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進路希望

「髪の毛ぼさぼさね。染めるのはいいけど、お手入れしないとみっともないわよ」


 遥は朝から、玄関口でそんな小言をもらった。母の言い分はもっともである。わかってはいても、やる気が出てこないのが不思議だった。

 少し沈鬱な気持ちになりながらリュックを手にした。ぎゅっと詰まった重量感が手に返ってくる。


「お母さん、今日のお弁当のおかず何ー?」

「夕食用に仕込んだ肉じゃが。お昼までには味が染みてるでしょ」

「よーし。かんばる」

「はい、気をつけて」


 ローファーを馴染ませるように扉を出る。

 ブレザーのポケットに鍵の重さは感じるけれど。


「いってきます」


 鍵を閉めず、遥は慣れ親しんだ通学路を行く。

 錠のおりる音が耳に届いた。

 閑静な住宅街も、ある道を過ぎると同じ服装が目に付くようになる。最寄り駅が複数あるため、その交差地点から生徒が急に湧いて出るように見えるのだ。

 人の波に乗って道を進んでいく。

 瑠依の姿は見当たらなかった。あの銀色を見落とすことはないだろう。

 校門前に着くとアトが姿を見せた。


「ここがきみの通う学校か」

「奏と来なかったの?」

「天音奏は見てあげなきゃいけないほど困ってなかったからね」

「夢がわかってなくてすみませんね」


 そう口にして、校門を越えようとしたところで遥の足が止まる。


「魔法少女ってさ、夢のためなら、みんな自分の命をかけられるの?」

「そんなわけないよ。夢は叶ってこそ、命あっての物種だ」

「けど、皆森さんは違う」

「天音奏と彼女は少し特別だね。特に彼女は、きみに似ている」

「どこが?」

「いずれわかるよ」

「すぐにわかるなら教えてくれるんじゃないの?」

「すでに当人が知っていることをわざわざあげつらうほど、ボクはいじわるじゃないよ」

「あの」


 遥はふと、自分へ向けられた言葉を耳にする。


「だいじょうぶですか?」


 心配そうな声音に振り返ってみれば、知らない子であった。校章の色から下級生だとわかった。

 ひとり立ち止まってうつむく姿を客観的に想像してみる。なるほど体調不良を考える人もいるだろうと遥は納得した。

 ぶつくさつぶやいてたのもあり、奇人変人と遠巻きにされてもおかしくはない。そうならなかったことに胸をなでおろす。

 遥はあいまいに笑いながら「だいじょうぶ」と礼を口にした。

 健康であることを示すように歩き出す。

 足元にはもうアトはいなかった。

 遥の通う高校は四階建てだ。

 一階に職員室を主とした執務的な部屋が集まっており、二階から上は芸術系の科目で使う教室と、各学年の教室がある。

 学年が上がるにつれて昇る階段は減る。

 三階まで登らなければいけないから中途半端だと、遥は内心呻いた。 

 いつも通りに自分の席まで着く。窓辺の一番後ろ。最高の席という自負が彼女にはあった。

 いるのはいつもの顔ぶれ。特に会話を交わしたりはしない。微妙な沈黙のなかに物音と呼吸音が混じる。

 それをいやらしく思わない。心地よくすら感じていた。

 ただ、かしましいのが苦手というわけでもなく。

 次々と登校してきたグループを横目に、始業までの時間をこなす。

 話題を席巻するのは転入してくる瑠依について。昨日の今日は、噂が拡がるには十分すぎる時間だ。

 予鈴が過ぎ、ホームルーム開始のチャイムが鳴る。

 連絡簿片手に、担任の先生がひとり連れ立って教室に入った。

 ざわめきがクラスに生まれる。その反応を予期していたであろう先生は、面倒ごとを嫌うような間延びした気配で教壇に立った。


「急ですが、転校生です。自己紹介どうぞ」

「皆森瑠依。よろしく」


 ぺこりと頭を下げる。

 その所作を追って銀色の髪が波打った。

 銀鈴がごとき艶やかさに、クラス中が息をのんで、静寂が生まれた。

