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憧憬罹患

 貌が剥がれていく。落下したファンデーションのようにぼろぼろと。粉になって空に溶ける。

 それは、本来の持ち主を見つけたから。認めたから。

 〈失貌〉した少女が自分自身を見つけたのと同様、空閑遥が天音奏を見いだしたから。

 すなわち、ステージの上にはふたりの少女。

 突如現れたような黒髪の女の子は先ほどまで客席を脈動させ、佇んでいる茶髪の女の子こそ瞬間を切り取れば闖入者だ。

 星の並びに既知のかたちを想像するように、あまねく人々が〈天音〉の実在を創造した。

 それが嘘偽りでしかないまやかしだとしても。

 確かに、確実に。

 夢を叶えた少女は蘇った。


「……遥」


 歯噛みするような響きの呼称に応じる。


「奏……綺麗に終わらせるなんてらしく(、、、)ないよ」


 あらゆる過程を一方的な救済で台無しにしてきた、爆発オチを好む少女へ言う。


「奏にとって命でも、夢が叶ったあとも心臓は動くんだ」


 内側の音を聞くように怜悧なまなざしを閉じる。久しく耳にしなかったノイズに襲われたように顔を歪めた。その手のひらを胸の中心に置く。


「ここも、元通りか」


 瑠璃色の舞台照明がふたりを燈す。まるで世界でふたりきりであるように。ふたりこそが世界の証明であるように。


「もう終わった話なのにね」


 わずかに薄く開かれた黒い瞳は、その眩さへ困惑を彩っていた。


「主役なんて枠組みはない。だれもがそれぞれの夢の主役であって、その楽園は閉じている。ただそれだけの救済だったんだけど」


 熱に浮かれた頭で何度温度計を試しても平熱だけが示される。そんな認識の齟齬に悲しみを覚える顔で奏は告げた。


「否定するんだね、遥。私の夢を」

「しないよ。できない。応援してるんだもん……けど、死んでほしくない。ううん」


 わずかな否定。そう、本心はもっと欲深く。


「死なせたくない、奏のこと」


 遥はそっと腕を持ち上げた。正対する少女へ、わずかふれない距離感。


「だから、こうやって手の伸ばす」

「取ったら、それで解決?」

「取りたいって思ってくれたら、叶うよ」

「そう、残念」


 奏の手が持ちあがる。両手が肩の横へ。へたな洒落のポーズとして、呆れを表現した。


「今までの私なら叶えてただろうけど、救済は結実したんだ」

「いらないよ、与えられる慈悲なんて。だからすれ違ったでしょ、あの日に……七夕の日に」


 相互疎通を求めた遥と、一方的な施しに盲目する奏との道は、星合に分かたれた。

 曇天の空。雲の上でどのような奇跡が起きていようと見るすべはなく、ただ地上では擦り切れ摩擦を失った縁があった。

 それでも、手放さないと遥は決意する。なんど取りこぼすことになって、かかわることができなくても――この手を取ろうとしてくれれば、希望が宿る。

 ただひとつ、天音奏の生存へ。

 そう、だからこそ。


「取るわけないよね。望んでない」


 訣別の果て、その絶縁へ。

 失われるのでなく、絶たれる。能動的な行為だ。

 それを望む。どうしようもない拒絶が継続する。

 身をひるがえして、奏は走り去る。逃げる。


「私はまだ確定していない。この〈世界〉で私の〈世界〉を描き変えて、元の日常を作れても、それだけ。この〈世界〉がずっと続くわけじゃない。どんなに希望的だろうと、〈失望〉を主役とする世界の染み。継続すればするほど、元の世界のかたちは失われていくからね」


 その通りだ。≪夢現の星座≫。星の配列によって虚空の世界は、元の形象へと描き変えられる。だが、その果ては。

 数多の視点者の主観(まなざし)によって自由に創造される世界は、やがて物理法則を失う。荒唐無稽でなんの伏線もないような突拍子のない現象が合わないパズルみたいに散乱するだろう。その齟齬をだれも、この星自身も許容できない。ひび割れたガラスがわずかな衝撃で散り散りになるようにして、あっけなく星屑となる。

 ≪失望≫の根源は、希望を失わせること。〈世界〉は腐った果実から漏れ出る粘性の液体が紙上に作る染みでしかない。

 遠のいていく背中に焦燥を瞳に宿す遥は、どうすれば間に合うか思いつかないまま、ぐっと足に力を込め、


「焦らなくていい」


 鈴の鳴るような声に止められる。


「瑠依?」

「まだ、役者はいる」


 銀髪の少女がだれを想像しているのか、遥には見当もつかなかった。


「かなでにいいたいことがあるのは、はるかだけじゃない。瑠依たち以上に、ずっと我慢してきた。機会がなかった。ここだけ……この瞬間だから届く。自分自身をすくいあげられるひとがいる」


