異床同夢
閉じゆく≪終極の光≫を上書きして、新たな〈世界〉が確立されていく。
絶望の虚空。それを破り捨てて生まれ出るのは、希望が存在しない世界。
失われる失望でもなく、絶たれる絶望でもなく。
希望の実在が否定された空に、神が降り立つ。
だれの夢か。いいや、夢は終わりを告げた。
だれが願った。そう、明確な意思をもって。そうすると決定した存在が、ひとつ、あった。
空を眺めながら、ひとり。瑠依は思う。
それは、はじまりのはじまり。
有が生まれる以前、世界だったもの。
夢の尤も深いステージ。
ある蕃神の眠りは、そうして彩られていた。
その舞台の上で、あらゆる原形は可能性を広げてきた。
〈空〉。
有が発生し、境界によって仕切られたもの。
かつて境界を越え、有をかつての空の状態へ還そうとした悪意。
その源泉はなんだったのか。魔女が世界に贈る希望から芽吹いた少女の魔法によって退けられ、錠が閉ざされ真意は霧の向こうに消えたはずだった。
天音奏の有為性とは、根源的な部分に理屈を抜きに手を架ける行為によって示される。救いがひとのかたちをした奇跡。救世主――あるいは、そのような存在が生まれ落ちるほど、この世界に限界が迫っていたとも捉えられる。
銀色の鍵。錠によって閉ざされて境界を開くには、そう願われた少女が必要だった。
奏が到達したのは、〈空〉とは別種。その根源にある、この宇宙を構成する夢見る神だった。また、異なる蕃神の計画だろうと、神の天敵としてデザインされた奏がその命と引き換えに討ち取る奇跡を成就させたのは、約束された結末だった。
それでおしまい。そのはずだった。
≪魔女の夜≫。すべての運命は、そこからこの結末へ加速した。
開くだけならよかった。境界に立つ管理者として魔女が、銀色の鍵たる瑠依自身が明確に二項を管理していたから。
銀色の鍵によって開かれた門を通り、奏がこちらへ帰ってきた。生存の歓喜は、失望へ転じる。
奏は、行きと帰りの道が異なっていると認識できていたのだろうか。
欠けた夢。失われた心臓。からっぽの胸こそ、その存在そのもの。
奏の心臓を媒介にこの世界へ侵入した蕃神。
それでもまだ、待っていた。雌伏の刻を。
人目を避けて咲く花のように。夜に咲くアサガオのごとく禍々しい矛盾を放出しながら、ひっそり秘めやかに少女の命として花弁を落としてきた。
救世主が生まれた。銀の鍵が生まれた。平面的な交わり。二次元的であり、銀幕に映る映像の手ざわりに似る。
しかし、立体において神は描かれる。みっつめのファクター。
三次元的な現実によって、この世を侵食するに至る因果。
希望を司る魔法少女が生まれた。
〈あれ〉はずっと窺っていた。〈星〉の魔法少女が生まれることを。
希望という夢が失われれば、世界の空虚を埋める光はない。ボイド――泡沫の夢が消える道理はない。
これは、だれの打ち込んだプロットか。
見えざる手。
運命。
運ばれる命を、錯覚する。
それこそ真実か。自由はなく、逆再生のマトリョーシカのように大きなものに覆われている構造を、内側の暗闇では自覚できない。
すべてが同時期。契機など不明。
「アト」
すべてが剥離していく空の下、瑠依は影に声を落とす。
浮かび上がった透明な猫は、いつもよりどこか世界の色彩に馴染んで見えた。
「クライマックスといった感じだね」
「まだ、エピローグにも遠い」
瑠依の否定にアトは目を丸くする。
「きみは……はじめると言っていたね。でもきみは、はじめることしかできないはずだ。鍵で開ける。鍵で閉ざす。そのどちらも、何かのはじまりだ――いまこうして〈空〉が降り立ったように。錠がかけられたから、この状況に至った。≪魔女の夜≫を開いたから、あれはこちらへ侵入できた」
赤い舌が回る。
「きみ自身が役者となることはできないはずだ。なのにどうして、終わりを決められる?」
「世界に立つと決めたから」
「きみの言う世界は、奏や遥への依存だろ?」
「だから、終わらせて、はじめる」
異なる場所から同じ夢を見た。
夢をもらい、希望を繋いでもらった。
