揺れる心臓
ギターの音色が降りそそぐ。それは、街並みを全景できる坂から転げ落ちるような、清水の舞台から飛び降りるような、勢いに伴う痛みを感じさせる運指だった。
声が鳴る。歌声が響き渡る。
それは、怪物の歌。羽のない天使のような生まれ損ないが明日を目指す希望論を、その少女はがなり立てていた。
叶わないことが絶望ではないと、夢を叶えたはずの彼女は歌っていた。
だれも足は止めない。その光景を瞳に映す、奏を除いて。
ロックスターである夢を叶えたのは、彼女の認識。だから、少女の世界では、それに見合う反響が生まれているはずだ。
たとえ、天音奏が特別な少女でも。
まっすぐには、歩いてこれないはずなのに。
花園夕架璃は、汗が弧を作るまなじりで、奏を捉えた。
彼女の吐く息が白いのは、水蒸気か熱気か。どうしてか、心臓の温度のように思えた。
マイクから離れ、揺れる髪の内側が街灯に照らされる。そのライム色に目を引かれているうちに、息が交わる距離になっていた。
「奏じゃーん。どうしたのー」
独特の間延びする喋りは、研がれた刃のように鋭い歌声からかけ離れていて、まるでふたつ人格があるように思わせる。
そんな二元論で割り切れるほど単純でないと、彼女の詩をなぞればわかる。
クラスメイト。軽音部。何度か、個人的にシンガーアイドル『天音』のライブにひとり訪れていると、風の噂で耳にしていた。
理由までは知れずとも。
迷いがあるのは、見て取れた。
奏がこちらの世界に羽化したときには、その暗がりは晴れていた。
ロックンローラーという夢。それが彼女が瞳に宿す星だった。
「練習帰りだよ。夕架璃こそ、何してるの?」
「見ての通りだよー、私の唯一のお星さまぁ」冷やかすようにその呼び名を口にして、夕架璃は笑う。「路上ライブー。個人のねー」
〈ホエール・フォール〉。それが夕架璃の掲げるバンドの名だ。ベースとドラム。どちらも同じクラスに属している。
「ロックスターがこんなとこで歌ってたら暴動にならない?」
奏は意趣返しのように片笑みながらそう口にした。本心だった。
「今のご時世さー、ロックスターにそんな力はないよー」
謙遜とも諦めともとれる声音で夕架璃は肩をすくめた。肩がけのストラップがピンと張る。少女の胴より大きな意匠のギターが、その見た目以上の重力を感じさせた。
「なんでギターもなの?」
思わず、口をついた。今まで疑問に思ったこともないことが、どうしてか気にかかった。
夢の終わり。夢の叶った世界。
その終極にたどりつくからこそ、夢の原因が気にかかったのだろうか。
理由が不明瞭な問いかけに、夕架璃はなんてことのないように返した。
「かっこいいじゃんー」
不敵に笑う。
「ボーカルだけのバンドだってあるしー。ポエトリーもロックンロールって思うけどー。ギターを構えて歌うステージがー、いちばん強いんだよー」
言い切られてしまえば、それが事実だ。奏は返す言葉を失う。
沈黙。それが休符であったように、わずかな吐息とともに夕架璃が紡ぐ。
「奏はさー、なんでアイドルになったのー?」
「アイドル……」
脳裏に浮かぶのは、どうにも、魔法少女になった日のことだった。
ぷかぷかと、景色を透かす猫が誘う。
『きみの夢は、魔法少女になってしまうしか叶わないものだよ』
寝処の夢。幼き日の夢物語。天音奏にとって、夢の救済は絵本より早く出逢ったお伽噺だった。
親の名を口にし、立ち上がり、ひとり通学路を歩けるようになって、それでも世界の右も左もわかりはしない。
空の果てに何があるのかなんて瞳に映すことはできなくて、せいぜい星のひとつひとつの名前を記憶するばかり。
