残夏シネマエンドロール
「ん……」
日の光が遮られた一室で、少女は意識の輪郭を取り戻した。
外と内の境目を認識する。
どこまでが自分で、どこからが違うのか。
それを把握して、自らの名前を思い出す。
つまりは、目を覚ました。
「ぁ」
と、長い息を吐いて、めいっぱい伸びをする。
全身に血が巡って、脳が手足の重さを思い出してしまった。
睡魔の指先に翻弄されそうになる。
うわごとのように息を短く吸う。睡魔がわずかにたじろぐ気配がした。その勢いのままに少女は起き上がった。
重たいまぶたをどうにか開ければ、まだ暗闇が見えた。
足をベッドから降ろす。指先が床にふれる。ほんのり冷たく心地よかった。
ぴたぴたと歩いた先に、ほんのりと光の漏れ出ている場所があった。
そこへ両手を伸ばし、思いっきり開く。
視界が白く染まった。脳の奥まで差し込むような刺激で意識を釣り上げる。
握った遮光性のカーテンを手放し、空閑遥はぐったりと陽光を迎えた。
「なんか……都合のいい夢を見てた気がするなぁ……」
疲労が抜けきらない。
机の上の時計を見れば、時刻は正午を超えていた。
休日ではあるものの眠りすぎだ。
気を滅入らせながら、血液が鉛になったような体を引きずる。
伸びた影から透明な猫が浮き出た。
「おはよう」
喉を鳴らして体を伸ばす猫に、遥は目を丸くした。
「アトも寝てたの?」
「ボクは寝ないよ」
姿かたちは猫に似せても、中身はまったくの別物だ。
「魔法少女として戦ってから一晩が明けたけれど……どう、感覚は?」
「どうって……。びっくりすることばっかりだよ」
「だろうね。なにせ」
アトは「くぁ」とあくびをして、
「天音奏がやっていた。それだけで魔法少女になることを快諾したんだから」
「奏を理解したかったからね」
「それでも、天音奏の夢の末路を討つんだね」
「それがわたしのやるべきことだって……魔法少女になった理由だって、そう思うから」
夢の内容はおぼろげだ。けれど、あの屋上での出来事は、剥がれることなく記憶に焼きついている。
遥はクローゼットの前に立った。すぐ横の姿見には、よれよれの寝間着を着込んだ茶髪の少女が映り込んでいた。
高校入学をきっかけに何となく染色し、そのまま惰性で続けた茶髪は伸びたまま。手入れを忘れられて久しく、枝毛が立っている。
魔法少女のときの髪は、流麗な黒であった。奏に対する本心から目をそらしていたのだと痛感する。
思わず頬が歪んだ。まばらに散るそばかすが色を少し濃くした。
昨晩、莉彩に見せつけられた顔を思い出す。
息をのむ奏の美貌とは違い、華やかさからかけ離れた地味な顔だと再確認する。
自身の姿を、再確認する。
「わたしの顔が一番しっくりくるわ」
慣れ親しんだ自分の顔にうなずく。
だから、求めているのは奏になることではない。
未練だ。伝えられなかった思いを、未だに引きずっている。
「けど、奏がいないなら……」
そのつぶやきは、自覚なく。
ただ、思考がこぼれ落ちるように言葉を吐き出していた。
「……さーて、準備しますかー」
クローゼットから見繕った私服をベッドに放り投げ、寝間着のままに部屋を出る。
洗面所で簡単な身支度を済ませた遥は、リビングに顔を出した。コーヒーの芳香が漂っている。ほっとする香りだと鼻を鳴らした。
「おはよう」
「おはよう」と、一息入れている様子の父親の声だけが返ってきた。
「お母さんは?」
「もう行ったよ。お父さんももうすぐ向かうけど、遥はどうするんだ?」
「今日なにか……って、そうか。うん、顔出すよ」
父はいつものようにタブレットでニュースサイトを巡っている。その後ろを通り、食器棚からコップを手に取った。
冷蔵庫の麦茶を注いで席に着く。コーヒーの苦みが寝覚めに効くのは知っているが、遥にはまだまだ強すぎる刺激であった。
食卓の上に並んだラップのかかった食器に手を当てる。まだほんのりと温かく、昼餉であることが理解できた。
母の気遣いに感謝しつつ「いただきます」と手を合わせる。
「なんか声がかすれていないか。風邪か?」
「そう?」
箸を持とうとした手で喉をさする。痛みはない。体の倦怠感は疲労によるものだ。喉も昨夜の戦いの影響であろう。
「乾燥してるのかも」
「加湿器出すか?」
父がそう言うのを横目に麦茶を飲む。
