きみだけが星、だとしても
暗い世界だった。失望の荒野。果てしない、のではない。それは夢の証左。ここに行先なんてない。末期の病床のように、己で身をよじることすらできない。夢を見ることしか。眠りのなか、お伽噺だけが痛みを忘れさせる。
叶わない。だから、見るほかない。それが実在しない夢幻と知ろうとも。縋るほかない。希ってしまう。もっと、もっと。やがて、その光を自在に手にする存在を呪ってしまうほどに。
夢を欲する。
夢にやぶれた、からっぽの抜け殻。
〈失望〉。
こんな空間があることが――逆説的に、集積地として生まれたのか。
魔法少女の成れの果て。希望を失い自分を見失った末路。
〈失貌〉して、〈失望〉になる。
だから、絶ってしまうのが救いだと、わかる。
夢への架け橋を絶ってしまえば、夢を望むことはない。存在しないのなら、失われることはない。
叶えること。完結させること。
病床の終わり。
出棺。
死。
「……」
溶ける赤色があった。もはや意識の糸はほつれ、結び合うことはない。毛束と風景が一致するのに時間は要さず、面影のように姿を錯覚させていた。
それなのに。
「――」
開く。瞳を。燃えさかる赤い瞳を。
心臓の奥底から音が響いた。命の音。あるいは、命を絶つような声が全身の水分を揮発させる。沸騰した血が噴き出て体を汚さないのが不思議なくらい、その歌は熱をもっていた。
ロックンロール。
歌詞はわからない。メロディは不明瞭。だけど、伝えたいものに震える。
存在証明。命の色を問われている。
叶えて夢を失った。それでも命は続く。透明を乞う心臓に、もう一度赤色を重ねた。
塗りつけた色彩を新しい夢と錯覚してでも前に進む。
偽物でもいい。心臓を動かす理由になれば。生きてほしい。そんな言葉に、応えられるのなら。
偽物を本物にするため、再度の業火に身を捧げる地獄を味わってもいい。
だから、莉彩は起き上がった。
燐光が舞う。失望のなか、それでも自らを定義するもの。希望。そう贈られた存在。
魔法少女。
鏡が舞う。赤い魔法少女が立ち上がった。
「なあ、莉彩」
「なに、莉彩」
弟は鏡に目を向けず問いかけた。鏡の中の姉も同じものを目にしているとわかっていた。
魔法少女が〈失望〉に転じる所以――契約の印。ここが失望の荒野であるのなら、それをまざまざと見せつけられる。
莉彩にとって、それはつまり母の存在だった。
「結局のところよ、あたしたちにはどうしようもできねえよな」
「うん、それは、お母さんだけの苦しみだから」
姉を死産した母の地獄は妄執として世界を描き変え、弟にその面影を焼きつけた。その夢を叶えるべく魔法少女となって、それ以上には届かない。
麻薬を打ってただ延命するだけ。緩和はできても緩解は不可能と、手放した。
「割り切ってんのに、消えねえもんか」
「トラウマって、そういうことなんだよ」
「……終わらせたら、消えるのかな」
「変わらないよ、私たちは。変われない。そこを変えちゃったら、きっとまた消えたくなる」
「終わらせることだけが正解じゃない、か」
「何もかも綺麗に清算したら、摩擦がなくなる……生きている実感を、見失っちゃうよ」
「なら、そうか」
「うん、私たちが許せないのは……生きることを諦めようとするひと」
「終わらせるほうが幸せな命なんだとしても、その命を肯定できるようにしてやる。そんな希望になるって、決めたんだもんな」
莉彩は歩き出す。鏡も並んで進む。
母は生きている。たとえそれが滑稽でも、悲劇でも。その場かぎりの物語だったとしても、縋って信じて生きている。
だったら、それでいい。生き方なんてそれぞれ。どんな姿勢だって、生きているのなら。
「長生きしろよ」
「……ごめんね。でも、幸せにね」
遠のく。振り返ることはしない。過ぎていく星に願いを託した。なら、その終わりを追うことはしない。
叶うかどうか知れずとも、叶えようとした。
一歩踏み出すには、それだけで十分だった。
たとえその先が奈落の底だって、求めるのは、帰る場所じゃない。
「おい、そろそろ目ぇ覚ませよ、遥」
失望の荒野に溶け込む星に、莉彩は手を伸ばす。
「まだ諦めてねえんだろ」
「……うん」
「じゃあ、支えてやる。あの時と一緒だ。おまえが飛べ。届かせろ」
鏡の内側で定義する。希望の星。その姿を。
光が舞う。〈星〉の魔法少女が再現される。
空閑遥は、息をした。
☆ ☆ ☆ ☆
虚空に奇跡の兆しはない。
窓から外を窺いつつ、銀髪の少女は壁にかかったカレンダーに目を配った。
日付にバツが重なり、刻限を視覚に訴える。