ただの憧れ。この体ではあまねく夢の救済など不可能だと、失望するまでもなく知っていた。
だから、手にした。生まれて、まぶたを開いて。霞みがかった視界が晴れて、言葉の意味を理解したその日に。
魔法という奇跡を。
夢を叶えるという希望を。
「アイドルはさ」回顧から帰り奏は言う。「キラキラしてるんだよ。そんなステージが用意してもらえる。夢を見せるのに、これ以上の居場所なんてないから、かな」
「じゃあー、なんで歌うのー?」
「アイドルは歌って踊ってキラキラするものでしょ」
「でもー、はじめから作詞もしてたじゃんー」
シンガーアイドル〈天音〉。マイクを置くことがひとつ、その存在の終わりを証明するアイドルという存在において、一点。
歌う。その行為が特別であるのは、奏がデビューソングから歌詞を紡ぎ続けてきたからでもある。
その歌声と並び、言葉が。
存在証明として名を刻んでいた。
なぜ、と問われる意味は、つまり。
ステージに立つ天音の存在理由であった。
どうして、舞台上で輝く必要があったのか。
どうして、舞台上で輝くことを選んだのか。
「奏にとってー、何を言葉にしなきゃいけなかったのー?」
笑顔があった。
「――!」
心臓が揺れる。
ないはずの心臓が揺れ動いて、脈を打つ。
錯覚。それでも、認識は事実に描き変わる。枯れた血管に血が巡り、脳幹を刺激する。
それほどまでに輝かしい、笑顔だった。
星のようだと、そう思い、思い返す今でもそう思えた。
「ある、アイドルがいたんだよ」
夢を公言して、応援されて、夢を叶えることでひとを笑顔にする。きっと、ありふれている。そんなアイドルと出逢った。
スカウトを受けて、勘案の最中の舞台袖。事務所が新進気鋭と推し出す女の子だった。
スポットライトの下に立つことすらファンとの約束で、一歩一歩は小さくて。
「どこにでもいるような子だって、思ったよ。雰囲気がさ、ステージの上にいるより同じクラスにいることのほうが納得できる感じだったから……そんな子が、特別になっていく。そんな道のりが、輝かしかった」
「ファンだったんだー」
「そうだね、うん、ファンになって……だから、アイドルは夢を見せられるって思った」
「そのひとも、作詞してたのー?」
「いいや……そういった憧れじゃないんだ。憧れから始まったけど……そうじゃなくなった」
「引退ー?」
「なんて綺麗に言える幕引きじゃなかったよ。夢にやぶれる、なんてさ、これまでのぜんぶが台無しになる出来事だ」
ひどい有様だった。どれだけ気持ちの整理をつけて、現実を飲み込んだところで。
マイクを手にしたまま最後の舞台から去った彼女は、その内側のすべてを吐き散らかすかのように泣き喚き、瞳と喉が枯れたころには抜け殻を思わせるすかすかの体でどうにか世界との接点を得ていた。
「私の初期の曲って知ってる?」
「応援ソングだよねー」
「伝えたかった。私の夢で、あの子へのエールだった。……だから、その意味が変わっても、伝えるために紡ぐんだよ」
そう。〈天音〉はただ、かつての偶像の影踏みをしているだけだった。
夕架璃は空を見上げた。星のない暗闇を。ぽつりとつぶやく。
「夢が叶わない、かー」
「叶えて、幸せ?」
「ずるい質問だー」
自覚はある。反則で、台無しだと。
けれど、どうしても気になってしまう。
「ねえ、なんで夕架璃、ここで歌ってたの?」
「あはー。夢叶えても幸せじゃないかもーってー?」
その語調のようにゆっくり顎をおろす。瞳に鋭い色が宿っていた。
歌うときのように。迷いのない語気で言う。
「幸せだよ。じゃなきゃ生きてない。叶わないなら――ロックで生きていけないなら、死んじゃうしかないって、そう思ってたから」