冷たい。喉が喜んでいるのがわかった。
麦のほのかな甘みが鼻を抜けていく。
一息に飲み干した。
「ふぅ……どう?」
「治った」
「じゃあ大丈夫かな」
安堵と共に席を立つ。
二杯目を汲んでから、あらためて昼食に手を付ける。
針生姜がちょんっと乗せられたさばの味噌煮に箸を通す。
ふっくらとした身質が伝わる。さっくり切り分けて口に運んだ。
味蕾をつつくような甘い味噌の香りが鼻から抜ける。噛み締めるほどにじみ出る濃厚な脂が舌の上で踊った。散漫に広がっていく鮮烈な旨みを生姜の辛さが引き締めて、飲み込んでもふくよかな余韻を残した。
追うように白米を口にする。痺れるほどに濃い味を包み込む甘さに舌鼓を打つ。
みつばの浮いた澄まし汁を口に含んだ。塩で引き立てられた出汁のつつましやかな香りに気持ちが落ち着く。
夢心地な遥は、タブレット相手に眉を寄せる父に話を振った。
「ねえ、昨日の……じゃなくて今日の零時ごろにさ、夜が光ったみたいなニュース出てない?」
「ん? んー……そんな話は見てないな」
検索してみるか、という提案に、遥は笑いながら断りを入れた。
麦茶で唇を濡らして食事を進めた。
やや足早に食事を終え、食器を片付ける。父のコーヒーカップも空いていたのでついでに重ねた。
「おぉ、悪い」
「そろそろ時間じゃない」
「ま、いつ行っても作業は変わらないんだけどな。戸締りよろしく」
父はタブレットをテーブルに伏せて、着の身のままに出かけて行った。
遥は洗い物を済ませて自室へ戻る。
寝起きには厳しかった日差しは、今は穏やかなものに見えた。
扉を閉めて、その影からアトが顔をのぞかせる。
「お出かけかい」
「夏が終わるんだってさ」
「すぐに冬が来るよ」
「どうなんだろうね」
遥は寝間着の裾に手をかける。アトは微動だにしない。
「ふつうは姿を消すものじゃない?」
「聞きたいことがあってね」
アトから質問とは珍しいと、遥は首をひねった。
影からひょっこり抜け出して、猫のような身軽さで机に飛び乗った。
「これはなんだろう?」
小学生の頃に組み立ててもらった勉強机。椅子の取り換えはあったものの、本体には目立った損耗がないのだから丈夫なものだと感心する。
アトが問うているのは、卓上にあるものだろうと察する。
何よりアトが、ないはずの本能を刺激されるように手で突いていた。
遥は着替えを中断して、机の引き出しに手をかけた。
なかには赤色の主張が強い筒が入っていた。
それを取り出すと、机の上が少し騒がしくなったように思えた。
「なんだもかんだも見ての通りだけど……奏の置き土産って考えれば特別かもね」
蓋をひねって中身をつまみ出す。
茶色みがかったフレーク状のそれは、餌だ。
透明だけのまあるい金魚鉢でそわそわと泳いでいる、金魚の。
餌を水面に散らしてやれば、ぱくぱくと勢いよく食いついた。取り逃しはないものかと食べ終えたあとも水面を散策していたが、しばらくすると素知らぬように水中を泳ぎ始めた。
「今日も元気だね、きんぎょ」
「奏からもらったのかい?」
「もらった……と言えばもらったのかなぁ? どっかのお祭りですくったはいいけど、飼う時間がないからって押しつけられたんだけど」
餌箱をしまいながら遥は思い返す。
『二匹すくってね。一匹は友人のためだったが、もう一匹はどうしたものかと考えたときに、遥が適任だって思い浮かんだんだ』。そんな奏の言葉が耳に懐かしい。
「金魚を飼う適任はよくわからないけど、そんなに費用もかからないからいいかなって。金魚鉢もくれたし」
「もう一匹はどこにいるんだろうね」
「元気でやってればいいとは思うよ」
さて、と奏はアトへ向き直る。
「用件が終わったなら消えた消えた」
「きみたちはみんなそう言うよね」
「見られるのを許すのは、なんか違うでしょう」
恥じらい以前な気がする。
アトが金魚鉢の影に溶けていくのを確認して、ちゃかちゃか着替えていく。
七分丈のシャツにパンツルックで、軽やかながらも肌の隠れた秋馴染みしたコーデだ。しかし、よく見れば生地の薄さに衣替えが間に合っていないことが見て取れる。
枕の横に転がったスマホと財布を手にした。
机に張り付けたフックから鍵を取る。ひっかけたカラビナを指先で回す。鍵に遠心力が働いた。
