冬の蝉
虚空を切り裂く流星。客席からステージへと飛び降りた遥の姿を、奏はそう捉えた。
名前を呼ばれ、存在を確立する。
閉じていくページに差し込まれた栞。そんなわずかな隙間から差し込む光。
まだ、世界は完結しない。
魔法少女。
夢を叶える少女が、夢を叶えるまでは。
漆黒の燐光が舞う。オーロラのリボンで結ばれた純白の衣装から、呪われた夜のアサガオの衣装へ着替える。
アイドル。
から。
魔法少女。
ふたつの魔法が激突する。
走る星が茨を引き裂き奏へ卑近する。
「……弱いね」
顎を開く虚空が光を飲み干す。
地上を低く駆ける遥が接近して、剣のようにステッキを振り上げた。
棘がその導線を塞ぐように乱立する。
噛みあい、相殺。
迸る衝撃に遥は後方へと吹き飛ばされた。
「夢が叶ったんだ」
ずたずたに破れた衣装を修復する蛍に似た光が舞う。遥の膝は折れない。
だから、告げる。
〈絶望〉の魔女が宣告する。
「だれも希望なんて求めない。きみらの奇跡はもう、世界を描き変えるほどの可能性は秘めていないよ」
「だからって、今この瞬間に諦めるわけにはいかないでしょ!」
「ああ――だから、奪え」
声。
赤い声が降る。
赤い光が降る。
それは、問答無用の救済。ゆりかごに揺られる赤子の魂。その無垢を撫でる、罪をそそいだ手。
ゆえに〈世界〉の名は、≪永遠の救済≫
≪運命の錯赫≫。
鏡の錯覚。偽りの救済が奏の魔法をすくい取る。
「この〈世界〉の主役を!」
莉彩の魔法が奏の魔法を駆逐する隙間から、遥は星を飛ばす。
「届け」
じゃなく。
「届かせる!!!」
その先駆けが黒の衣装にふれ。
涙が落ちた。
「届かない」
夜空を思い出させるような瑠璃色の球体。そこから溶け落ちたしずくたちが星のことごとくを包み、飴玉に変えてしまう。
お伽噺のような荒唐無稽さ。
ふわり、と降りゆく姿は、魔女の切り絵のよう。
失われた夜を想起させるふたつの色彩。冷えた月の白銀と、さめざめとした孤独の夜を描く瑠璃。その衣装を身にまとい、瑠依が参戦した。
その横合いから赤が迫る。振り下ろされるステッキを、〈伽〉の魔法少女もステッキで防いだ。
軽い音。幻想のような打撃音が響いた。
「てめ……だれの味方だよ!」
「決まってる。瑠依の信じるもの」
「今を見ろよ! ぜんぶなくすぞ」
「もう手遅れ」
その諦観が莉彩に火を点ける。赤い唇を引き裂いて叫んだ。
「遥! こいつはあたしが抑える。そっちは任せた!」
「……いけるかな」
先の攻防は短くとも、自信を失わせるには決定的だった。
莉彩がそれを鼻で笑い飛ばす。
「相性問題だよ。あたしじゃ届かなかった。おまえしか可能性がない」
「……」
「届かせるんだろ?」
「……うん」
自信があるわけではない。確証があるわけではない。
やらなければいけない。まだ、決着を迎えたわけではない。その事実が、遥の瞳に希望を灯す。
「こっちはさっさと片づけて合流する。あんま気負うなよ」
そう言うのと同時に鏡が舞う。正誤を歪める魔法。その切っ先が瑠依の首を掠めた。
不形の幻想――瑠璃色の球体の一部が、主の撥ねられた首を接合する。そこからアクセサリーであるように棘が飛び出て赤い瞳を狙った。
噛みあうステッキを浮かせようと上体に意識を向けた瞬間、下方から衝撃。莉彩の下腹部に瑠依の足先が突き刺さった。
曲げた膝が上がる。後方へ回避するための慣性がない。呻き反射的に折れた上体が棘との距離を縮める。
貫く。
虹彩をえぐり、縦横無尽に開く。脳をおもしろおかしく犯す様は、発禁扱いの児童文学を思わせる。
そういう物語が脳髄をえぐり出した。
赤い血と赤い臓物にまみれて、赤い魔法少女はくずおれる。