 先生も一瞬だけ面を食らったようにして、舌の絡まった発音で声を紡いだ。


「皆森の席はな、空閑、手を挙げろ」


 遥は考えなしに従った。自席の横に見知らぬ座席があるのを認めていた。


「あの子の隣な。ほかに何か言いたいことあるか?」

「はい」


 面を上げる瑠依。

 表情も、瞳も変わらず。


「瑠依は天音奏を探しに来ました」


 静寂をも突き破る沈黙がクラス中から吐き出された。

 だれもが不自然なまでに話題にあげなかった名前。

 俎上に載せてしまえば解体するほかない。

 吐き出された沈黙は短い。吸い込まなければ呼吸はできないのだから。

 息をひそめるようにして奏の名前が口の端に上る。

 先生は、どう対応するべきかと勘案するように瑠依へ目線を配っていた。

 彼女はどこ吹く風で教室内の様子を一瞥した後、示された席へ足を進めた。

 遥の隣に着座する。スクールバッグから教科書を取り出していく。

 あまりに自然な振る舞いが、逆に不自然さを演出する。遥は血の気が引いて、冷静さを取り戻した。

 上げたままの手を口元に運んでささやく。


「……どういうつもり?」

「問われるようなことはしてない」

「そうだったとしても……」


 視線を感じた。

 当然だろう。先の瑠依の発言はもちろん、まっ先にその当事者へ食らいつく遥の対応も注視の対象としてふさわしい。

 事務的にホームルームを始めた先生から投げやりな目線も感じ、遥は肩を落とした。

 ホームルームが終わると瑠依の周りには、遥も囲うようにして人だかりができた。

 話題の大半は当人のバックグラウンドより、奏と既知であるという事実についてだった。

 魔法少女であることは伏せながら、奏に救われた旨を口にした。


「かなではひとりぼっちになった瑠依が、普通の生活ができるまで面倒を見てくれた。山奥の、外の人と交流のない場所に住んでいたから」


 級友らは奏の行いに、アルバムをめくるみたいな懐かしげな表情を浮かべていた。規模の大小はあれど、似たような経緯で奏に救われた人物も少なくはない。

 チャイムが鳴り響く。休み時間は短く、一時限目の担当教師が顔を見せて人だかりを諫めた。

 奏の安否を慮る言葉を口々に残して、彼らは自分の席へ向かった。

 瑠依はその背中を不思議そうに見送りながら、折り目のない教科書を机に積んだ。


「……楽しそう」

「まあ、奏の話はそう簡単にできなかったからね」

「したいならすればいい」


 遥はその言葉に苦笑だけを返した。

 その向こうにぽっかりと空いた席がある。席替えと称して真ん中の最後列に移された机と椅子。奏の席が、瑠依の隣にあるのはどういった縁か。

 授業はつつがなく進んでいく。

 瑠依は几帳面にノートを写していた。

 姿勢のように整った文字列を見ていると、彼女はまるで黒板を書き写す機械のようであった。

 中休みにはやはり人だかりができて、廊下にも噂を聞き付けたやじ馬が列をなしていた。

 そうして迎えた昼休み。


「空閑遥」


 授業の終わりを告げるチャイムに混ざるように、瑠依から声をかけられた。


「少し付き合ってほしい」

「え、どこに?」


 お弁当の準備をそそくさと始めていた遥は、伺い立てるように首をひねった。


「お弁当持ってきてない」


 その言葉の意味を呑み込むより先に、遥の視界が雨でぬれた。


「ん、な、何を……!」


 まばたきすら忘れて遥は飛び上がる。

 わずかな湿気を感じるだけで、実際に彼女の体は濡れていない。

 そのような雨は、魔法に他ならない。

 魔法で描き変えたものは、人の目に映ると聞いたばかりであった。

 制服姿のままステッキを手にした瑠依は、不思議そうに首をひねる。


「購買は混む。並ぶのは面倒。空閑遥は並ぶひと?」

「え、あ、そりゃ、ふつうは、そうでしょ……いや並ばないでいいなら、それに越したことはないけど……じゃなくて魔法!」

「じゃあ今日は並ばない日」

「わかった……それはわかったから、会話の優先順位を考えて……」