緩慢に部屋を出て、小脇に抱えた衣類を洗濯機に放り込んだ。
玄関口にてスニーカーを履いて扉を出る。施錠を二度確認したら、敷地から足を踏み出した。
空閑家は住宅街のなかほどに属する。どの方角へ向かっても、一定の距離で塀と屋根が並んでいた。
空が高い。木枯らしは少し遠いが、頬がピリピリとする温度だった。
「今年も寒くなりそうだなぁ」
そうひとりごちたつもりだったが、塀の上を猫が歩いていた。
アトだ。その様子は、散歩中の野良猫にしか見えない。透明でなければ、だが。
「アトってみんなに見えないの?」
「見えるよ。ただ、見ようとしなきゃ見えない」
「わたしは見ようとしなくてもアトが見えたよ」
「ボクを見ようとしなくていい。希望を以って夢を見れば、自ずとボクが見えるんだよ」
「『失望』も同じ?」
「少しだけ違うね。叶わなかった夢は、ないのと同じだから。そこにないのならば、見ることはできないよ」
「けど、わたしは……わたしたち魔法少女は、見ることができる?」
「ご明察。少女の魔法は夢と希望でできていると、そう意味が贈られている。魔法少女のはじまりは――」
「魔女の魔法」
声がした。
銀色に響く、声が。
「なんで……あなたが」
視線の先で鈴のようになびく銀色の髪を、愕然と震える瞳が捉えた。
「皆森瑠依」
「あなたの、名前?」
「教えられたままだから、空閑遥」
名前を呼ばれ、背筋が凍る。
その悪寒の正体が何なのか。
瑠依と名乗った少女から、莉彩を連想した。
そして勘づく。
「なんでわたしの顔と名前を知ってるの!?」
「アトが教えてくれたから」
「アト!?」
毛並みもないだろうに暢気に毛づくろいをする猫へ向き直る。
「すぐに気づくだろうから、円滑にしたまでさ」
悪気なく言う。善意も聞こえなかった。
「すぐに気づくって」
言われて、遥はそれに気がついた。
瑠依の服装が見覚えのある格好であることに。
「あの、皆森さん、その……制服」
見慣れたブレザーと、男女兼用のネクタイ。
「転入した」
あっけらかんと瑠依は言い切った。
「なんでうちの学校に?」
「少し前からかなでの痕跡を追えなくなった」
「それまで奏が何をしていたか知っているの?」
「風のうわさで」
莉彩の言葉を思い出す。
――魔法少女を救済して回っていた。
その末路で、だれも救えないと嘆き、『失貌』した。
閉口していると、瑠依から言葉を続けてきた。
「空閑遥はどこへ行く?」
冷や汗が流れる。それに答えるのはいかがなものかと、遥は考えを巡らせる。
襲い襲われ――否、殺されかけた仲だ。
行動を知られることは躊躇われた。たとえ逃げ切る算段はなくとも。
その懸念を読み取ったのか。揺れぬ藍色が、遥の瞳を見つめる。
「取って食べようとはしてない。まずは、話すほうがいいと思った」
遥は、ばつが悪くなり目をそらした
「話しても、仕方ないと思うよ」
「そんなことはない。情報は貴重だ」
対話ができるのならばそれに越したことはない。
遥の知らない奏について知れるのなら、なおさらだ。
「……夏祭りに行くんだけど、来る?」
「夏はもう終わった」
「終わらせるんだ。豊作を祝い、越冬を祈願するなんて歴史があるみたいだからさ。今はまあ、懇親会みたいなものだけど」
「……金魚すくいは、ある?」
「スーパーボールすくいならあるんじゃないかな」
「そう……着いていく」
そうして予定外の連れ合いと共に遥は再び歩き出した。
アトはどこぞの影に鳴りを潜めたようだった。
「空閑遥はかなでと仲が良かったって聞いてる」
続く言葉は、聞くまでもなくわかった。
「学校でのかなでのことを聞けば、どこに行ったのかわかるかもしれない」
遥がわからないのは、何度も聞いた言葉ではない。行動原理だ。
「奏はもういないよ」
「だから?」
瑠依が首をかしげる。ピクリとも動かない表情に、遥は目をそらしてしまう。
「そんなのは空閑遥が言っているだけ。瑠依は魔法少女としてのかなでを知っている。かなでが『失貌』するなんて、ない」
「どうしてそこまで信じられるの?」
遥は叫びだしたい気持ちを必死にこらえた。莉彩に鏡を突きつけられたときと似た感情が去来する。
自らは鏡に映し出された像でしかなく、鏡の前に立つだれかが本物と気づいてしまうような恐怖で、歯の音が鳴りそうだ。