 海溝のような藍の瞳が、奏の消えていった暗闇を見つめる。舞台裏。ステージへ続く道。そこを逆走する先に、どんな光景が待ち受けているのか。


「早すぎる季節……遡っているのかもしれない。きっと、瑠依たちの知らない春があった」


 鼻先をくすぐるものがあった。正体は知れない。何かの先駆けに思えた。




 ☆ ☆ ☆ ☆




 奏は駆ける。暗闇のなかを。逃げる感覚はない。引き延ばされた展開に飽き飽きしていた。意味ありげなカットで水増しされた作品ほどあくびを誘うものもない。三分で終わる内容を二時間にどうにか繋ぎ合わせたところで名作にはなりえない。神は宿らない。冷えた缶がぬるくなり、結露として手を濡らす水より薄い。ただ存在するだけに意義はない。それは時間を浪費するだけ。二分後には記憶に残っていないシーンのために、ラストシーンの密度を低める。

 彼女たちの行いは、すなわちそういった類だ。

 だから抗う。

 結末に向けて。終幕を迎えた夢にたどり着くため。

 なんの物語も必要ない。記述されない継続が、暗闇のなかを走るという行為の連続が、色素のない白紙を燃やし尽くす。

 だと、いうのに。


「……」


 いる。

 未明のごとき闇に、ひとりぶんの鼓動を見る。

 錯覚かと思った。それはそれで憎たらしい。久しい心音は、今は耳の奥で暴れまわっている。自認より浅ましく生存の自覚が体中に巡っている。

 目を細めた。広がった瞳孔でも、何もない暗闇では集光の余地がない。変身すればそんな法則は関係ないが、それより早く届くものがあった。

 声。


「見てたよ、奏」

「早季?」


 聞き覚えのある音だ。クラスメイト。委員長。友達。

 暗がりを切り取るようにして浮かび上がる姿がある。それは奏の脳が結ぶイメージ。低い位置でくくった後ろ髪に、黒縁の眼鏡に秘められたまぶたは近眼の影響で鋭く細められている。そんな少女の姿が浮き彫りになる。


「どうしたの」

「どうしたいんだろう、ね」


 ため息とともに早季はつぶやいた。何か目的意識があるからこんな場所にいるはずなのに。

 迷い、と断定してしまうには、その瞳はまっすぐこちらを見定めている。

 背後に足音は感じない。急ぐ道ではないが、描写(シーン)は少ないに越したことはない。いま早季の姿を明瞭にしたように、この〈世界〉のなかでは想像が創造に繋がる。絶縁を謳った存在として、自らの存在が結ばれてしまう余地は排斥したかった。


「悩んでるなら」心の底から奏は告げる。「早季はだいじょうぶだよ。知ってるでしょ」

「……そうだね」


 それだけでいい。それだけでここは終わる。そう判断して足を進めた奏に、早季が接近する。


「え?」

「そんなふうに私を変えてくれたのが、奏。知ってるよ」


 重なる道、というより、十字の交差点で斜めにぶつかり合ってしまったような感覚。

 早季の顔が見えない。胸に圧迫感。背中に温度があった。

 耳元で囁きが響く。


「でも、だからって手放さないでほしかった」


 抱きしめられていた。なぜ、と思う余白はない。思考が空転している間に、早季の言葉が差し込まれた。


「ねえ、奏。金魚は掬っておしまいじゃないんだよ。ちゃんと餌をあげなきゃ死んじゃうんだよ?」

「さ、き……」


 しっとりと、耳の中が湿っていく感覚を錯覚する。それだけの湿度を早季の声音に感じた。

 冷めていく。答えの出ない問いに停止した思考が血流を拒んで、全身の活動が鈍化する。運動によって早鐘を打った心臓も冷却されたように落ち着いていた。

 だから、接着する少女の奥が熱く逸っているのを感じ取れた。

 その感情の名を何というのか。拘束が解ける。わずかに後退した早季の顔が目に収まった。わずかに色彩を帯びる頬は、桜色。


「好きです、天音奏さん」


 桜の季節だった。

 咲き誇る季節に生まれた早生まれ。

 櫻井家の一人娘。

 櫻井早季。

 その生家を所以とした困窮があったり、多くの喜びと悲しみを重ねながら――その細やかな事情をつまびらかにしない高潔さは育みながらも、高校入学時の彼女は己自身を否定するために生存を繰り返していた。

