夢の続き
鈴虫の声がした。
月の光を乗せた秋の涼やかな風が、カーテンを揺らめかせた。
夏の熱気で火照った頬を撫でていく。
その心地よさに、遥の意識がやさしく包み上げられた。
「あれ?」
ぱちり、と目を開ける。
知らない天井だった。
カーテンで仕切られて周りの風景もわからない。
身を起こす。特に疲労感は感じなかった。
すとん、と。重めの掛布団が落ちた。
「空閑さん起きたー?」
仕切りの向こうから声がした。
人影が映り込む。
カーテンが開けられる。白衣の女性がいた。
どこかで見たことのある顔だと遥は思った。
「あ、保健室」
「覚えている? 具合が悪いって自分で来たんだけれど」
記憶になかった。
頭を巡らせて、最後に見た光景を思い出す。
「あ、ああ。そうでしたね」
元に戻った街並みと一緒に莉彩の姿を記憶している。
彼女の魔法を使えば、そう錯覚させることも可能だろうと思い至った。
そんな配慮をしてもらえるとは思っていなかったが。
「どう、体調は? 親御さんには連絡入れてあるけれど」
「ぴんぴんです。すみません……寝不足がたたったみたいです」
「やあね。空閑さんそんなにバイト詰め込んでる子だっけ?」
「いやぁ、ただの夜更かしですね」
「よくないわよ。早寝早起き。いくつになってもこれが肝要よ」
「はーい」
腰を回して、ベッドから脚を伸ばす。
狙いを外してつま先に冷やっこい感覚を味わう。
気を取り直して、上履きに足を差し込んだ。
「鞄はほら、そこにあるから」
何かしらの帳簿にペンを走らせながら、保険医は顎でどこぞを指し示す。出入り口に傍らにあるベンチに、見覚えのあるリュックが置かれていた。
「じゃ、お世話になりました」
「はい、お大事に。気をつけて帰るんだよ」
リュックを背負い、そそくさ保健室を出る。
時計を盗み見れば、部活の終了時間に重なろうとしていた。
閑散とした廊下に鼻先が冷たく感じる。夜の廊下は、孤独を浮き彫りにさせると遥は思った。
昇降口で靴を変えて外に出る。
夜のとばりが目に沁みる。
星は見えない。指をさしても、一番星は見つからなかった。
風が吹き抜けていく感覚に、胸のあたりに生まれた空洞を自覚した。
「そっか」
遥は言う。
「奏はもういないんだ」
どこか現実味がないのは、生活のいたるところに彼女の痕跡を感じるからだ。
今だって、その足は奏との思い出を目指している。
そうすることでしか、遥は歩き出せなかった。
「ねえ、アト」
街灯に伸びた影からしゃぼん玉のような猫が浮かび上がる。
その姿を瞳に映して、遥は言った。
「アトは、アトのこと知らないんだよね?」
「あるいは、きみの夢のようにね」
「わたしが奏に伝えようとしていたのは、願いだった」
奏に生きていてほしかった。
だが、それだけなのだ。彼女を生き返らせようとすら、遥は思えない。
「やっぱりさ、叶えたいことなんて初めからわたしにはないんだよ」
「そうだろうか?」
アトは首をひねった。
感情の機微など窺えない、透き通った目で遥の困惑を映す。
「少女の魔法は夢と希望でできている。どうなりたいか、どうしたいか。夢がないというのなら、きみがどうしたのかを思い返してみるといい」
どう行動したか。どんな行動を、していたか。
「……あの日、屋上でわたしは、どんなかたちでも奏の手を取った。今日だって、同じように……届かなかったとしても、わたしが奏に生きていてほしかったことが、なくなるわけじゃない」
「きみたちは自分の内側から望みを発生させるのに、その是非を他者に求めるよね。それを間違いとは言わないけどさ。承認こそが、異なった思想の交換に至る唯一の方法なんだからね」
饒舌に猫は喉を鳴らす。
「ボクらの関係もそうさ。ボクはきみを魔法少女と認めた。きみは魔法少女であることを認めた。だからボクときみたちは会話が成り立つ」
「その承認を、決めるのは自分だよね」
「それが信じるってことだよ」
結局のところ。
その信じるに足るものを――夢を決めるのは自分ということだ。
「それは大変だ」
空を見上げる。
嘲笑うように光り輝く月だけが空に浮かんでいる。
「ほしいのは、それじゃないのになぁ」
近くに見えているもので満足しないのは、強欲か。
星に手を伸ばす。その指先に、見えなくたって輝いているはずだと信じて。そんな在り方に憧れを抱いてしまうのは、間違いか。
遠くを目指し翼を失うのは、愚かなことか。
街灯はとうに途切れ、自身の影も人波のなかに見失った。
遥には何もわからない。
答えが出ないまま、その場所にたどり着いた。
駅前のビルのひとつ。商業施設の一角にある映画館だ。