取り繕って見目を整えただけの偽物だと糾弾されている気分だった。
「瑠依の命はかなでのものだから」
遥の感情なぞつゆ知らず、瑠依はさも当然のように告げた。
何もかも平坦な、変わらない声音。
瑠依が表情を動かしていないと、見るまでもなく理解できた。
「瑠依が生きているのに、かなでの命が失われたなんてない」
瑠依にとって奏が生きていることは、呼吸ができるのと同じくらいにあたりまえなのだ。
「それが……あなたが魔法少女になったわけなの?」
言葉はなかった。沈黙こそ最大の雄弁だ。
それを直視できず、遥は足の向く先に目をそらした。
立て看板が目に入る。目的地が視界に入った。
「着いたよ、お祭り会場」
立て看板に書かれた堅苦しい名称が歴史を物語っている。それを横目にの前でふたりは足を踏み入れた。
歓楽街の大通りに出店が立ち並んでいる。
人はまばらだ。屋台に吊られた提灯の群れが秋風に寂しく揺れている。
それも今だけだ。いつもは活気が根腐れ寂れた歓楽街も、今日ばかりは息を吹き返す。日が傾くころには歩くのにも苦労するだろう。
設営は午前中の間につつがなく進んだようで、特にこれといった仕切りもなく、各々が自由に商いを始めているようだった。地域交流が主な祭りらしい温度感だ。
出店に立つ人物は町内の役回りなので大体顔なじみだ。学友もいる。追従する銀色の髪の少女に面食らう人がほとんどだが、奏の友人と伝えれば納得された。
瑠依は会釈をしつつ、消化不良そうに声を出した。
「もっと色々聞かれると思った」
「奏についてはもう聞いてくる人はいないと思うよ。皆森さんについては、明日の学校で囲まれるんじゃない? むしろそんな格好してるから、転入前の挨拶とでも思われてそう」
詰所になっている大きなテントで休憩している父母へ顔を見せると、お小遣いがもらえた。
外で待たせていた瑠依にそれを渡す。
「これを使いきるのが今日の予定みたいなものだからさ。買い物したい場所があったら、そこに行こうよ」
「……困る」
「さっき金魚すくいがどうのって言ってたよね」
「昔、やったことがあったから」
「すくい、じゃないけど、金魚なら作ってもらえるよ」
「作る?」
「飴細工って見たことある? 指定はあるんだけど、言えば目の前で作ってもらえるんだ」
「金魚を、作る……」
表情は動かないものの、藍の瞳が戸惑いで揺らいで見えた。
考えていたより気楽な思い出ではなかったのかもしれない。そう遥が思い直したとき、
「興味は、ある」
噛み締めるような一言が瑠依の口から漏れた。
「じゃあ、行ってみようか」
道行きを先導しつつ出店に目を配る。
昨年の記憶と同じ場所に、大きく飴の文字が書かれた屋台が見えた。
「どうも」
「おう、遥ちゃん。じゃあそっちが奏ちゃんの!?」
「うわさ早いですね」
その大きな声は、線の細い体のどこから湧いて出ているのだろう。
手拭いをハチマキ代わりに白髪混じりの髪をまとめている男性が、パイプ椅子から立ち上がった。
瑠依を一瞥して、あいさつ代わりに軽く頭を下げた。銀色の少女も小さく会釈を返す。
「で、本日のご用命は?」
「金魚をひとつ」
「ひとつでいいのかい?」
店前に並んでいる完成品を指差す男性を遥は制する。
「作っているとこ見せてもらいたくて」
「飴ちゃんって歳でもないし、風流を感じるほど年食ってもいないか!」
豪放磊落に笑う男性に返す言葉が思い浮かばず、遥は指定の金額を差し出した。
「じゃあ見てもらおうかねぇ! と言ってもてんで素人の手遊びなんだけどね」
「ここら辺だとできる人ほかにいないですよ」
厚手のゴム手袋を嵌める男性に、今度は返す言葉を見つけられた。
「昔取った杵柄。子供心の手慰みがこうして活かせるってのは、因果なもんだねぇ」
しみじみつぶやく男性は、脇に置かれた寸胴のような容器のふたを持ち上げた。
なかには、でろでろに溶けた飴が入っていた。
それを二本の割りばしに付け、練り上げていく。白っぽい色になったところで手に取って形なが始まった。細かなところははさみで調整しながら、練り飴がどんどん生き物へと変容していく。
粘土細工と似ているようでまったく異なる。
そのかたちになっていくのではなく、初めからそのかたちが自然であるように出来上がっていく。