「なら、どうして……叶えたのなら、続くだけじゃないの?」
「そうだね、続けるだけだ。だから、満たされないんだ。奏だってわかってるでしょ」
問われ、押し黙る。
そう、その結論を知っている。だから終極を提示した。
「叶った夢はからっぽになる。もう熱は生まれない」
楽譜を知らないギターの音が低く響く。
「だから、求めちゃうんだ。同じ苦しみなんて二度と味わいたくないのに、思い出すのは楽しかった瞬間だけで……初めて『上手くいった』と思えた歌とかギターがあってさ、もう二度と届かない日々だとしても……だからこそ、どうしようもなく、渇望しちゃう」
それは、夢に満たない始まり。
いつか、夢と花開く種子――芽吹いたから夢となった、些細な出来事。
愚かしくてみっともなくて、どうしようもなく理解されないような、小さなきっかけ。
そうしたい。そんな意思が、夢を作る。
夢を叶えようと思うのは、『そうしたい』の瞬間を多く体験するため。
どうして夢を叶えたかったのか。
叶えて、どうしたいか。どうしたかったのか。
天音奏の〈世界〉は夢を叶える。次の夢すら叶えてたどり着く終着駅。そこにたどり着いてなお、埋まらないもの。
理由が埋まらないかぎり、満たされないひとがいる。
たとえ、その理由ごとすくいとってしまうのが≪終極の光≫だとしても、その意味は生きるひとだけの現実で、描き変えられない絶対の法則だ。
かつて、夢にやぶれた少女の姿を思い出す。
夢が叶うこと、叶わないこと。幸不幸は主観でしかなくて、ただ満たされない事実だけが共通する。
虚空のような虚無。奇跡を描いてまで夢を追う少女の失望をボイドと呼ぶ。
夢とは何か――奏は命と答える。
それは、生まれた瞬間から約束された役割のように〈救済〉が根付いていたからであり、命に残るものなんてないと思うから。
一代だけ、美しく誇る花。
その花弁を散らすように、ロックンロールが鳴り響く。
夕架璃がマイクの前にいた。
「夢ってなんだろうな 夜に問いかける絵空事
空想は底抜けて 落ちていく虚ろ その虚無感に悟れ
過ぎていく日々に答えなんてない」
利口な諦観と裏腹に、ギターはジャギジャギと抵抗するようなサウンドを刻んでいた。
「コンクリートジャングル 迷路は今日も大渋滞
私服みたいにスーツを着るだれかが言った
夢なんて子どものおままごとだって」
夕架璃の表情は、空の色彩のように冷めきっている。あるいは、彼女がこれから重ねるはずだった道。十年後のロックスターが宿す熱が、夢の叶った世界で面影として焼きついているかのよう。
「自由自在系の拍動は赤子の積み木遊び 秩序は崩れる
いつから眠れなくなった まぶたの裏は昨日の続き
焼き増しされた今日が希望なんて信じたくない 信じたくなかった」
寒空に汗が散る。決して涙ではない。血を沸騰させるような歌声だったからだ。
「走って 行って 生きて
駆けた先に未来なんてなくても
架けてみせるさ 羽なんてなくたって 虚空の先へ
コンクリートジャングル 落ちていく
砕けた心臓 夢の音を知った」
街灯をライムライトに、ロックンローラーは笑う。
「だから歌うだけ 私が呼ぶ希望を」
かき乱すようにしてギターを鳴らし、曲が終わる。絶え絶えの息のまま夕架璃が瞳を交えてきた。
「やるだけー。シンプルだよねー」
打って変わって気の抜けた声に、気勢を削がれるようにして奏は肩をすくめた。
「そうだね。どうであっても、やるだけだよね」
黒い毛先をわずかに弄んでから、胸を押さえる。
音はない。
もう少しで終わりだと、ゆえに知った。