そこまでを目にして、瑠依は自身の食道を逆流する大腸を自覚した。
「――」
矛盾。道理でない。ありえない。
奇跡、と呼んでしまうにはおぞましい結果であるが。
魔法。
不形の幻想に自らを飲み込ませて、体躯を描き変える。
同一性についてはもはや意識にない。自らの魔法という一点において、連続性は担保されている。
覆いを取る。晴れた視界に見えるのは、一面の暗がり。虚空。
ただ、奏と遥の姿が見えない。
「〈世界〉」
つぶやくと同時に、それが視界の先に映る。
爪の先端まで赤い。五指が顔を覆う。そして引き裂くように――顔の皮を剥ぐようにして面が顕わになった。
その軌跡はゆらめく焔のよう。彼女自身の激情か。陽炎、蜃気楼。逃げ水。面影とは、そんな幻想だ。
存在こそ鮮烈であるのに――否、ゆえにこそか。
生まれにおいて自己のない少年は、少女の仮面を焼きつける。
俤。世界と鏡の境界が失われる。
「いいの? はるかはかなでの〈世界〉に取り残される」
「信じてるんだよ。あいつがだれだか、忘れたのか?」
「……希望を謳う〈星〉の魔法少女」
「希望がないからこそ、あいつは奪わなきゃいけねえ。主役を。じゃなきゃ、世界の片隅にだって希望は存在しないって証明することになる」
莉彩が語る。赤い紅咲く唇。もうひとりいる。
「はじめまして、でいいよね?」
「ずっと会ってる」
「?」
「莉彩を通して。あなたは……ふたりは、そういう鏡写し」
「そっか……あまり、あなたと戦いたくないな」
「同意見。あなたは見てるだけでいいはず」
「まさか。奏ちゃんとの縁を手放すわけにはいかない」
「そう」
互いにステッキを振るった。
不在の天体と不形の幻想が相克し、悲鳴をあげる。
声なき声をあげるのは、描き変えられる世界。
虚空に風景が過ぎていく。それはありえざる進化の過程。キュビスムとシュルレアリスムが同居する次元で六足の脚をもつ人間が逆立ちで歩行している。蛍光色の瞳をしたくらげが原子力発電所と交尾を繰り返し天使を孕む。神罰を糧にするマダニの連続爆破が地上に神の姿を描いた。今日も自殺者はいない。
確定する前にふたつは離れた。それは選択によるものではない。圧縮されるふたつの卵の殻が割れて互いの中身を混ぜてしまうように。外殻が耐えきれずに離散したのだ。
壊れたフレームは世界そのもの。数多の可能性がこの瞬間に汚濁と化した。二種の不はいまだ健在。指揮に合わせ宙を舞う。
赤い天体が瑠依に迫った。焔が盛り前髪を焦がす。
ふわり、後方に飛びながら〈伽〉の魔法少女はステッキの先端を差し向けた。隙間。不形の幻想が傘開く。
すなわち、≪魔女の夜≫。
簒奪した〈世界〉を繰り広げる。
失意に落とす魔女の雨が天体から温度を奪う。
赤が剥ぎとられる。燃える天体。その正体が顕わとなる。
〈世界〉そのものであり、莉彩の命そのもの。盛るそれは脈動だった。
停止する心臓。鏡だ。黒い鏡が姿を見せる。
だから、妖精が湧き出た。地面にはいつのまにか河原のように小石が敷き詰められている。そのひとつひとつが羽の生えた虫だ。たかる。瑠依の胸めがけて。心臓を捧げれば太陽の消滅を免れる。
濡れた鏡が煙を吐く。贄を求める。戦乱を求める。破壊を求める。混沌は夜の色。あらゆる存在が等しく暗がりに落ちる刻にこそ運命は選択される。
ただ奪われるか。奪うか。
瑠依の心臓は静かに凍っていた。いつだってそう。激昂が血管を走り抜けようとも心拍は変わらない。瞳と同じ色の血が流れているかのように。どんなときでも冷えている。
贄であることは縁深い。発生した瞬間から、銀色の髪が運命を縛りつけた。爪の先端から子宮まで自由はなかった。偶像。人の世に落ちた神とは、そのように扱われる。