〈天音〉の復活――そしてラストライブまで、残すところ二日であった。
「楽しみねぇ、奏ちゃんのライブ」
正面に視線を戻る。藍の瞳が老女を捉えた。
白いものの混ざった鬢、口角の横にやさしいかたちの皴が集まっている。レンズの大きな眼鏡の奥にある瞳だけ、苛烈な火を思わせる熱量を宿していた。
支倉と表札の出ている家屋にて、瑠依は家主と膝を交えていた。
「始まれば、終わる」
「どんなものでもそうでしょう。映画だって、終わりを期待してみんな観るのよ」
「終わらなければいい、というひともいる」
「そうね、楽しかったり嬉しかったりすれば……ずっと続いてほしい。永遠になってほしいって思っちゃう」
「えいえん……」
そうつぶやく瑠依は、かつての願いを思い返す。
夏の終わり。希望と名付けた星に託したもの。
奏の夢が永遠になればいいと願った。そうするために生きていくと決めた。
その傍らには――いまはもう光ることのない瞳を、まぶたの裏に見る。
眠り姫が寝覚めるころには、すべての夢は完結しているのだろうか。その仮定に意味はないと、瑠依は目を開く。
「終わらないことを望んでも、終わる。終わるのは、ぜんぶ。ハッピーエンドじゃない」
「どういう意味かはわからないし、きっと、聞いてもわからないことなんだよね?」
「うん」
「昔も、そういうことがあったの。奏ちゃんと出逢った……救ってもらったときのこと。何が原因だったのか、そもそも何が起きてたのかもよくわからなくて、でも、よくないことだった。それしかわからなくて、けどそれに困ってた」
昔話を読み聞かせる口調で支倉は言い重ねる。
「それが何かなんて、わかるに越したことはないんだけど……わかったところで解決しないなら、大切なのはそれじゃないのよ」
老女の瞳が揺れて見えた。それは彼女のもつ熱ゆえか。映る藍の動揺か。
解は単純とばかりに、支倉は背中を押す。
「瑠依ちゃんがどうしたいか、でしょ」
どうしたいか。どうなりたいか。
少女の奇跡を決定づけるもの。夢と希望でできた少女の魔法が
どんなかたちになるか。
どうなりたいかは選んだ。〈伽〉。がらんどうの空虚を慰めるお伽噺。かつて自分が救われた夢を、自分が継ぐと。
どうしたいか。これだって、決まっている。奏の夢を叶える。そのために生きてきて、そのために生きている。
でも、だから。
瑠依はここにいた。
「……あなたの夢を、利用することになる」
声に迷いがにじんだ。踏みにじるような行為を果たしてでも、叶えたいものが瑠依にはある。それでも、ためらってしまう。
冷酷に。後悔するくらいならば、と思う。もう一度、魔女としてふるまう。未来の喪失を拒むため今の苦しみを強制した、あの夜のように。
しかし、その境界を踏み越えられない。鏡の内側の世界で、自らの起源を拒絶したあのときから。
〈伽〉であることを決めたあの瞬間から――あるいは、≪魔女の夜≫の終わりから、贈ることに迷いが生じるようになった。
寄り添う。それが理想。でも、手遅れになるかもしれない。
一方的に、叶え、奪い、管理する。
ここにきていまだ逡巡する自らの甘さに、瑠依は奥歯をかみしめた。
支倉を上目がちに窺う。老女はわずかな沈黙をもって、告げた。
「夢って、ひとりで叶えるものじゃないのよ」
「それは……」
一義的にはそうだろう。魔法少女の夢も、アトを経由して描かれる。
「でも、夢を見るのはひとり」
「そうね、胸の奥……心はだれにもふれられない。ひとりとひとり、同じものは見れないのかもしれない。でも、だからってその外側にふれちゃいけない理由にはならないわ」
支倉は、指先を温めるようにして手をさする。年輪のように見えた皴が伸縮した。
「私には、奏ちゃんの見ていたものはわからない。今だって、あの子が何を目指しているのか見えないわ。けど、奏ちゃんに救われて、私は映画館の夢を続けられた。その縁は、確かなのよ」
「……」
「だから、利用するとか考えなくていいの。最善を……ううん、できることを全力でやろうとして、そのぜんぶがぜんぶ正しいわけじゃなくても……きっとそれは、希望になるから」
星の終わり。その熱を瞳に宿す老女は、まっすぐ瑠依を射貫いた。
「だれに許されなくたって、夢は叶えていいのよ」
その光は、海溝までをも照らした。
だから、瑠依はもう迷わなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
カレンダーが埋まっていく。
月の終わり。季節の終わりにはほど遠くとも、過ぎて戻らないものが悔恨を誘う。
通しのリハーサル。本番のステージに立ち、明日の動きを先行する。