今ここに瑠依がいられるのは、間違いなく奏や遥のおかげ。
かつて、奏だけが瑠依の認識であったように。ひとり増え、ふたりだけが世界でもいい。
けど、知った。
永遠はないと。ただ望めば続くものなどひとつだってない。
どんな長い映画も必ずエンドロールを迎える。結末があるから名前がある。終わらないものに名前はない。
それはあの日、奏にすくい出されたときからわかっているべきだったのだ。
だれかの夢が終わって、銀色の鍵は少女として瑠依という名前を戴いた。
この世界は、名もないものを終わらせることではじまってきたのだ。
「瑠依は……終わらせることしかできない」
手指に土の感触。思い起こすのは、大きな水に浮かぶ命の欠けた赤い体。
その現実にまだ、瑠依は名前をつけていない。
〈銀色の魔女〉――〈伽〉の魔法少女。
「アト……あなたが贈った奇跡を終わらせる」
希望を残し、〈空〉の化身として存在を成れ果てた魔女へ。
「瑠依は魔法を根絶する。瑠依の夢を最後に、世界の奇跡を閉じる」
決然とステッキを構える銀と瑠璃の少女に、透明な猫は驚きで言葉を染めた。
「そう、この因縁を終わりへ結ぶのは……奏でも、莉彩でも、遥でもなく――きみだったんだね、瑠依」
「ようやくこっちを見た……お互いに、おまけでしかなかった」
「こんなに近いのにね」
最古の魔女が最期の魔女へ告げる。
「ぼくの夢を終わらせて……瑠依、きみの夢を見せてくれ。魔法と名づけられたぼくは、そうして夢物語と消えるだろう」
空が剥離した。景色が欠乏した。文明は回帰し、世界という世界が形象を失う。
泡立った。
虹色に蠢動する球体のなか。
ふれれば割れそうな、しゃぼん玉のような空洞だった。
満ちるものはない。埋まるものはない。
それは、役割を失った水槽だった。
水で満ちることこそ役割なのだから、アクアリウムは朽ち果てた。
それでも、泳ぐ。
ひれ。
ゆらゆらと、重力を知らないように。
事実、無重力。
あらゆるものが失い世界では、自由すらもないはずなのに。
回遊する赤い体。
金魚が頭上を踊る。
その体躯がわずかに透けている。腹のなか。内臓の代わりのように、黒髪の少女が横臥している。
「かなで……いや」
眠っている――夢見ているその姿を、瑠依は見定める。
「はるか……やっぱり、その貌になった」
わかっていた。初めて目にしたその日から、今日この日に至り。
空閑遥の自己否定を。
「はるかは、かなでになりたかった」
天音奏の夢に憧れた少女。
天音奏の命に憧れた少女。
ふたつは同じで、違う。
生き方と存在。二項は互いを補完し合うが、別種である。
同じ生き方は選べる。
同じ存在にはなれない。
なるのなら、自分自身を完膚なきまでに捨て去るほかない。
そうして生まれたからっぽに存在を上書きする。
憧れた理由すら捨て去って、ただ演じる。どこまでも芝居でしかないという空虚は忘却されて、空洞の命に赤い拍動を奏でる。
魔が差す。隙間にこそ、邪なものが宿る。
捧げものは無垢であるほどいい、というのは古来から変わらず。
自らを捨て去ったものなど、傀儡でしかない。
しゃぼん玉が視界に漂う。飛蚊症の視界のように。連続せず、ただ散発的に存在する。
そのひとつひとつが夢。はじけて消えて失われる希望の七色。
こここそが、夢を失い自分自身を失った末路。
望みは失く、命は失く、夢は失く、永久に生まれることのない空虚。
ゆえにこの〈世界〉の名は≪失≫「うるさい」
瑠依はステッキを振るい、不形の幻想で空に奇跡を描く。
この〈世界〉の名を、確定させない。
名づけてしまえば神は降り立ち、ただ開閉の役割しかもたない瑠依に勝ち目はない。
空間にありえざる世界を描き続け、攪拌する。
情報を完結させない。
〈世界〉――〈失望〉が叶えられなかった夢を、主役として夢見る風景がやがて現実を描き変える奇跡の空疎な残骸。
あるいは、奏の≪終極の光≫とは、閉じているだけでメカニズムとしては変わらなかった。
