衣装違いの紛いもの
夢に浸っていた。
これはだれの見る景色だろう。わたしだ。わたしの見る景色。主観。なら、ここはどこだろう。明晰夢のように自由自在に動けない。白昼夢にしては明確だ。
二匹の金魚が泳いでる。別々の袋。それぞれの世界のなか。命運が分かたれた。
一匹を、銀色の少女へ与えた。当惑が見てとれるが、手放さない。
もう一匹の行き先を考え、足を進める。夜半。夏の夜に星は見えない。街灯の連続する街路を渡る。
そのさなかだった。
ひとりの少女と行き当たる。
夜風にあたっていたのか。いつもはくくっている後ろ髪がほどかれ、風景に溶けている。ふちの細い眼鏡に照明が淡く光を灯す。気性の強そうなまぶたと目が合う。
「早季」
己の口がその名を呼んだ。
クラスメイト。櫻井早季。
みんなのまとめ役に自然となる、貫禄のある少女だ。秋の文化祭実行委員のクラス代表として立候補し、満場一致の肯定を得ている。
「祭り帰り?」
片手に持つ金魚の泳ぐ袋を目にして、早季はそう言った。まなざしの鋭さに対し声は柔らかい。
「早季は行かなかったの?」
「陽が落ちるまえに帰ってきたの。どうにも多いと気を遣うからね」
「おせっかい焼きだもんね」
「だれかさんのせいでね」
言葉と裏腹に、声音はどうにもふわふわとした毛糸のようにまるっこい。
「空閑さんと?」
「いや、べつの子」
「ふうん、めずらし」
「そう?」
「春からずっと、空閑さんと一緒だったでしょ」
「まあ、そうだね」
「喧嘩でもした?」
「まさか。これから会いに行くよ」
金魚を目の前に掲げてみせる。
「どこかで金魚鉢を手に入れなきゃだけど」
「うちに余ってるのあるしあげようか?」
「ナイスタイミングだね。けど、いいの?」
「うん、小学校の頃に使ったきりで……いつか使うかもって思ってたけど、どうにも縁がなかったみたいだし」
「早季も今日すくえばよかったのに」
「そうだね、すくえればよかったよ」
――そこまで声を耳にして、空がひっくり返る。
「かなでと喧嘩しよう――それが瑠依の最後の魔法」
かなで? 奏? それは己の名だ――否。
違う。奏になるのだ。天音奏こそこの世界に生きているべき。
じゃあ、わたしはだれ――、
「はるか」
目を開く。景色が晴れる。剥離した空に、月と夜を見た。
〈伽〉の魔法少女。
皆森瑠依。
「かなでに贈ろう、瑠依たちの希望を」
「希望なんてないよ」
かつて希望を謳った、〈星〉の魔法少女の成れ果ては言う。
「伝えても届かない。希望は存在しないよ」
落ちていく。落下に終わりはない。底のない失望。希望の失い世界において、着地点は存在しない。
がらんどうの瞳を、瑠依は追いかける。
「それでも伝えるって言った」
「どうしたいか……そうだね。けど、届かないことは、こんなにも虚しい。ねぇ、瑠依。奏は死んだよ」
一度目の死を突きつけられたときにすら、遥は貌を覆った。それは、〈失貌〉の一歩手前。無自覚の自己否定。ただ、奏の喪失を受け止められなかっただけでなく、自分自身を上書きすることで現実を描き変えようとした。
二度目の死。その現実は、遥から摩擦を失わせた。
「夢を叶えて死んだ。これ以上になく、満足そうに。だから、ねえ。どうしてそれを否定できる? 奏は死んだ。奏は死んだ。奏は死んだ!」
泣き出しそうな震え声で遥は叫んだ。
痛切な思いを、瑠依もまた同じだけ胸に抱えている。
でも、それでも。
「諦めたら後悔する」
ただそのひと言が、遥の表情を――奏の貌を凍らせた。
「希望がないと諦めるのは簡単。だって、ない。この世界に、そんなものは存在しない。それが事実。だからひとは、希望を作る」
瑠依は手を伸ばす。広げた手のひらに、光るものが宿った。
「瑠依たちがあの夏の終わりに名づけたものは何?」
≪魔女の夜≫――失望の最果てにてそれでも底に残ったもの。
それをこう名づけたはずだ。
事実と違っても。正しくなくても。
そう信じるために。
希望、と。
「瑠依は、だから生きようと思えた。与えた希望の責任を果たして」
「でも……それでも……ごめん、やっぱりわたしは、生きようって思えないよ」
がらんどうの瞳に光は宿らない。星はまだ、失われまままだ。
瑠依は手を握り締め、希望を閉じる。それでもまだ、腕を伸ばしていた。
「はるかはかなでにはなれない。なっちゃいけない」
「なれるよわたしは。わたしたちの失望は、そういうものでしょ」
なれないから――なりたい姿になる。
そのための〈世界〉。
ただの夢幻。
夢にやぶれるために存在する魔法少女へのせめてもの慰め。
〈失望〉。そのがらんどうの揺りかごで、少女は明けない夢を見る。
「なれないことは、失望するようなことじゃない」
瑠依はそんな法則を拒絶する。
「だから、はるかはかなでになろうとしなくていい」
「どうして? わたしなんかより、奏がこの世界にいたほうがたくさんのひとが幸せになるよ」