でも、今はそうでない。
救いがあった。夢があった。失望があった。希望があった。選択があった。命が――。
河原で石を積む赤い子供を見た。指先が土に濡れている。乾いていた。その手がひび割れていていいはずはないのに。
「自由を、あげたかった」
瑠依はつぶやく。開いた口の隙間から虫が這入り込んだ。
喉を犯される不快感を無視して、少女は続けた。
「あなたの声を、聞けなくて、ごめん」
子供は答えない。言語が違う。そもそも届いていない。
ずっとそうだ。
眼球の毛細血管へ侵入した虫のせいで視界がにじむ。
水槽の夢を見た。
水槽に浮かぶ脳が電気信号で与えられた景色を見る、そんな夢を。
この世界とは、そのようなものだった。
だれかの夢。だれかの眠りを悦ばせるための人形劇。
あまねく希望も絶望も意味がない。そんな失望の球体。
だからって、悲しみまで計算通りなんて、それこそ感性に欠ける。
情動が巡る。静脈と動脈を経由して心臓に熱を与える。虫を巻き込んで――妖精を飲み込んで、お伽噺を紡ぐ。
心音は逸らない。どこまでも静かに。どこまでも深くに。どこまでも密やかに。宇宙でなく海溝にこそ人の文脈は見いだされる。
命。酸素はいらない。なくとも呼吸ができると知っている。
自由だ。
ひとの思いとは、どこまでも自由に思い描けるものだ。
泳ぐ。降り注ぐ雨のなかを。
瑠依は歌わない。
ただ、歩いていく。
歩けば届く、月にだって、星にだって。羽がなくたってひとは空を飛んだ。
水たまりから発生した生命が空を飛んだのだ。
太陽がひとつ消えたところで、そんなものは天の川銀河の限界でしかない。
そんな退屈な物語で満たされるほど、この空虚は底浅いのか。
求めてもいい。
もっと夢を。
現実的じゃなくて荒唐無稽で到底叶わないような夢を。
夢物語を描くところから、奇跡は生まれる。
不形の幻想。かたちをもたない物語が世界の法則を示す。
虚空に太陽はなく、それでもひとは夢を見た。
≪終極の光≫を介入させることで≪運命の錯赫≫を打ち崩す。
妖精の幻覚が消える。同時に赤い子供も遠のいた。
正視する世界には、赤い魔法少女。
「しぶてぇな、相変わらず」
「らちが明かないと言ってた」
「はっ、あの頃から変わってるだろ。おまえもあたしも」
「同じだけ変わっていたら、結果は変わらない」
「言うじゃねえか」
「運命論を捻じ曲げる〈世界〉」
「解説どうも」「あなたの魔法は、未読の一行って感じだよね」
同じ口でふたりがしゃべる。
「〈伽〉の魔法」
「でも、なんでもありってわけじゃねえ」
「物語は自由」
「文脈があるでしょ。それを破綻させたら、物語の強度が落ちちゃう」
「どうする」
「簡単だろ。あたしのほうがつええ」「文脈を捻じ曲げて、それでおしまい」
「じゃあ、終わり」
あっけのない幕切れだ。その余韻のなさに莉彩は舌を打つ。
〈鏡〉の魔法少女がステッキを構えた。
不在の天体が、何も映さぬ鏡として瑠依に襲いかかる。その空欄こそ、彼女が収まる遺影だった。
そう。
終わる。
ただしそれは、これまでの物語が終わる。
〈伽〉の魔法少女がステッキを掲げるのに従って、不形の幻想が空を舞う。
そこから降る。落ちる。
一条、その先駆けは吉兆。すぐに雨のように連続した。
虚空を照らす光。
星。
「失望の物語も絶望の物語も終わり」
輝きが遺影を拒む。
「ここからは、希望の物語がはじまる」
きらめきが赤い魔法少女の脳天を貫いた。
衝撃に膝をつく。遠のく意識の最中、それでも明瞭に声を発したのは、莉彩のプライドゆえか。
「おまえ、だれの味方だよ」
「瑠依の信じるもの」