「……っとまあ、こんな感じでどうよ!」
色こそついていないが、それはまさしく金魚そのものであった。
「すごいです。いやほんと、途中から急に金魚に見えて、初めから金魚だったんじゃないかって思うくらいでした」
「褒め上手だねぇ! そこの嬢ちゃんは、どうだった!?」
男性は、しんと作業風景を見つめていた瑠依に水を向けた。
「どうして手袋が必要?」
「溶かした飴じゃなきゃかたちは変えられないからな! でも、正式に修業したわけじゃないからよ! 熱くてとてもじゃないがさわれないぜ」
「さわれない……」
「どうする!? こんな気温だ。すぐに冷めてくれる。気に入ったようなら持って行っておくれよ!」
「この金魚は生きてる?」
「嬢ちゃんが生きてるって思えば、そいつは否定できねえ! ただまあ、飴だ。少し眺めて、食べてやってくれ!」
ビニール袋に包まれ、ずいと差し出される。
瑠依は割れものを扱うより繊細な手つきで受け取った。
「あつくない……」
「お客さんを火傷させちゃ大問題だよ! おもしろい嬢ちゃんだな!」
噛み合っているのか、いないのかわからない会話に遥は割り込んだ。
「皆森さん、この金魚はどうだった?」
「しばらく見ていようと思う」
パイプ椅子に腰かけた男性が口角を上げたのが視界の端に見えた。
「ただ……空閑遥は、すくうの上手?」
「金魚、だよね。どうだろ。やったことないんだよね」
「スーパーボールならすくえるぞ」
男性がほら、と差し示す方角に、スーパーボールと書かれたのれんの下りている。
「やりたい」
瑠依が短く言ったのを受けて、飴屋を後にした。
目的の屋根の下には、小さなビニールプールが敷かれていた。陽光を反射する水面が人の往来でわずかに揺れて、光のしぶきをあげる。沈んでいるのは、カラフルなゴム玉だ。
子供が遊びに来るにはまだ少し早いためか、ラメの混じった星のようなスーパーボールも数があった。
「こんにちは!」
「おぉ、空閑さんのとこの。そちらが奏ちゃんの?」
「人気者だね皆森さん」
パイプ椅子に座りながら暇そうにポイを数えていた男性に、瑠依は軽く会釈をする。
「ふたりぶんで」
「あんま取りすぎないでくれよ」
金銭を渡し、ポイとボウルをふたつ受け取る。
しゃがみ込んで、遥は静かに狙いを定めた。紫色にラメの入った夜空のようなボールが標的だ。
瑠依はポイを眺めたまま微動だにしなかった。なので先手必勝とばかりに水中へポイを差し込んだ。斜めにすくうようにしてボールを引き上げる。
水に浸かった箇所とそうでない部分の境目が裂けた。
「あ」
破れたポイはスーパーボールをすくい切れず、一瞬浮かんだ星はすぐ水底へと戻ってしまった。
「意外とむずかしいね」
遥はやぶれたポイから覗き込んで瑠依へ笑いかける。結果が出せなかったのでいまいち笑い切れなかったが。
それが視界に入っているのか、どうなのか。ポイを貫きそうなほど見つめていた瑠依が、ぽつりと声をこぼした。
「どうして金魚すくいじゃない?」
それは遥ではなく、店主の男性に向けたものだった。
「地域のしがらみというかな……ま、金魚って命なわけだ。飽きたから、飼えないから捨てるって言うのは良心が痛むし道徳によくない。スーパーボールはおもちゃとして割り切れるし、実際そうだ。それに、おもちゃは飽きるためにある。あの日の思い出として、手放すべきものさ」
まっとう、大人な意見だと遥は思った。
瑠依はそれに何を感じたのか、表情からは読み取れない。
彼女はお礼を返して、ポイを水に浸けた。同じ轍を踏まないように最初に全面濡らして、遥が落としたボールをすくい上げる。
水面近くまで引き上げる。完璧だ。
ボウルへこぼそうと手首を返して、その角度が悪かったのか和紙に切れ目が入る。
破れ去った足場からスーパーボールは宙を舞い、
「よっと」
――そうになったところを、遥が手に持ったポイを使って下から支える。
ころころと重力に従って、スーパーボールは瑠依の構えたボウルのなかに収まった。
「セーフ」
「セーフってか、おまけだな」
そう呆れる男性に道具を返して、遥は戦利品を瑠依に手渡す。
「わたしはそんなうまくなかったや」
「……瑠依も、かなでとやったときと変わらない」
「金魚すくい?」
瑠依は辺りを見渡す。シャッターの閉まった店先のベンチに目を留めた。