発券機の上部にある予定表に目線を配ると、目的の作品はそう待たなかった。
チケットを手にして、飲食物は夕餉のことを考えて控えることにした。その段になって母へ連絡をしていなかったのを思い出す。
SNSで帰宅が遅れる旨を伝えて、了承が返ってくる頃に呼び込みのアナウンスが聞こえた。
奏が封切りを楽しみにしていた映画だった。
指定のシアターに入って座席に着く。
予告の流れるスクリーンに記憶を見つける。魔法少女になって少し経ち、だからといって魔法を振るうことはなく、奏と過ごす時間が増えたころ。
エンドロールが終わって、照明が点る。耳をすませば雨が屋根を叩く音が聞こえてきた。傘はあるのに雨宿りと言って、古い映画の流れるあの劇場を案内されたのだった。
隣の席に座る友人に目を向けると、無邪気に目を輝かせる、意外な横顔を見つけた。
呆気に取られていると、興奮気味な視線が交わった。
「どうだった!?」
それは、映画の感想を求めているのだと理解が及んだ。
しかし、奏がここまで興奮する作品に対して、遥の胸中はもやもやとしたものに覆われていた。
「その……最後の爆発のシーン、いるかな?」
「いるよ! そうしてふたりはしがらみを断ち切るんだからさ」
かつては幼馴染であったふたりの少女は、その片割れが特別な才能を見いだされたことで離ればなれになった。身分の差が距離を生んで、それでも幼き日に交わした約束を――分かたれることのない誓いを胸に抱き続けて、数々の困難を越えた末にふたりは手を繋ぎ自由への逃避行を果たした。
「それでハッピーエンドっぽく見せてるけど、絶対に追いつかれるよね」
「ロマンが足りてないよ、遥」
ぴんと立てた人差し指を左右に振って、奏は言った。
「そういった道理をすべて壊してくれるのが爆発だよ」
「ご都合主義じゃない?」
「夢のある話と言ってほしいね」
「むしろ夢から覚めた気分だよ、こっちは」
「本来はそのためにエンドロールがあるんだけどね。夢はここで終わりって知らせるために。急に現実に戻されたら、失明してしまうかもしれないからね」
「ずっと続いててもよくない?」
「終わらない夢は叶わない夢と同義だ。もう少し、あと五分……けど、どこかで目を覚まさなきゃ、それは終わりのない現実さ。そんな永遠は救いがない」
「現実に夢はないってこと?」
「そうじゃないよ。たとえばね、少し前に私はこんな夢を見たんだ。青い蝶になって空を飛ぶ夢をね。世界が一様によく見えた。どこにだって行ける気がしたよ」
奏の瞳はここではないどこかを見つめているようであった。
「その羽根で大きな崖を飛び越えようとしたんだ。向こう側に新しい景色があると信じてね。けど、行けども行けども底の見えない穴が続く限り。疲れ果てた私は、その穴に落ちていくんだ」
「そこから……どうなったの?」
「ただ目が覚めたさ。落ちて待ち受けるのは不思議の国ではなくて、現実だよ。体がさ、ビクッってなって起きたこと、遥にはない?」
「寝れそうーってときに段差から落ちる夢を見て目が覚めるやつだ」
「だからね、叶わない夢があるだけなんだよ、遥。夢がないなんてことはない。見れるんだからね……映画がそうであるようにさ」
「そう……だから奏は、夢を叶える魔法少女なんだね」
あらゆる前提を無視して夢を叶える魔法。それは奏の語る爆発のそれだった。
「糾弾は受け入れるよ。それでも私は、この方法こそが幸福だと思う。べったべたの砂糖菓子を浴びるような、幸せな結末だって思うんだ」
「わたしに責める資格はないよ。理解もできないけど……」
遥が魔法少女になったから――なってなかったとしても。
夢を叶える奏と夢を持たない遥の関係は、いつか平行線をたどる。
その予感が、自分の胸中にだけあると、遥は悟っていた。
それでも、
「こんな時間が永遠になればいいって、思うからさ」
「そうだね……けどきっと、叶わない夢だ」
惜しむように黒い瞳を伏せて、言った。
夢を見せるアイドルの〈天音〉が、夢を叶える〈救済〉の魔法少女が。
夢にただ夢見る少女の、天音奏が。
ゆえにこそ、彼女の夢物語は永遠を語る。
叶わない夢があると知っていて、叶えるための奇跡に手を伸ばした。
「だからさ、映画くらいは楽しい瞬間で終わってくれたほうが希望的なんだって思うよ」
奏の爆発オチへのこだわりは、今以て理解できていない。
だとしても、彼女と共有した時間が楽しいことには変わりなかった。
過ごすにはあまりに短く、思い出すに永遠と思えるほどに。
そうして奏がいなくなった今、彼女が楽しみにしていた映画は爆発で幕を閉じることなく、ささやかな幸福で結ばれた。