「見ればわかる」

「見ればって……」


 弁解のしようはない。おそるおそると視線を周りに向ける。

 その変化は歴然としたものだった。

 だれも彼も遥と瑠依を見ていなかった。

 騒ぎ立てた遥も、関心を集めていた瑠依も、存在ごと忘れ去られたようなありさまだった。

 理解の追い付かない遥へ、瑠依は財布を手にしながら言う。


「知られなきゃないのと同じって奏が言ってた」

「いや……よくわかんないけどさ、たぶん違うよそれ……」


 そう返すのが精一杯であった。

 銀色の髪をなびかせて出口へ歩き出した少女を、遥はお弁当包みを片手に追った。

 開放的な空気を感じるのは、我先にと購買へ向う生徒によって扉が開けられたからだけではないだろう。

 何度繰り返されようとも昼休みの喧騒は落ち着かない。

 自席でひとりお弁当を開く人もいれば、集まって食事を囲うグループも見慣れた光景だ。廊下を歩くのは何も購買へ向かう人物だけではなく、早弁を済ませていてグラウンドへ駆り出す姿も見受けられた。静観を好んで図書室へ足を運ぶ者もいれば、特に奏の失踪以降は保健室へ通う生徒が増えたように思う。職員室の近くでは、進路について細部を詰める最上級生に緊張を感じる季節だ。憂鬱な心持ちになるには、未来に思いを馳せるからだろう。

 すべてを目にしながら、そのすべてから目を向けられずにふたりは、一階の購買前までたどり着いた。昼休みの始めは来客のピークを記録していて、蟻一匹通る隙間もないほどにあふれかえっている。


「買ってくる」


 そう言うと二の句を待たずに、瑠依は波に飲み込まれるようにして姿を消した。

 一刻も待っただろうか。


「買った」


 菓子パンの袋をふたつと飲料水を手にした瑠依が戻ってきた。


「早いね」

「教室は具合が悪い。どこか静かになれる場所ある?」

「めったなことがない限りひとが寄らないって意味では、屋上前の踊り場かな」

「案内してほしい」

「案内も何も、一番上だけどね」


 階段をのぼっていく。屋上を目指す遥の足取りは重かった。ふともものあたりに鉛でも仕込まれたかのように感じる。

 その場所を提言したことが、何かの清算になればいいという心持ちがまったくないかと言われれば、嘘になる。

 そそがれるものも、赦されるものも、何ひとつとしてありはしない。

 罪などそもそも存在しないとわかっている。

 罪の感情を勝手に背負いこんでいるだけだ。

 最上階に続く階段の前には、立ち入り禁止を示すロープが張られている。

 それをくぐれば、日差しだけが光源のうす暗い空間にたどり着く。

 埃やかび臭さがないことに清掃の手が見える。清潔なことは、奏と屋上へ向かった日に知っていた。


「夏祭りの日だったんだ」


 胸のうちに溜まった澱を掻き出すように、遥は言った。


「なんの話?」

「奏が〈失貌〉したときの話だよ……それを、聞きたかったんだよね」

「話してくれるとは思ってなかった」

「皆森さんは、やっぱり知っているべきだって思ったから」


 言葉の端々から奏への純粋な思いを感じ取ってきた。隠し立てをすることは、その気持ちに泥をかけるようなことに思えた。

 遥はそれが嫌だった。


「花火を見ようって誘われたんだ。ほかにだれもいない場所で……言いたいことがあるからって」


 階段をのぼりながら、遥は言葉を連ねていく。一段、一段と屋上に近づくたびに夏の記憶が飽和していく。


「夜の学校に忍び込んでさ……職員室の明かりから隠れて、奏に引っ張られて屋上まで飛んで、花火を見たんだ」


 階段をのぼり切って、遥は屋上の扉を見つめた。

 鍵がかかっているから開けることはできない。それ以上に、ここに来るだけでめいっぱいだった遥に、その鉄扉を引くことはできない。

 ドアの上にはすりガラスが嵌められており、その小窓が採光している。光はドアノブにも降りており、指先で撫でると熱を感じた。夏の温度が焼きついているように思ってしまう。