立ち上がった銀髪の少女は、遥が男性に頭を下げるのを見て、それに倣った。
歩きながら、瑠依は飴細工とスーパーボール見比べている。どうにも手の収まりが悪そうだと遥には感じられた。
ベンチはひさしが陰となって心地がいい。
ひとり分の間を空けて腰を下ろし、瑠依は金魚の飴細工を見つめながら訥々と語り始めた。
「瑠依はすぐに失敗した。けど、かなでは上手かった。一匹乗せて、たまたま泳いできたもう一匹ごとすくい上げた。紙はやぶれなかった」
「二匹……その二匹は、ふたりで飼ったの?」
「一匹は瑠依が育ててみてって。もう一匹は、友人に預けてみるって言ってた」
「それたぶん、わたしかも」
「そう……空閑遥のところの金魚は元気?」
「えさの食いつきがいいから元気だと思うよ。皆森さんのとこの子は違うの?」
「しんじゃった」
短くも、耳に残る言葉だった。
「最初は鉢で育てた。もっと広い方がいいと思って水槽を買って、えさも忘れなかった……けど、石の影に隠れて、そのまま泳がなくなった」
「広い世界が、合わなかったのかな」
「もっと見てあげるべきだった」
そう口にして、瑠依は黙り込んでしまった。
どうしたものかと遥は考えあぐねる。潮時であると解散するべきか。
ふと、瑠依の手からスーパーボールがこぼれ落ちた。
一度、二度と跳ねて、彼女は焦るようにそれを追った。
意外な一面だった。無事に拾い上げて、安堵でもするような雰囲気も、なかなか見れないものな気がした。
そんな横顔を知っていた。
「ねえ、皆森さん。奏の好きな映画って知ってる?」
「知らない。かなでは映画を観たの?」
「週に一回はね。ちっちゃな劇場なんだけどさ」
配信はおろか円盤化もされていない作品が上映される、まさに理想郷と奏が目を輝かせていたのを覚えている。
「そう遠くない場所にあるんだ。行ってみない?」
姿はおろか、その体温すら残ってはいないけれど。
彼女の生きた痕跡をたどることはできる。
「奏が好きな映画、流してもらえると思うよ」
瑠依の静かな首肯を認め、遥はベンチから腰を上げた。
吹き込む風が頬を撫でた。
冷たい風は、記憶が引きずる暑さを連れ去っていくようだった。
「夏が終わるね」
遥の言葉に、瑠依は何も言わなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
煤けたパンダの石膏と目が合った。
ボールで遊ぶには狭い小さな公園が視線の先にある。
ベンチは置かれているものの、憩いの場としては不適格だ。住宅街からやや外れているのもあって、人でにぎわっている光景を遥は見たことがなかった。散歩に疲れて一休みする場所といった印象だ。
そこから目をそらして、遥は向かいに建つ安普請な劇場に足先を向けた。
季節によって描かれる花が変わる看板には、建物の名称は書かれていない。どういった用途の建物であるかを当てるのは至難であり、だからか出入りする人は限られていた。
よく磨かれたガラス戸を押すと、手すりにくくられた鈴が小さく鳴った。
「アトの首に鈴つけられないかな」
「嫌がると思う」
それを残念に感じながら、遥は事務所から受付に出てきた老齢の女性に頭を下げた。
「こんにちは。お久しぶりです」
「よく来てくれたね、遥ちゃん」
レンズの大きな老眼鏡をかけた女性は、柔和な笑みで遥の挨拶を受け入れた。深く刻まれた皴がやさしいかたちになる。
「来るとしたらひとりでかなって思っていたけど……ご友人かしら?」
「奏の友達で。ほら、皆森さん」
「皆森さん……あなたが、皆森瑠依さん?」
勧められるままに名乗るより早く、レンズの向こうの目を見開いて、老女はそう言葉を落とした。
「どうして、名前?」
「奏ちゃんからね、もし皆森瑠依って子が遥ちゃんと来るようなことがあったら、流してほしいって頼まれた映画があるの」
遥は首をひねった。瑠依にも心当たりはなさそうだ。
「上映の準備するから入ってて。……あ、飲み物とかいる?」
「わたしはいつも通り紅茶で。皆森さんは?」
「奏はどうしてた?」
それに答えたのは老女だった。
「炎のように赤い缶々の炭酸飲料を。劇場色の黒とぱちぱち弾ける炭酸の音、目が覚めそうなほどの甘さがいいんだって」