すなわちまだ、主役は定まっていない。舞台から下ろすための契約の印――今回は、主そのものが垣間見えている。確定してしまえば手出しの方法はなく、世界の連なりは途絶える。
常に新しい一行を。更新し続ける。世界の描き変えが火花を散らす。
先読みされれば上書きされる。しゃぼん玉色の猫が思考をかき乱すようにして心に失意を招く。暗がりに落ちる視界を振り払い、新しい文脈を紡ぐ。
一向に遥へ近づけない。
その心に鍵を差す。それだけが果てしなく、叶わない夢のように遠い。
構築する世界が底を尽きることはない。支倉に借り、多くの映画を観てきた。湧き出る想像力が多様な掛け算を実現する。
「……っ」
しかし、クオリティは落ち込んでいく。徐々に先を読まれ、場合によっては〈世界〉を描き変えるほどの強度がなく退けられる。量は構築できても、その質を見定めるほどの目を養うほどの余暇はなかった。
とかく、今は数だった。
じわじわと押し込められる。しゃぼん玉が割れていく。空間を見開く目がじっと瑠依を見つめた。
金魚は、下界の喧騒など意に介さず自適に泳ぐ。
「……はるかっ」
呼んでも、黒髪の少女は起きない。
どうすればいい――どうしようもない。
「あ」
一瞬。
ただ、魔が差すように。
実現できないと、叶わないと思ってしまった。
その心を見透かすようにして目玉が瑠依を捉える。
動けない。どうしようもない。
敗れる。
魔法少女、その夢が、破れる。
「――やぶれねえよ」
声。
熱く、失意の零度を滾らせるような、希望に焦がれる音。
赤色。
「魔法少女はやぶれない」
鏡が舞う。割れた鏡面、なめらかな鏡面。
二枚による錯視が現実を描き変える。
〈鏡〉の魔法少女。
「莉彩……どうして」
「希望与えられて、いつまでも寝てられるわけねえだろ」
瑠依の描く世界を拡張して、〈世界〉を押し返す。
「んでてめえ、ひとりでやろうとしてんだよ」
「それは……」
化身をステッキで切り払いながら、瑠依は前進する。
「これは、瑠依の人生の問題だから」
「あ?」
「瑠依が生まれてきたから、鍵ができた。鍵という概念がなかったら、境界は開かなかった」
だれのプロットだろうと。
その咎は自分自身のものだと、瑠依は言う。
それが運命――命を運ぶということ。
選んだ命を手放すつもりはなかった。
「生まれてきちまった罪ってやつか。まあ、そいつは仕方ねえな」
莉彩が鼻を鳴らす。吐き捨てるのでなく、受け止めるようにして。
「でも、周りに頼っちゃいけねえ理由にはならねえだろ」
鏡の魔法が拡大しようとする〈世界〉をかき消す。
「言えよ、とりあえず。どうにもできねえかもしれねえけどよ。聞いてはやる」
「でも……言ったところで、ただの個人的な悩み」
「迷惑ってやつはいるかもな。でも、少なくとも、あたしはそう決めた。だったらあとは、おまえがだれにどう話したいかだよ」
どうしたいか、どうなりたいか。
それを決めて、ひとりで届かないのなら。
どう頼るか。
「手伝って」
「時間は?」
「一瞬でいい――飛べる」
藍の瞳が、見定めるまでもなく捉える。目的のしゃぼん玉。漂う夢をふたつ、海溝の色で引き込むようにして瑠依は飛び込んだ。
そして。そして。そして。
夢と化身の合間、〈世界〉を飛び越えて、舞台裏の主役へ羽ばたく。
その宣言の通り、一瞬だけ姿を消した。それだけあれば完成し確立するだけの〈世界〉は完了していた。
鏡の魔法によってわずかに、運命を遅延させて、いまを縫い留めた。
だから届く。届かせる。
羽はいらない。思いだけで現実は変わる。
腰横に溜めたステッキを振り上げる。金魚の腹部。割く。
ずるり、と音が鳴るような内臓をこぼす重々しい光景が目に映る。
腸でなく少女。
落ちる遥の手に、瑠依は手を伸ばす。
摩擦がない。掴めない。手がすり抜けていく。
「それがトラウマだって、わかってる」
尾を引く体温を惜しむ間もなく、瑠依は叫ぶ。落ちて消えようとする少女へ。
「はるかっ」
その夢を、口にする。
「かなでと喧嘩しよう――それが瑠依の最後の魔法」
まぶたが、揺れる。