「綺麗な夜だったよ。屋上で仰向けになってさ、同じものを見ているって思えた。けど、違った。同じ場所にいても、この目が同じものを映しているわけじゃないんだ」


 踊り場に腰を下ろした瑠依が、階段へ足を遊ばせていた。遥は少し距離を空けて隣に座った。


「奏は言ったんだ――だれかを救うことで救われているのは自分じゃないかって。何かを与えることはできず、こんな私じゃだれも救えないって」


 虚空に目をやると、焼きついたようにあの瞬間の光景が見えた。


「そう言って、奏は落ちていった」


 記憶が夏に溶ける。


「わたしはそれを追いかけて、飛び降りて、気を失ったけど――」


 有刺鉄線の縁を蹴り飛ばして奏に追いついた。

 吸い込まれるような空の暗さも、遠のくより緩慢に流れる雲も、咲き誇る花火の色も視界に入ったのは一瞬。


「奏の手を掴んだことは覚えている」


 遥の伸ばした手に応じてくれることはなかった。感触が返ってきたのは、落ちてきた遥を救うためだった。

 コスチュームに身を包んでいるから必要ないのに、それでも彼女は救わずにはいられなかった。

 その夢を見失っても、なお。

 そうして掴んだ。

 夏より熱い体温を覚えている。


「だから奏は〈失貌〉した」


 目の前に迫った地面に目をつむって、気がついた時には遥は自室のベッドにいた。


「だからわたしは、奏に救われちゃったんだ」


 それが奏との別れだった。


「空閑遥もかなでに救われてたんだ」

「奏に救われてないひとのほうが稀だろうけどね」


 遥は、少し距離を空けて隣に座った。

 膝の上で包みを開く。

 瑠依はメロンパンの包装を左右に引っ張って開けていた。そこから少しだけ中身を出して、啄むように口にしていた。

 遥は手を合わせて、しょうゆの染みた色をしたにんじんを箸でつまむ。食べてみると、味がよく染みていた。


「皆森さんもそうなんだよね」

「瑠依の命はかなでにもらった」


 もそもそと、食べているのか喋っているのかわからない様子で続ける。


「だから、進路とか言われてもよくわからない」


 じゃがいもを半分に割る手が止まる。

 瑠依はブレザーのポケットから、四つ折りにした紙を取り出していた。

 安いコピー紙は、日に良く透ける。

 名前の記入欄に、みっつの黒枠。三択の未来について。


「渡されたんだ、進路希望票」

「放課後までに提出してくれって」


 瑠依は言葉の通り、何も書いていなかった。


「わたしは、白紙で出したよ」

「夢がない?」

「昔からそうなんだよね」


 割ったじゃがいもの片割れを口に運ぶ。しっとりとした食感で甘みが強く味わえて嬉しい。


「中学生のころの卒業アルバムにね、将来の夢を書くページがあったんだ。クラスごとに、寄せ書きみたいな感じで。けど、わたしは何も書けなかったんだ」

「高校を選んだのに?」

「ここだって家から一番近いから選んだんだ」


 遥は、お肉に箸をつける。見た目から牛肉だと予想して、実際その通りであった。飲み込んでも、どの部位かはわからなかった。


「どんな言葉を選んでも、感情が嘘になる気がするんだよね」


 口から出る言葉がすべて間違っているように思える。

 回る舌は空を切るばかりで、本心なんてまるで表現してくれない。

 感情と言葉の差異で、いつだって窒息しそうだった。

 だから、大切なことほど言葉にできなかった。


「なら、しかたない」


 特に落胆した気配なく、進路希望票を懐にしまった。

 瑠依はメロンパンを食べ終え、空の包装を綺麗に畳む。チョコチップの練り込まれた四本入りのミニスティックパンに手を付けた。


「放課後、どうする?」

「カラオケ?」


 遥は、中休みにもらった誘いを思い出す。


「まあ、皆森さんの歓迎会だっていうから、できるなら参加するべきじゃないかな」

「ひと付き合いはめんどう」

「避けては通れないでしょ」

