夢の終わり
銀色の少女は惑っていた。
夕景に背を向けて。
足取りはふらふら頼りなく。
手に持つビニール袋を泳ぐ金魚の飴細工は、今にも壊れそうだ。
「ねえ」
彼女の足元にいつの間にか、透明な猫が寄り添っていた。
「天音奏の影すら見ずに、いったいどこへ向かう気だい?」
アトの言葉は耳を通り過ぎる。それは、今の瑠依の優先順位にのぼらない。
一寸先に見る風景と、目の当たりにする光景に差異を覚える。
見える風景は、銀幕のようにただ遠い。
だからか、誘われるようにその扉に手をかけた。
鈴は鳴らない。けれど、開く。
「瑠依ちゃん?」
予期せぬ来訪者を迎えて、老女は困惑を顔に浮かべていた。
瑠依としても、まさか彼女がいると思って来訪したわけではなかったので、わずかに息をのんだ。
「いらっしゃい。鍵、開いてたかしら?」
それに瑠依は答えない。
鍵は閉まっていた。ただ、魔法で開けただけだった。
「忘れもの、かしら?」
「……忘れたものなんて、瑠依にはない」
「ならどうして?」
「わからない」
「わからないのなら、それは忘れものですよ」
老女は受付を出て、瑠依の肩へふれる。庇護を目的としたか弱い感触が、少女は既視感を与えた。
水槽のなかで衰弱していく金魚の姿が脳裏をよぎる。埋葬のためにかき分けた土の固さが、指先によみがえった。
「……瑠依は、失くす人だ」
「そう簡単には、なくなったりしませんよ」
「でも、あなたは夢を失くす」
「まあ、終わったら、続きはしませんね」
「だれかが観なきゃ、映画は終われないはず」
瑠依の言葉に、老女は目を丸くした。
「あなたは、見送ってばかりだ」
静かに、けれど張り裂けるような声で瑠依は告げた。
「あなたの夢を、だれが見送る」
「……そっか。瑠依ちゃんは、最後まで夢を見せてくれるんだね」
「わからない。ただ……瑠依は、涙を流して終わりなのがいやだ」
「あまり趣味は合わないかもしれないわね」
老女はまゆじりを下げた
「……少し、昔話をしてもいいかな?」
瑠依が首を縦に振るのに従って、手にした金魚の飴細工も揺れた。
「立ち話もなんだし、劇場に行きましょう。まだ片づけてない椅子あるから」
老女は受付で電気系統の操作を行う。劇場に灯りが灯った。
小さな冷蔵庫に手をかける。瑠依は、赤い缶の炭酸飲料を渡された。
「行きましょ」
パイプ椅子はあらかた片づけられていて散漫としていた。
瑠依は、できるだけ真ん中の椅子に腰かけた。軋む音。もうひとつは、出入り口の近くからした。
スクリーンは真っ白なまま。ぼうっとそれを見上げる老女は、記憶を投影するように口を開いた。
「サンタクロースっているでしょ」
「いない」
「信じればいるのよ。まあ、欲しいものをくれた記憶はなかったけれどね」
老女は、呆れたように少し笑い、老眼鏡をはずした。よく見ると、瞳がやや濁っている。
「初めは絵本だったの。手作りのね。それが毎年一冊ずつ。うちのサンタクロースは小学生で終わりだったの。家の手伝いも本格化する時期だったから」
「最後は、どんな絵本だった?」
「……最後のプレゼントはね、ずっと観たいって言っていた映画のチケットだったの」
「映画……」
「一回きりで使ったらなくなっちゃうチケット。けど、有効期限があって、何より絶対に観たかったから、映画館に行ったの」
その口吻に熱が宿る。歳月を重ねるなかで円熟していった火が、瞳に灯った。
それが消えなければいい、と瑠依は思った。
「これは、あのころの私に向けた贈り物。ねえ瑠依ちゃん。この映画館でわたしが最後に観ようと思ってた映画……小さなころに見た夢を終わらせるために、一緒に見てくれないかな」
銀色の少女はただ、静かに頷いた。
結露が指先を濡らす。照明が落ちても、瑠依は缶を開けなかった。
その作品は、ある女性の栄華と転落を描いたものだった。
憧れの地で女優としての夢を叶えようと奔走する少女。ときに手酷い失敗をしながら、それでも希望を失わずに、夢へと近づいていく。
「希望は永遠なんだ。歌と一緒でね」と、主人公が好きな映画のセリフとした語った言葉が、瑠依の耳に残った。
挑戦の数々と、そこで出会う人々との縁が重なって、ついに女性は夢を叶える。
しかし、夢を叶えてしまったがために彼女は生きる気力を失う。栄光は転がり落ち、失意の底で拳銃を咥える。
発砲音と共に画面は暗転した。
エンドロールが流れる。瑠依が知る名前は、もちろんひとりだっていなかった。
照明が灯ると「お疲れ様」と老女の声がした。
彼女の手には、何も握られていなかった。
瑠依はそれを見とがめると、すくりと立ち上がった。
胸の前に炭酸飲料の缶を抱えて。揺らさず、まるでトロフィーでも持つように。
そして、老女へ差し出した。
「これは、あなたが飲むべきだ」
「この歳になるとなかなか甘い炭酸飲料はね。同じ色ならコーヒーのほうが得意だわ」
「苦さは、今だけはいらない。あなたの終わりは、甘すぎるくらいがちょうどいい」
その不器用な言葉に、老女は息をのんだ。
「瑠依は見届けた。この場所から出ていく」
「……この場所はちゃんと、思い出になれたかな?」
「瑠依は憶えている」
「じゃあ、ハッピーエンドだ」
銀色の少女が差し出す缶を受け取って、老女はプルタブを少し苦労しながらはじいた。
ぬるくなっているであろう黒々した飲料に、ゆっくり口をつける。
ほとんど抜けているであろう炭酸に、それでもびっくりしたのか。肩をわずかに上げて、飲み口から唇を離す。
「甘いわね。なんだかどきどきしちゃう」
「生きている」
「そうね、まだまだ生きていけるわ」
そう力強く言った老女の眼球には、老化による白濁が見えた。
瞳を輝かせる灯火は、もうどこにもない。
こうして街の片隅でひっそりと、ひとつの夢が終わりを迎えた。