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だれもが知る夜の絶望

 夢は叶わない。

 それはきっと、だれもが生を重ねるなかで知ることになる絶望だ。

 幼い眼差しで、星を見つめるようにして夢を見た。夜になって、寝処で目をつむっても、まぶたの裏には夜空を見上げるより満天の希望があった。

 それが失われるのは、いつの日なのだろうか。

 どんな失意の底で生まれようと、底などないように絶望は首を掴む。

 儚い夢。叶うわけもないと知りながら、それでも今日を生きるために育んだ希望すら、摘み取られる。それは、鬱蒼とした雑草ごと面倒とばかりに刈り取られる一輪の花のごとく。

 そのような絶望が、なぜ蔓延(はびこ)っているのか。

 そのような絶望が、なぜ許されているのか。

 だれがその手を伸ばしているのか。だれがそれを許しているのか。

 魔法と出会った。涙の色をした瞳の少女と出会った。そして確信した。

 この希望の絵筆で描き変えるべき、絶対的な現実がいると。

 この希望の絵筆が描き変えるべき、絶対的な悪夢があると。

 鍵があった。境界を見つけた。ならばただ、この身ひとつで旅立てばいい。

 敵わないとは思わなかった。叶わないとは思いもしなかった。

 それがどんな存在であっても、不条理こそを描き変える奇跡を手にしていた。

 少女の魔法は夢と希望でできている。

 その身に備わっていた夢は、魔法を手にしてなお収まらないほどに広かった。希望を失ったことなど、人生で一度たりともなかった。

 たとえ思いに体が追いつかなくても。たとえ理想に現実が程遠くても。

 心だけは、自由に。思い描いていた。

 みんなの幸福を。

 みんなの笑顔を。

 どんな方法を使っても、ひとを救ってみせる。

 だから、そう。

 受け入れられなかったのは、夢がないことじゃない。

 受け入れがたいそんな現実は、何度も味わってきた。

 夢がないから、夢を見る。

 根源的にひとは、夢を必要とする生き物だと知ったから、矛盾はなかった。

 受け止められなかったのは、自分が自分であることで不幸になる存在がいること。

 ――友達になろうよ。

 友達のつもりでいた。だれとも変わらず。壁なんて感じたことはなかった。壁を作ってきたことはなかった。

 曇り空。七夕の日。天の川は見えない。

 彦星と織姫星が再会できたのか、ひとりも知らない。

 ただ、信じていた。

 あたりまえに。当然に。

 ふたりは川を渡って、手を取り合ったのだと。

 そんな、夢を見ていた。

 だから――夢は叶わないと理解した。

 ただ隣にいる少女すら、笑顔にできないのだから。

 それが、天音奏の初めて知った夜の絶望だった。




 ★ ☆ ★ ☆




 朝、目を覚ます。

 常闇の世界(セプテムルミナ)にも朝の概念はある。光の存在しない世界。目印はなくとも、認識によって担保される。

 朝と思えば朝であり、夜と思えば夜である。営みは継続される。

 意味はないのだ。

 だれしもが夢を見ている世界だから。目を開いていようと、なかろうと。

 現実に、意味はない。

 それぞれが固有の世界を目に映す。そこに繋がりはなく、整合性は閉じていた。すべてのかかわりは断絶している。

 絶縁の世界。

 ≪終極の光≫。

 カレンダーをなぞるまでもなく、自らの命の限界は知れていた。

 悪夢(あれ)を拭い去るには、問答無用の台無しな救済でも、代償が伴った。

 心臓。

 命。

 すなわち、


「……夢、か」


 乾いた喉を震わせる。

 コップ一杯の水で癒えるような、かすかな乾き。


「もっと、酷い有様になると思ってたんだけどね」


 起き上がる。暖かな床を踏んで、窓を目指した。

 カーテンを開く。

 寒暖差で曇ったガラス窓は、怪物の顎のごとき蒙昧な暗闇を提示するだけだった。

 部屋は暖気で満ちている。その程度で、震えなく体温は保たれた。

 三日。

 七十二時間もなく、この命が終えるとは思えないほどに。

 天音奏は、満ちていた。

 あるいは、〈救済〉の魔法少女と呼ばれていたころよりも、ずっと。

 体が、叶えるべき役割(ゆめ)を知っていたかのように。


「……」


 着替えを手にし、階下に行く。廊下はさすがに震えを誘ったが、そのあたりまえが今は違和感だった。

 今さら、ではあるが。

 脱衣室を閉めきり、洗面台で歯をすすぐ。

 パジャマと下着を脱いで、暖気の巡る浴室に体を預ける。

 ノズルをひねれば、わずかな冷気の後に約束された温度が足先を濡らした。

 シャワーに胸を晒す。

 驟雨に似るとめどない湯は肌を滑り落ちていく。なだらかな双丘を下り、桜色の先端を過程する運動は、自然なはずの働きがどこか摂理に矛盾する様を幻想させた。

 そんな身体性が、かすむほど。

 通り過ぎていく。その上を流れていくことなどできないはずなのに。

 虚空。

 果てしない虚。