「瑠依ならできる。魔法を使えば」


 瑠依はそう言うと、パンの最後の一本を頬張った。

 それで遥は気づく。ステッキがないことに。

 記憶を探れば、ドアノブから視線を外した時にはもう、見当たらなかった。


「もう見えるようにしてる」


 瑠依は畳んだ包装をねじって、リボンに似たかたちに結んだ。ペットボトルの水を、喉へ流し込むように飲み干す。

 空のペットボトルに、小窓から差し込む光が満ちた。口を離す動作とともにそれは消える。

 遥はそんな光景を横目に、最後の一口を堪能する。ちびちびと食べ進めていた白米と、残り一口となったおかずのバランスが均一だった。

 空っぽのお弁当箱にふたをする。手を合わせた。

 予鈴が鳴った。昼休みは終わりだ。


「次の授業は何」

「数学だよ」


 ふたりは揃って階下に降りた。それを見とがめられることはなかった。

 思い出したかのように視線が集まるのを感じて、本当に魔法が解けているのだと知る。

 外から戻ってきたふたりを見てクラスメイトは、出ていく姿を見逃していたことに疑問符を浮かべていた。


「どこ行ってたのふたりでー」


 間延びした声がふたりに向く。垂れたまぶたとインナーカラーの緑が特徴的なクラスメイトだ。

 彼女は、自席を中心としてふたりの友人と昼を共にしていることが多い。部活の連絡も兼ねてのことらしい。

 椅子の背もたれに胸を押し付けて、気だるそうな姿勢でいるクラスメイトに、遥はいつもの調子を崩さずに言葉を返した。


「お昼ご飯食べてただけだよ」

「うちらに気づかれずにー?」

「影が薄いんだよ、わたしたち」


 ふぅん、と特に何かを気にした素ぶりはなく、彼女は本題とばかりに声のトーンを変えた。とは言えど、間延びしたままに、


「で、どうー?」


 その短い用件の意味を、遥と瑠依は的確に拾い上げる。

 彼女こそが、カラオケの誘いを口にした人物だった。


「わたしはいいけど」

「なんでカラオケ?」


 瑠依の疑問に、彼女は理由を探るように右上に視線をやって、


「歌が必要、だからかなー」

「瑠依には必要ない」

「すなおー」


 あは、と笑って彼女は続けた。


「ただちょうど、カラオケに行く計画はなくなったよー」


 それを聞いて、遥は「そうなの?」と目を丸くした。


「拘束がねー。急な話だし、時間に余裕がない人もいるからさー。ドリンク頼んで終わっちゃうんじゃ、すってんころりんだからねー」


 本末転倒だよ、と彼女の友人から突っ込みが入る。

 そうとも言うかもねー、なんて返して、彼女は話を戻した。


「うちって軽音部じゃんかー。てなわけで、ちょっとしたライブにしようかなってー」

「いいの、そんな勝手?」

「顧問に許可は取ったよー。先輩らは受験にかかりきりだし、後輩ちゃんたちは、まあ走らせておくよー」

「ひどくない?」

「次期部長なのでー」

「職権濫用の前借りじゃん」

「使えるものは使っていかなきゃー。で、どうー?」

「わたしは変わらずで」

「瑠依も、いつ抜けてもいいなら構わない」

「じゃ、決まりねー」


 チャイムが鳴り響く。教師の階段をのぼる足音が聞こえてきた。

 遥と瑠依がそそくさ授業の準備を終えるのと同時に扉が開き、授業が始まった。

 かしましくも平穏なひと時は、変わらず続く。安寧たる日々は、毎日を延々と繰り返していく。



 ☆ ☆ ☆ ☆



 視聴覚室の扉は、防音のために重々しい。引くのにも苦労するし、空気を押しつぶして閉まる様子には、物々しさすらある。

 閉じ込められた空気の作る圧迫感が耳に痛い。喧騒によって和らいでいるものの、首を絞めてくるようなこの感覚には慣れないと遥は感じた。

 急な立案にもかかわらず参加率は上々だ。クラスメイト以外の顔ぶれも見える。とはいえその大多数が、バイトや参加している部活の開始時間的に、一曲聞いていくのが限界らしい。