本番は、ただ流れをなぞるだけ。
一回性という意味では、この瞬間こそ再現のないものだ。
しかし、と奏は考える。
熱。
夢。
光。
――命。
呼吸をしているのに、埋まらない。
飛ぶ。舞う。歌う。
心臓があった頃ならBPMに近づいていき、肺胞ひとつひとつがうねるのを感じる。
なのに、埋まらない。足りない。満たされない。
どれだけライムライトが体を焼いても、欲してしまう。
欲望。体温の交わり。粘膜の交換。根源的な繁殖欲による暴力性にもはや意味はない。支配による一方的な略奪でも反応しない。とうに次代は変わった。
ライブ。
入念に準備され完成されたステージに、あらゆる夢と希望が集まるあの瞬間だけが、生の実感を与える。
アイドルだろうとファンだろうと、関係なしに。
ステージの高さが境界だろうと、物質的な違いに意義はない。
その輝きのなかで、自分という存在を燃やし尽くせるか。
熱中。
死に至る病。そんな絶望だったとしても。
瞬間の光に、鼓動を明滅とできるか。
あらゆる光は、その最後こそもっとも輝く。
すなわち、≪終極の光≫――セプテムルミナ。
シンガーアイドル〈天音〉の復活ライブは、そう銘打たれていた。
リハーサルを無事に終えて、スタッフと肩を組んで決起の声を上げたりして。
衣装を脱ぎ、インナーに上着だけ羽織ってシャワールームに向かう。
汗で冷えた体が四十二度の水で温まっていく。喉が潤っていく。
ハンドルを閉めて、体を拭いた。わずかな水滴の音を背後に、髪に櫛を入れる。オイルで濡れた髪を乾かしながら、鏡を見据えた。
心臓。剥き出しの、失望。
胸は軽く、色はもう二色。数時間もしないうちに一色しか映らなくなる。
だから、マネージャーに自宅まで送られ、親と明日の意気込みを共有して、寝処に這入り――超えて、窓から飛び立った。
燐光が舞い、夜咲くアサガオの衣装が身を包む。
虚空を撫でる。
野外ステージだ。ましてや深夜、音も光も遠く渡る。本番の前日、常駐するスタッフはいてもわずかに寝静まる。
その沈黙を縫って、奏はステージに降り立った。
ブラックホールにも似る暗がりへ。
込み上げる思い。噛みしめたい感情などいくらでもある。
感傷にひたるため。
ここにきて、天音奏にそのような感情は湧かない。
ふたり。
ステージに先立つ存在を視認した。
虚空なお眩い少女。
魔法少女。
夢と希望がそこに立っていた。
「よく起きれたね」
「あんなもん、よくある夢だからな。起きたくなったら起きるよ」
「冬って寒いから、長く寝たくならない?」
「だったらもっと布団よくしてくれよ。寝心地最悪だったからな」
「これでも最高峰の自負があるんだけどな」
「ユーザーレビューってやつだ。改善しろ」
「偏ってるなぁ。遥は、どう?」
「……どうって?」
「あのまま眠ってたほうがよかったんじゃない?」
「そんなわけないでしょ」
「そっか、酷評で残念だ」
肩をすくめた奏は、「それで」と言葉を繋げた。
「きみらは、どうするの?」
「言ったはずだよ」
遥が静かに、重く返す。
「奏を止める」
「魔法少女は魔法少女を傷つけられない。この法則の根本を、忘れたわけじゃないでしょ」
「夢を目指す姿を否定できない」
「だから、私の夢は否定できないよ」
「否定しないよ。見届ける。明日のライブだって」
遥は懐から一枚の紙片を取り出す。それは奏の贈った関係者席へのチケットだ。
「ありがとう。でも、叶ったらおしまいだよ」
「ううん、魔法少女はそんな便利なものじゃない……アト」
沈んだ夜から透明な猫が浮かび上がる。対立する魔法少女、その中間に。
遥が、赤い舌へ問いかける。
「夢が叶ったあとの魔法少女はどうなるの?」
「昔、言った通りさ。次の夢を見つけなきゃ、〈失貌〉して〈失望〉になる」
「綺麗さっぱり終わるなんてできない。奇跡に願ったわたしたちは、醜く残骸をまき散らす――だから」
遥の瞳。星はない。ただ、意思だけがあった。
「からっぽの奏に、もう一度、希望を見せるよ」
「物は言いようだね。押しつけじゃないか」
「奏の救済だってそうだよね」
遥の言葉が、肉体的な距離以上に迫った。
「縁は巡るよ、奏。途絶えたりなんてしない」
望みを絶つ〈空〉の魔法少女へ、〈星〉の魔法少女が宣言する。
「わたしは勝手に救われた。だから、勝手に奏を救う」
そう、だから。
虚空に星はない。
光のない世界。
ただ、奏はまぶたを細めた。
時刻はとうに日付を超えて、胸の灯はひとつ蠢動する。
だから、返した。
「じゃあ――見ててね、私の唯一のお星さま」