温度の変わらない声。いつも通り、少女は断言する。
「はじまりの一行は、捻じ曲げられない」
☆ ☆ ☆ ☆
いくら願ったところで、星に夢は叶えられない。
星は夢を見ることしかできない。
夢見るだれかの夢を、見ることしか。
「もう限界でしょ」
声に憐憫があった。それは憐れみの感情を源泉としているより、学友が赤点をとってしまったのを慰める温度感が近い。
揺らぐ。
いくらステッキを振るっても――ステッキを振るうたびに。
星が揺らぐ。
存在が揺らぐ。
〈星〉の魔法少女。
希望を謳う存在。
遥のなかで希望が揺らいでいた。
明滅する衣装をどうにか引きずって、遥はそれでも奏に迫る。
虚空がそれを拒む。もはや手を振るう手間すらかけていない。目に見えた穴に落ちていくだけ。反射を試す動物実験のようなありさまだ。
「むりだよ」
「むりじゃない」
「むりだって」
「諦めない」
「じゃなくてさ」
湯冷めしたかのような熱量を声に乗せる。ライブで歓声を受けた歌声とはかけ離れている。興覚めを与えてしまっている事実に胸が締めつけられる。
奏が胸をはだけた。
「タイムリミット」
蠢動する球体。七つの色彩が、ただひとつ。そのひとつすら、もう色という色がなかった。
「……まだ、日付は……」
「私、いつこっち来たか憶えてる?」
問われ、気づく。文化祭の終わり。だから、日付はまたがない。
そんなくだらなくて残酷なレトリック。
「七日の命。蝉みたいだよね。季節外れ……でも、夢に似てる生き物だ。抜け殻残して儚い命を使い果たそうとする」
奏は、空を見た。
「うん、いい夢だった」
終わる。
色彩が。
命が。
夢が。
天音、奏が。
砕けるでも、溶けるでもなく。
存在がなかったように、ただ目の前に、虚空だけがあった。
静寂。
その静けさに、叫ぶことも、崩れることもできない自分を知る。
ああ――だって、そうだ。
わかってしまったのだ。
わかりすぎてしまうほどに。
世界の真理に気づいてしまったかのように。
自分の心が、わかってしまった。
「夢を、守る……」
そう決めた。
それは、なんのためだったのか。
「わたし、奏のために夢を守りたかったんだ……」
むずかしいことはない。
ただ、大切なひとが大切にしていたものを守りたかった。
そんなことに、今さらに気づいた。
本当に、ほんとうに、今さら。
「わたし……奏が大切だったんだ……」
だから、そう。
〈星〉の魔法少女は――空閑遥は何も守れなかった。
夢も希望も。
大切なものを、何ひとつ。
すべて掴めなかった。
「……」
否。
ひとつ、ある。
取り戻す方法。
はじまりの、はじまり。
『このままじゃ本当の貌を失うぞ。なあ、なりそこない』
夢をもたないから、夢のために命すら捨てられる奏の熱情に惹かれた。理解しようとする感情、その孤独に寄り添うこと以上に、そうなりたいという願望が胸の奥の奥にあった。
喪失への後悔、でなく。
憧憬を、本物とするのなら。
なりこそないでなく、今度こそ奏になれる。
頬にふれる。コンシーラーで隠したそばかす。摩擦のない肌。
生きる意味を持たない自分より、自分のような人間すら救ってみせた奏こそ、真の希望だ。
『瑠依もあったかいよ。わたしたち……生きてるんだ』
呪いが胸をうずかせた。
生きてほしいと思ったのだから、死ぬことはできない。
生きてほしいと思うだれかを、知ってしまったから。
生きてほしいと望むだれかを、知っているから。
でも、それでも。
「ごめんね……わたし、もうどうやって生きればいいかわかんないや」
その言葉を、流せない涙の代わりにして。
空閑遥は。
〈星〉の魔法少女は。
〈失貌〉し〈失望〉となった。