 時計を見る間もなく、今回の立案者たちは準備を始める。いつもは教壇として使われる木製の台が、ステージに組み変わっていく。

 ドラムスにベース。ギターアンドボーカルは、声をかけてくれた彼女らしい。インナーカラーの緑が照明を受けて、さらに鮮やかに発色していた。


「あー……」


 なんてマイクテストをする後ろでドラムが何度か叩かれた。ベースがアンプの具合を確かめている。


「お集まりいただきどうもー。まあ、理由はお察しの通りでー。時間もないので、あれやこれや音楽に代えさせてもらいますー」


 ドラムがリズムを刻む。空気が震えて、心拍が否が応でも高まる。

 そこにベースが殴り込んで、ギターが重なり、高低音の繰り出す立体が世界を作り出した。

 それは水槽ほどの広さ。けれど、自分以外だれもいないような孤独が胸を締め付ける。

 前奏は短く、


「――回遊する言葉に混じれない 僕の名は孤独」


 叫ぶような声で、しかし語りかけるように一音一音をはっきりと歌う。

 遥は、聞いたことがない曲だった。何かのコピーだったとしても、飛びぬけて有名な曲ではないのだろう。

 彼女の歌い方なのか、この曲がそういった歌い方なのか。定かではないが、メロディーのなかに流れていく歌詞がよく耳に届いた。

 だれにも言葉が届かない鯨と、言葉を失った海のお姫様。そんなふたりの出会いと交流が、詩的に描かれている。

 観客席のクラスメイトは、思わず飛び上がったりしながらメロディーに感情を乗せていた。盛り上がりすぎて、あえて馬鹿になろうとしているようにも見える。

 瑠依はどうしているだろう、と遥は少しステージから目を離したが、一見できる範囲にはいなかった。

 歌は二度目のサビを超えて、がくっとその温度を下げる。

 鯨とお姫様の言葉を交わさぬ交流が、終わりを迎えようとしていた。

 お姫様は、魔女の呪いによって泡になる運命だったのだ。

 メロディーが再び高まっていく。ふたりへ祝福を贈るように、手のひらほどの温度が音に宿る。

 お姫様は最後の最後で一言だけ言葉を取り戻した。その唇が結んだ言葉は、ありがとう。鯨が言葉にした愛は、お姫様の泡のなかに溶けて、届いたのかはわからずじまいだった。


「……ご清聴、ありがとー」


 歌声からはとても想像できないような気の抜けた声で、彼女はマイクから離れた。

 割れんばかりの拍手が巻き起こるなかで、遥は音楽室から静かに出ていく銀色の少女を見つけた。

 時間だからと名残惜しそうに別れを告げるクラスメイトに混じって、遥は瑠依の背中を追った。

 廊下を見渡しても、彼女の姿はない。クラスメイトが階段を下っていくのを見て、遥は階段をのぼることにした。

 三階に足をかけたところで、その上の踊り場に銀色の後ろ髪を見つけた。


「皆森さん」


 名前を呼んでも反応はない。どこまで行く気だろうか。ふらふらとした足取りで、追いつくのは簡単だった。

 四階に足をかけたところで肩を掴む。合わせた視線は、疲れ切っているように思えた。


「人酔いでもした?」

「……音が、大きかった」

「あー……騒がしかったのか」

「いや、騒がしいは、違う」

「じゃあ、にぎやかだった?」


 こくり、と瑠依は頷いた。


「声は……歌は、耳を塞いでも聴こえてくる」

「そのために歌っているからねー」