 心臓を真似て蠢動する虹色の球体がなければ底など知れないほどの。

 まるでガラス板でも渡っているかのように、その上を水滴は流れ去っていく。

 化粧して、隠していた。

 暴かれたもの。

 白日にさらされた真実。

 〈鏡〉の魔法少女。その絵筆(ステッキ)が描き出した真相だ。

 曇らない鏡に自分を見て、奏はかつてを思い返す。

 ステッキのひと振りに呼応して、光が降る。

 その一条は、あらゆる人格を飛び越え、その命が見るばかりで届かない幻想(ゆめ)を与える。

 救い取り、掬い取る。

 子供が大人になるための通過儀礼(イニシエーション)。それを拒む、無垢なる寝処の夢は、失望するほかない。

 夢は叶わない。そんな現実を否定する。

 楽園の果実を口にした罪をそそぐがごとく、楽園に花を咲かせていく、救済の魔法。

 〈それ〉が悪夢であるのなら、叶えるわけにはいかない。

 夢を失って、自分を見失って。

 失望し、〈失貌〉した奏は――すなわち、抜け殻(ボイド)でなく、魔女として羽化した少女は。

 夢を絶つ存在として、悪夢を自分の心臓(せかい)に閉じ込めた。

 通過儀礼。

 魔法少女が魔女になったような。

 夢が叶った世界とは、悪夢が失われた世界。

 夢が失われることのない楽園(せかい)

 だから、奏の夢の完結は、彼女自身の死が前提だった。


「……ふう」


 そんな事実を述懐しつつ身を清めた奏は、彼女自身の宿す身分へと変身していく。

 粧し込む必要ない。

 天音奏。

 それだけで、世界に対して必要十分。

 そして、制服姿。

 女子高生として、奏はスカートを揺らした。


「おはよう」


 リビング。体感以上に、照明の色彩が暖気を感じさせる一室だ。

 母がいて、父がいる。一人娘の自分。

 家族が、揃っていた。

 はたして、行方不明とされていた自分がふたりにどんな感情を与えたのか。

 想像はできた。

 善良であること。そう努めること。

 生まれついて視座が通常より広い奏が、その感性のままに通常の生活を送れていたのは、両親のそんな性質によるものが大きい。

 喪失にあたりまえに悲しんで。

 回復にあたりまえに喜ぶ。

 そんな素直な感情の形成をずっと目の当たりにしてきた。

 だから、奏の精神へ悲観が忍び寄る隙は作られなかった。

 そうあるべき、という自明として。

 ひとは夢を叶えるべきであると、信じられた。

 そうすることですべての人は救われると、願い続けられた。

 朝食を囲い、談話が盛り上がる。

 しかし、ふたりの見る奏は、目の前の奏ではない。

 ≪終極の光≫。夢の叶った世界。

 そんな認識のなかで、すべてのひとは生きている。

 矛盾はない。外側でなく、内側の光景なのだから。

 同じ表彰台の頂上を願う百人がいても、百人がその夢を叶えている。

 それぞれの楽園が目に映る。

 だからふたりは、二度と(むすめ)の喪失を味わうことはない。

 それが好いことであると、奏は感じている。

 人道に反していると――人権を蔑ろにしていると思われようと。

 そんなもの、なんの救いにもならないのだから。

 決定された出来事が悲しみしか与えないのなら、認識する必要はない。

 夢を見ればいい。

 悪夢なんてなく。

 幸せな夢だけを見れば、ひとはいいのだ。

 学校へ向かう。

 級友と語らう。彼女らの瞳もまた、夢を見ている。

 空は暗い。まぶたの裏の暗闇。眠りの証左だ。

 あるいは、寝ている子を見る親の気持ちとは、このようなものであるのかと、奏は思う。

 愛おしさ。慈しみ。

 笑顔で過ごしてほしいと考えるのは、当然だった。

 遥の席には、だれもいない。

 だれも、そのことについて訊ねてくることはない。認識されない。

 空白の席の向こうに、海溝のように深い藍を見る。

 その瞳はまだ、開かれていた。

 魔法少女。

 自らの夢で、世界を描き変える存在。

 世界が変容の余地を残している限り、彼女たちの夢が完結することはない。

 だから、矛盾しているけれども。

 莉彩と遥には、眠りについてもらった。

 心臓――奏の世界の内側で。

 根源的な失望あくむを与えることしかできない。

 その事実を振り切るように、奏は体を動かす。

 放課後だった。

 三日後に迫ったライブに向けて、何度も本番と同じ流れを繰り返す。

 歌い、踊る。

 シンガーアイドル。

 すなわち、最後の夢(アイドルマジック)

 夢を完結させるための魔法(うた)を響かせる。

 届かないなんて絶望はない。

 届かせるなんて希望はいらない。

 届くという事実だけが、証明されればいい。

 そして、いつも通りの帰り道。

 ひとり、最寄りの駅に着いて。

 剥き出しの耳に聞く。

 改札を通過する音。そんな平凡な日常を壊すような。


「……うた?」


 ロックンロールと、奏は出会った。

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