 そこで出逢う。根底に輝く魂を見定める救いに。

 だからそう、振る舞いに足る肯定を。精神(こころ)が折れても魂を穢すことのなかった少女にとって、肉体の行為を正当に機能させることは、すなわち自らを救い出す工程だった。


『ずっと気を使って、役割に徹してきたってことはさ。早季は、みんなのことを見てあげられるんだよ』


 天音奏という架け橋によって次第に変化を肯定されるようになった少女は、悩みの種は変わらずとも、その生き様を変えた。

 だから、そう。奏と共にする時間は減った。ひとりでも立てるようになったから。歩いて行けるから。奏には時間がない。映画鑑賞が唯一、無私の刻と言えるほどに。その命は、この世界の悲しみを許容できない。

 だからずっと我慢してきた。開花した思いを。早咲きの桜はただ少数に看取られる。散ってその花弁が顧みられることはない。

 そんな恋に、罹ってしまったのだと、諦めた。


「だから、あなたが救われないのは許せない」


 そう、早季は告げる。

 夢の中。閉じた楽園ですべての宿痾が清算されて、ただ春を謳歌する最中に、銀色の少女が現れ言った。

 ――かなでは、差し出された手を拒んでる。

 それだけだった。春の嵐にかき消える白昼夢。そう目をそらすこともできた。

 そんな、許しがたい内容でなければ。

 夢を手放して、こんなところに来たりはしない。


「どうして空閑さんから逃げてるの?」

「……早季の知らないことだよ」

「そうだね。けど、関係はある」

「関係はあっても、かかわれないよ」

「いいや、かかわるよ」


 もう二度と、絡めることのない手指を見つめながら早季は重ねる。


「好きなひとを幸せにしたい。恋ってそんな身勝手さでしょ」

「わ、たしは……でも、すべての縁を、絶つ……」

「できないよ、そんなこと。ここに救われた私がいるんだから。奏がいなかったらこの私にはなれてない。奏との縁は消えない」

「だから、みんなの夢を叶えて」

「そうだね。叶えて、救った。それで奏も救われてハッピーエンド。でもだめだよ。それは、奏だけの話。奏がこの世界の主役だったらそれでもよかった。けど、立ち去ったでしょ。すべてを終わらせたわけじゃないのに席を空けた。じゃあもう、これは奏のための絶望の物語じゃない――奏を救いたい私たちの、希望の物語だ」

「私はもう救われてる」

「私たちはそうは思わない。だからここにいる」

「そこをどいて、早季」

「どかないよ、奏。その命を救いたいと思われたんだから、奏は救われるべきなんだ。それが救ってきた責任だよ」


 救済の少女が目を閉じた瑕疵に刃を立てる。


「救うことを夢見たひとが、救われるのを拒むのはおかしい」

「暴論だ」

「はじめからめちゃくちゃでしょ、何もかも。奏の夢だって」


 荒唐無稽で矛盾だってある。でも、そんなことを些事とばかりに踏破して思うがままに描き変えてしまう魔法が背景にある世界だ。

 その程度は許容されるべき変化。ただ絶対の法則があるとするのなら。


「……っ」


 枯れる。奏は自らの内側で確かに感じた。

 夜に咲くアサガオ。その徒花が枯れた。

 魔法少女は魔法少女を傷つけられない。

 その夢の輝きを穢せない。夢と希望でできた少女の魔法を運用するからこその絶対法則。重力に打ち勝ち熱量保存の法則を組み伏せてでも、この自己洗脳にも似た内的法則(ロジック)はやぶれない。

 差し伸べられた救済()を拒んだ意味を自覚し、あまねく夢の救済という夢が矛盾する。

 否定した。夢を否定すれば、それはもう魔法少女ではない。

 それでもまだ、奏はひざを折らない。

 羽化したのは、何者か。

 魔女。

 絶望を司る〈空〉の魔法少女としての力は失っても。

 希望に相対する絶望は実在を証明し、境界は引かれた。

 その(ヘクセ)に少女は立つ。


「終われない……終わらせない。きみたちの夢物語では」


 そして、天音奏は宣告する。


「その希望論が生む絶望を、私は見せつける!」


 この先に道はない。わかっている。だから、奏は元の道へ戻った。

 応えるべきに答えていない。逃げている自覚もないまま――否、解はとうに出ていた。

 だから金魚鉢(せかい)をあげたのだ。

 消える背中に、早季は投げかける。


「あなたのいない世界でだってしあわせになってやる……けど、絶対に忘れられない」


 この想いは、もうとっくにやぶれた(ゆめ)だった。


「ほんと、むかつく。大好きだよ、奏」

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