 階下から、間延びした声が聞こえた。

 ふたりが目を向けると、踊り場に彼女がいた。

 手をひらひらと振りながら、階段をのぼってくる。


「おふたりさんには響かなかったかねー」


 なんて言いながら、ふたりの横で腰を下ろした。

 彼女は目で、遥と瑠依にも座るように示した。

 従わなくてもいいはずなのに逃れられなかったのは、歌う姿に魅入られてしまったからなのか。並ぶようにして階段に腰かける。

 放課後だ。わずかに雑談の声はするけれど、人通りが多いわけではない。

 瑠依が遥越しに、彼女へ言葉を飛ばした。


「名前、なんて言う?」

「あたしー? なんでもいいよー。名前ってそんなに大切かなー?」

「大切だ」

「よくさ、あだ名で呼ばれるんだよー。インナーちゃんってさー。カラーよく変えるからねー」

 言いながら、彼女は自分の髪をかき上げた。汗で湿気った緑色は、それでも透き通って見えた。

「イもンもナも名前には入ってないのにねー。しばらくしたらさー、部長なんて呼ばれるようにもなるんだよー」

「いやじゃない?」

「特にはー。名前なんてー、だれがどう呼んでくれるかだと思うしー」

「瑠依が名前を呼びたい」

「んー……じゃあ、空閑さんに聞いてみればー」


 急に矛先を向けられて、遥は口の動かし方を忘れたように押し黙る。

 瑠依の視線から逃げた先で、彼女と目があった。

 にんまりと笑うその顔は、遥が口ごもる理由を見透かしていた。


「憶えてないよねー。知ってるー。空閑さん、奏ばっかりだったもんねー」

「ごめん……」

「いいんだよー。仲良くしたい子と仲良くするのが一番だしー。うちもそうしてるしー」


 なんの含みもなく言う彼女は、少し表情を陰らせた。


「だからさあー、心配……って言うと恩着せがましいけどー。空閑さんも、どっか行っちゃうんじゃないかって、思うわけだったのよー」

「どこにも行かないよ、わたしは……」


 行けないんだよ、とは言葉にできなかった。


「あは。じゃあ空閑さんは、|奏を探してたわけじゃなかった《、、、、、、、、、、、、、、》んだー」

「信じたくは、なかったけどね……」


 どこかに行った奏を探すなら、そのどこかへと自分も向かわなければいけない。

 初めから、遥はその場所を目指してはいなかった。

 本心は、顔に出ていた。貼りつけた奏の顔が証明だ。


「まあ、納得できるかは別だもんねー」

「見ないようにしていただけだよ、わたしは」

「奏がずるいだけだと思うよー。いなくなったあとの準備までしてるんだからー」


 夏休みの最中に行方知れずとなった奏。警察の捜索だけでなく、実際に動いたひとも多くいた。正しくない行いだとわかっていて、遥も足を使った。

 それでも影すら見つけることはできず、新学期を迎えた。

 学校としては、騒ぎ立てることをしない方針で固まっていたようで、杓子定規な始業式を経て代り映えのしない学校生活は継続した。

 奏がいなくても生活は、関係はつつがなく進んでいく。その日の放課後までには、彼女が図っていたのだとだれもが気がついた。

 それは、シンガーアイドルとしての活動を通してもだ。その歌声は都会なら流れない日はなく、イヤホンでふさがれた耳は『天音』で満たされている。そんな、少なくない影響力がありながら、彼女の失踪は季節をひとつ跨げば下火になった。