楽しげに目を細めて言う様子に、遥はわずかに口角を上げた。
「じゃあそれで」
「お菓子はどうする?」
答えはわかっているのにそう訊ねてきた老女に、今度こそ遥が答えた。
「歯の音が耳に響くからナンセンス」
「炭酸はいいのにね」
そう言って笑みを交わした。
「取ってくるから待っててね」
奥へ消えるのを見送りながら、遥は財布を開いた。覚えた金額をトレーにちょうどで乗せる。
その様子を眺める瑠依は、ふとといった調子で口を開いた。
「あの人は?」
「オーナーさん。いろいろあってここを閉鎖しなきゃいけなくなったときに、奏がどうにかしたのが縁で通い始めたらしいよ」
「お待たせ――って、お金なんていいのよ。スケジュールとは違う作品流すんだから」
チープなデザインの缶をふたつ、皴の深い手に持った老女が帰ってきた。
「現実の価値を夢に変える。それが映画を観るうえでの作法だって教わったので」
「ほんと頑なだったよね、奏ちゃん」
恩人に当たるからと老女は金銭の受け取りを断っていたが、奏はそれこそを拒んだ。
その記憶を懐かしむようにして、老女は小銭を受け取った。
缶を手にして遥は奥の部屋へと歩き出す。
瑠依は、缶の冷たさに驚いたように足を止めていた。
老女はそれを不審がらず、瑠依の目を見つめるようにして微笑んだ。
「どうしました、瑠依ちゃん?」
「かなでが瑠依に、瑠依と空閑遥に見せたかった映画。どんな話か聞いてもいい」
「悪魔払いがテーマよ」
「……それは、どんな終わり」
「それは観てからのお楽しみでしょ」
「かなでのこだわり?」
「映画好きのこだわりかな」
瑠依は、静かに頭を下げた。
遥は劇場の入り口でそれを見ていた。合流したふたりは、開け放たれた扉を通った。
老女の言葉に瑠依が何を感じたのかは、傍からは窺えない。
劇場のなかには、パイプ椅子が規則正しく並んでいた。中央の席をふたりは選んだ。隣り合ったふたりの間には、ひとり分の距離が、どちらが選ぶでもなく空いていた。
足が向く先には、わずかな段差で仕切られた舞台があり、そこにスクリーンが下がっている。
はたと照明が落ちて、暗闇が広がった。
劇場を満たす静寂は、わずかな布すれの音すら響くほどだ。
遥は、紅茶缶のプルタブを指先ではじいた。
かしゅ、と缶が開く音が劇場に響き渡る。
その余韻に混じって、隣の瑠依が首をかしげる音を遥は聞いた。
「今……かなでのルール?」
「照明が落ちる一瞬。現実は夢に変わるから……スイッチを押すんだって」
納得が生まれたかどうか。
瑠依もまたプルタブを爪弾いた。
缶に口つけるのは互い違いのタイミングだった。
映画が始まる。
厳しい大地でわずかな実りを分け合う村に、エクソシストを生業とする女性が訪れる。
素性を隠し歓待を受ける女性。彼女は、この村で奉られているという悪魔を探していた。
村の歴史などを聞きまわりながら悪魔を見つけようと暗躍する。
この村は、かつて悪魔憑きだと迫害され逃げ落ちた者たちが集まった場所であり、今住んでいるのはその子孫であった。
怨恨は過去のものであり、村人は憑き物などないようにやさしかった。
だが、やはりそれは表の顔だった。細い糸をたぐるように彼女は真相に近づく。
時を同じくして、女性の動きを怪しんだ村人によってエクソシストであると気づかれる。
くしくも夜。女性は村人らに襲われる。
穏やかに暮らしていた彼らだったが、火種はくすぶっていた。未だに彼らの祖先に押された烙印は消えることなく、あるべき故郷の土を踏めずにいたのだ。
そんな折に生まれたのが、親とは似つかぬ珍しい髪と瞳の色をした少女だった。
それは祝福に見えた。
彼らはその少女に強く願った。自分たちをこのような僻地に追いやった者たちを呪うようにと。それは悪魔崇拝の姿だった。
その強い願いがひとりの少女を悪魔へ変えた。
くすぶっていた火種が、淀んだ花を咲かせた瞬間だった。
時間が経つにつれ悪魔の眷属として異形へと変貌していく村人を、エクソシストは救うことができないと判断した。
村中に仕込んだ聖水入りの爆弾を起爆する。
爆発と聖水が雨のように降り注ぎ、村は住民ごと跡形もなく消し飛んでいく。
爆発の連鎖のなかを駆け抜け、エクソシストは少女の元へたどり着いた。
彼女は、聖水の力も借りて悪魔としての力を抑え込んでいた。