「ほかのひとがどうかは知らない。かなでははるかが生きてると幸せ」
「……っ」
喉奥を絞るように遥が呻いた。
消えるはずのない歌声。〈君と奏でる空の星〉と謳われたその感情を、聞き洩らすはずも見失うはずもない。
「はるかのなりたいかなでは、はるかの見るかなで。はるかのスケールで計ったかなで。だから、はるかはかなでになれない」
だれも、自分以外の何者かになることなどできない。
どんな解釈も理解も、価値基準を通して把握されるのだから。
すべてが自分の延長線上でしかない。
なりたいだれか――なれないだれか。
「それは、ちゃんと相手がいるって証明。自分とは違う命があることは、希望的。手を伸ばせば届く」
欠損した空をひたすらに落ちても、ふたりは互いを見失わない。
「夢がなくていいってはるかは言った。希望があるって言った。夢を応援するって言った……はるかが生きててほしいのは、かなでの夢? それとも命?」
「そんなの……決まってる」冷めた色の唇が震える。「そんなの決まってるよ。奏に生きててほしい! 夢がなくたって、ただ奏に生きててほしいんだ!!」
「だったら、はるかも生きてなくちゃいけない」
ただそれだけの、悲しみのなかで失われてしまう肯定にたどり着く。
「かなでははるかが大切……それは、瑠依も。はるかがはるかを大切にできなくても、瑠依ははるかを想う」
変わることは、求めるものでない。
変われた自分で、相手を受け止められるのなら。
それは、ふたりにとっていつかの夜のように。
「いっしょに生きよう、はるか」
過ぎ去ったものを胸に宿し続け。
置いていかれたふたりは、過去を忘れない。
「ありがとう、瑠依」
手が繋がれる。
脈動がふたつ。
だからまだ、諦めない。
心が描くもの。可能性が導く未来。その景色は決して、失ったものを思い出すためにあるのではない。
過去の妄執。未来へ行けない命を、どう救えばいいのか。
水槽の夢を見る。
奪ってしまった命。終わらせてしまった命について、瑠依は思う。
大切だった。生きててほしかった。だから、掘った土に死体を埋めたあのときの感情は、知ろうとしなかった後悔だ。
言語が違くて、生態として法則が違くて、理解には程遠いのだとしても。
そんな後悔はもう、したくなかった。
魔法少女は無限の落下に抗う。
飛ぶ。
それは、重力への矛盾。
光に寄る虫のようでも、花の蜜を吸う虫のようでもあり。
希望を引き寄せる行為こそが、少女に奇跡を体現させる。
その魔法を見咎めるように、目。
連環する虹色の眼球がただじっと、魔法少女を見つめる。
罪があるように。積み重ねるように。摘み取るように。詰みへと導く。
それに感情はない。瞳は鏡のように働く。人は瞳の中に自らを孕む。凌辱される命の出生の罪過に耐えきれず自死を選ぶ。自滅機構としての悪夢。
目。自分以外の目。それに惑わされ、自分自身を見失えば、ただただ失意の連環に陥る。
貫く方法はただひとつ。
正しきでなく、自分自身であること。
ふたりの魔法少女はステッキを振りかざす。
不形の幻想。踊る物語が、星を描く。
もうひとり。黒髪の少女は、その星をはじいた。
流れていく。かつて希望と呼んだ星。ならば、その道のりをなんと呼ぶべきか。
「ミルキーウェイ」
瑠依がつぶやいた。
「分かたれるためじゃない。渡るために道がある」
多くのものが届かなかった。
でも、それでも。
命はまだ、途絶えていない。
遥は言う。
「届けるよ。どれだけ拒まれても。いつかきみが必要とする日のために――この希望を」
無限落下の空虚を照らす。泡沫の夢に中身が生まれる。その自重に耐えきれず割れていく。中身が溶けあう。空となる。
星のない空。
明けない虚空へと戻っていく。
「はるか」
「うん」
剥き晒しの瞳が七色に蠢動する。最後の縁を放さないように、それはただただ世界を見つめる。
「終わり。あなたが与えられた役割に何を思ったかは知らない。けど、瑠依たちの物語に相容れない。魔法はただの夢物語でいい」
不形の幻想がかたちを変える。瑠璃色は描き変わり銀色へ。形象は鍵へと移り変わる。
瞳孔を貫いた。
「もうこの境界は開かない」
錠の閉じる音が響き渡った。
そして。
星が虚空を駆ける。
遥の思惑を超えて加速する。
きらきらと。それは、割れた鏡面の欠片。
「莉彩……!」
「巻き込めよ、あたしも」
増幅する光が、容赦なく徹底的に鍵穴を焼き切った。
だからもう、残る奇跡は魔法少女のみだった。
「で、どうするんだ」
莉彩の問いに、奏の顔をした遥も同調する。そうまだ、未練は手放せていない。
それでいい、と瑠依は考える。その弱さこそ、その弱さを抱えながら希望を謳うのが空閑遥という少女だと、信じていた。
だから、言う。
「ライブをする」
摩擦のない偶像であることを選ぶ少女へ。
「歌って、はるか」