 夢を叶えることへの応援を歌い続けた『天音』につくファンは、ただその背中を押してくれる存在を求めていたことが多く、喪失によって自立を自覚した。


「どんな意図があったかなんてわからないけどー。奏がいなくてもだいじょうぶな毎日を、奏が作ってたんだからさー。そんなのもう、気持ちの整理をつけなきゃだよねー」


 この別れは奏の選択であり、それを尊重することが彼女へ報いることであると。

 悔恨はあれど後悔を重ねないように。

 そうして奏の話題を、沈黙で覆い隠す決断を下した。


「だから、まだ捜索を続けてるっぽかった空閑さんのことは、みんなも心配してたわけよー」

「うん。それは……それくらいは、わたしも知れてたよ。ほんとうに、ありがとう……」


 あの屋上での出来事がなければ、遥もきっと級友と同じ立場であっただろう。

 それでも遥は、あのとき手を伸ばした。飛び降りて、奏に救われた。

 でも、遥の心は、今もあの夏の屋上にある。落っこちたままなのだ。

 そんな自分をすくい上げる方法は、未だに思いつかない。


「欲しかったのは、お礼じゃあないけどねー。空閑さんも、皆森さんも、奏がさー……」


 そこでわずかに言いよどんだ。

 彼女が何を言おうとしているのか、遥はわかった。

 それは、簡単にはかたちにできない言葉だ。

 けれど、彼女は踏み込んだ。


「奏がさ、死んだことに、納得できそうー?」


 遥は、答えは返せなかった。

 瑠依はどうだろうか。遥が目をやると、藍色の瞳は揺らがずインナーカラーの少女を捉えていた。


「あなたは、納得できる?」

「……今日のライブが、うちらが納得するための場所だったかなー」


 彼女は、耳を澄ませるふうにして目を閉ざした。

 それを見て、遥は確かめるようにささやいた。


「よかったの、ライブ?」

「んー? コンセプトはカラオケだからねー。マイクは渡してきたー」


 だから、だれかが歌っているのだろう。


「皆森さんがきっかけだったは事実だよー。けど、歓迎会って言うのはたてまえー。ごめんねー」


 構わないと言いたげに、瑠依は何度かまばたきを繰り返した。


「皆森さんが奏を探してるって聞いてー、じゃあ探してないうちらってなんだろうー? って思ったわけよー。奏に与えられるだけで、なーんにも決めてない。ああ、つらいことから逃げてるだけだーって気づいちゃったわけですよー」

「どうして歌?」

「悲しかったり、怒ったりする気持ちは、悲しいーとか怒ってるーって言葉じゃ、言い表せないでしょー? だからって、だれかの言葉でうちらの気持ちを代弁してほしいわけでもなくてー」


 感情を探るようにして、彼女は言葉を手探っていく。


「あの曲はうちらのオリジナルだけど、ぶっちゃけ歌詞とか気にしなくてよくってー。……声を音に乗せれば歌になるからー。言葉にならない声で、歌にしてほしかったんだよー。それはきっと、意味があるからさー」


 遥は思い出す。ライブ中に馬鹿みたく騒いで、まるで感情を燃やし尽くそうとしているクラスメイトの姿を。

 そして、その歌を浴びて、疲れ切っていた少女の姿を。


「その場所に、瑠依はいたくない」

「場所かー」


 銀色の少女の答えに、彼女は目を開いた。垂れたまなじりがわずかに上がっている。


「うちらがスリーピースな理由わかるー?」

「わからない」

「いないんだよねー、ほかに二年の部員が」


 昼休みに集まっているのは、いつもあの三人であった。

 たしかに校内で軽音楽部の話は、あまり耳にしないと遥は思った。


「バンド組もうぜーってなって、軽音楽部ってのも流行る時代じゃないんだよねー。部費なんてあるようでなくて、楽器も好きなやつは自分で持ってるんだよー。何より、部活ってなると、同じ学校のやつとってなるじゃんかー。そうするとまあ、端的に言うと熱量の違いって浮き彫りになりやすいんだよねー」


 実感のこもった声で彼女は言い切る。


「今だと場所なんていくらでも借りられるしー。だったら放課後はバイトと自主練に力入れて、組みたいやつらで休日に集まって音鳴らすほうが賢明だよねー」


 なら、どうして。

 遥がそんな言葉を紡ぐより早く、彼女は言った。


「だから皆森さんも、そこにいて心地のいいところが見つかるといいねー」

「心地のいいところ……」

「案外世界ってやつは……いや、世界は違うなー。一周できちゃうしー。えっと、なんだろ……音を鳴らして、歌を歌っているとね、どこまでもうちらの音楽が響いていく感覚になるときがあるんだー。もちろん音が返ってきてるんだから、壁があって、振動する空気があるんだけどー」


 感覚を言葉にすることで、彼女は見ている世界を共有しようとしていた。


「こうさ、どこまでも広がっていて、なんでも起こる可能性がある、空間? みたいなさー。場所っていうのは、そこに点々と存在しているだけでー。うちらはもっと広いもののなかにいるんだよー」


 伝わるかなー、なんて彼女は困ったようにまゆを落とした。

 彼女が伝えたかったことを受け取れたと、遥は言い切れなかった。そして、


「よくわからない」


 瑠依もまた、彼女の感覚を理解できなかった。


「そうかー。ま、しかたないかー」

「悲しくない?」

「歌ってばかりだからねー。聞いてもらえなきゃ伝わる可能性すらないって知ってるんよー」


 彼女はそのテンポを崩さず、間延びしたままの口調でいた。


「空閑さんも皆森さんも聞いてくれたでしょー。だから、ありがとっていいたいくらいだよー」

「……やっぱり瑠依は、名前を知りたい」

「照れるなー。けどまあ、関心を持ってくれるなら、応えなきゃだよねー」


 そうして彼女が名乗る――前に。

 ――どくん、と。

 学校が、胎動した。

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