へと吸い寄せられていく。
体格も違う男女、なのにその力勝負は桜へ軍配が上がった。
交差する瞬間、桜は力を込め、残りの縄で要所を縛り上げた。
遅れて倒れる男。もはや戦いというより舞踏。観衆が息を呑む。
「技あり! 合わせて一本!」
「ノリで言ってるだけだろぉぉ……!」
皆人は天を仰ぐ。だが、既に道場の空気は一色桜という異端のリズムに取り込まれていた。
柔道部員を残すはただ一人。その存在はひときわ覇気を放っていた。全身から放たれる威圧感。柔道部の主将だという。
「柔道部が全員で何してんだよ……顧問に怒られないのか?」
「むしろ儂が一色君に頼んだのだよ」
「うわぁ!?」
いつの間にか隣にいた老人――柔道部の顧問だった。
「……何でですか?」
皆人の素朴な問いに顧問はしばし考え、語り始める。
「柔道で一番大切なことは何か、分かるかね?」
「……どう相手を投げるか?」
「組み手争いに勝つことですか?」
「その通りじゃ!」
横から割って入った桐人が即答。悔しくはないが何か複雑な気持ちになった皆人だった。
「一色君の組み手はまさに芸術。あれは柔術の枠を超えて新たな道を示しておる」
「……あんなの、柔道なんですか?」
「君は見えていたかね? あの技のすべてを」
その問いに皆人は黙して首を横に振った。
いくら目が慣れてきたといっても桜の動きは点と点でしか記憶に残っていない。 縄が放たれ、六角形が一瞬で編まれ、気づけば完成している。
それを柔道の「組み手」と捉える顧問の視点は――狂気に満ちていた。
「君に見えていなくてもいい。儂らには彼女から何かを学ぶ機会がある。それが武道の本質じゃ!」
顧問は吠えるように語り、まるで戦国の軍師のような気迫を見せる。この熱い老人に引っ張られ、柔道部は強くなろうとしている。
老人の言葉は人を動かす。
その想いを聞きながら皆人は思った。
(この格好じゃなけりゃあなぁ……)
目線を下げると亀甲縛りの老人の姿が目に入る。
皆人は静かにため息をついた。