エクソシストは少女に名前を問うた。生き死にの選択をさせるため、せめてもの礼儀として名前を呼ぼうとしたのだ。
返答はなかった。名前がなかった。
彼女は悪魔だった。それ以外に彼女は求められていない。生まれたときから、彼女自身を呼ぶ人はいなかった。
少女は自身で生き死にの選択すらできないほどに奉られていた。
エクソシストは少女と共に生きていくことを選んだ。
いつか少女が生きたいと願った日に、悪魔を祓うため。
いつか少女が死にたいと願った日に、少女を殺すため。
エクソシストの伸ばした手を少女は握り返す。
最後の爆発がふたりを照らし出した。
エンドロールが流れていく。役者の名前から始まって、制作にかかわった人々や出資者の名前が羅列されて、最後に監督の名前が画面の中心にぴたりと留まり、幕が閉じた。
一瞬の暗転の後、照明が点る。
遥は、紅茶の最後の一口を飲み干した。
そして、
「ほんと、爆発が好きだね……奏」
これで親交を深められるとでも思ったのだろうか。奏なら思っていそうだと笑みが浮かんだ。
遥は、作品から奏の姿を見つけることができた。しかし、瑠依はどうだろうか、と視線を向ける。
彼女は初めに口をつけて以来てんでふれもしなかった赤い缶を、何かを飲み下すようにしてあおっていた。炭酸の抜けた黒い液体が白い喉を通っていく。
「……あまい」
その声は、何かを噛み締めるようだった。
「微動だにしてなかった気がしたんだけど、もしかして寝てた?」
「寝たら映画は観れない。ただ、似た話を知ってた。かなでが見せてくれたから」
涼やかな銀の声色に、わずかなニュアンスの違いを感じる。
けれど遥は、その透き通った響きからよどみを見つけることはできなかった。
違和感は胸のなかで空回りして、どこへもたどり着かない。
瑠依は、空っぽになった缶を覗き込んでいた。
「あまいものは、すきだ」
ならきっと、この映画は彼女の好みに合っていたのだと思う。
爆発オチは、あらゆる道理を壊して変化をもたらす、べったべたの砂糖菓子なのだから。
ゆえにこそ、現実はそう甘くない。
ガラス扉の向こうで夕日が落ちていく。受付前のごみ箱に缶が落ちる音が早かったか、否か。
「もう少しでここを閉めるの」
老女は、そんなことを告げた。
遥は、喉の奥に苦いものを感じながら舌を震わせた。
「ここは……だって、あなたの夢だって……」
「そうね。だれかの人生がもう一度始まる場所。そういった居場所を作って、映画を観終えた人々を見送りながら、私は自分の人生を看取りたかった」
かつてその話を聞いた。同じ熱を共有できなくとも、その光を眩しいと思えた。
その輝きが失われる。
「奏ちゃんが夢を叶えてくれたけど……彼女はもう……ね」
明言はしなかったが、言わんとすることはひとつだ。
「だからもう、十二分に夢は見させてもらった。だらだらとエピローグを続ける映画はおもしろくないわ」
「夢を諦める?」
瑠依は何を思ったか、そう聞いた。遥も似た言葉を頭に浮かべていた。
老女は、ゆっくりとした動きで首を横に振った。
「諦めるんじゃないわ。終わったのよ。けど、そこでおしまいってわけにはいかない。人生にだってエンドロールは流れるのよ」
「エンドロールが終わったら、どうなる?」
「そしたらおしまいよ。照明が点く。――欲を言えば、美しい物語であったなら、救われるわね」
遥と瑠依以外に劇場に訪れる人はいない。
街の中心部に大きな映画館がある。そこでは、新作や流行りの映画が日に何本と上映されている。
だから、この場所に落ちる静寂は、水が低きへ流れるくらいに自然なことだった。
「いつ、閉められるのですか?」
「せめて遥ちゃんが来るまではって思ってたから、今日にはもうシャッターを下ろそうと思うわ。看板の撤去もちょうどお願いしてたし」
「お客さんそろそろ上がりましたー?」
からん、と鈴が鳴って扉が開く。
落陽と夜が混じった色の宵闇に、サイケデリックなマーブル模様がぶちまけられた。もともとは白かったであろうシャツに絵具が飛び散って、独特のデザインを描いていた。
だが、それ以上に鮮明に目を引くのは、忘れることのできない顔だった。
赤めく美貌の少女が遥と瑠依を認め、目を見開いた。
「〈銀〉のと……その辛気くせえ面構えは、新入りか」