失明・失望/絶命・絶望
夜が捲りあげられる。
暗く濡れた街路の錯覚を、光の粒が糺すような光景だ。
夜の底。深夜の静謐の、さらに深奥。どうしても、そこにはあらゆる過ちの吹き溜まりとなる。あるいは、そうした場所でようやく許されるものが実在する。
そのすべてが、漂白される。たとえ、路地の奥に日は届かずとも、固く根を張る地下に及ばずとも。
陽が昇るとは、そんな幻想を錯覚させる、一種の魔法だ。
「……」
そんな夢を、莉彩は鏡の中に見た。
鏡が映すもの――すなわち、鏡の中に描いたものを現実に錯覚させる鏡の魔法。その法則をもってしても、世界の秩序を塗り替えられない。
空は暗い。まるで澱だ。沈殿したものが固まって、押し込められている。果てなどない。青がそうであったように、黒もまた抜けるような色であったはずだ。
ゆえにこそ、夜にはあらゆる失意が投棄できた。実情と異なれど、ここではないどこかへ、胸を焼く思いを投げ捨てられると縋れた。
この世界には、そんな許しはない。そんな思いをこそ、淘汰された。
「夢が叶う世界、か……」後ろ髪に指を通し、眼前に運ぶ。赤いジレンマが鮮やかに蘇る。「夢を叶えたあとなんて、必要ねえよな」
燃えるような苦しみのなか追い求めた夢を叶えた。ならばもう、生き続けることはできない。燃え尽きた心は灰になるほかない。灰を被った心臓だけが鼓動をする。そこに、生きている実感はない。
いくら息を吸っても満たされることはない。心そのものを失ってしまったのだから、もはや未来はないも同然だ。
夢を叶えた自分だけが実在して、固着してしまっている。世界に漂う透明な幽霊の幻想のように。過ぎていく風景を眺め、孤独という自らの名前を知るほかない。
それでも、生きろと呼ぶ声があった。
無責任で、何も知らなくて、同じものなんて見れないくせして。
そんな声が響くのは、きっと、心音の名を呼んでくれたから。
命に根ざした名前は、その理由も意図も関係なく、その人物の存在を証明する。かたちに意味はなく、ただその言の葉がどんな色をしているのか。その色彩こそ、重ねることのできない唯一性を生む。
すなわち、莉彩にとって名前を呼ぶとは、そういった事柄だった。
「なあ、天音」
「どうしたんだい、莉彩?」
ある、グラフィティの前だった。ひびの走る壁面にボムされたメッセージを眺める背中を見つけ、赤い少女は声をかけた。
振り返る少女の、いつかと変わらない黒い――その果てに至る、夜に膿む傷の色をした瞳と視線を交わす。
「あたしは、おまえを終わらせるよ」
「魔法少女は魔法少女を傷つけられない」
その法則を、奏は口にする。
「夢を叶えるのが、魔法少女という生き物さ。夢の叶った世界で、魔法は意味を持たない」
「でも、魔女は違うだろ――おまえが、そうであるようによ」
莉彩の衣服が、赤い花と咲き乱れる。
鮮血のように。鮮烈に、まばゆく。
その顔すら赤く覆われ、俤を焼きつける。
ステッキを振るう。先端の球体は、黒い。宇宙に馴染む色彩だ。
「失貌……そう、久しぶりだね、莉彩」
「う、ううん……あなたは、わたしの知る天音さんじゃない」
赤色の少女の周りを鏡が舞う。認識を映す鏡面。その内側に、日本人形に似る人型が鎮座していた。
それが、赤髪の少女と同じ声を発する。
「違う……けど、うん、同じ……不思議」
「嫌だった?」
「悪いひとだって思えたらよかった。けど、同じ夢を抱えているんだね」
「天音奏はこうであると、きみの弟が認識してるんだよ」
鏡の破片が奏に迫った。雨あられと降るそれを回りながら避ける。その動きと共に、黒い徒花が咲き誇った。
黒髪の少女がステッキを振るう。天罰のごとき、黒い稲妻が迸った。
鏡が噛みあいそれを退ける。
「不在の天体、か」
奏のつぶやきをかき消すようにして、割れた鏡面が地に咲く黒を捉える。錯覚を生むそれが、徒花を消し去る。何も映さない鏡が世界に踊った。
露光する。ひびの隙間から、黒い光が漏れ出た。
それこそが正体であるように、光がひとりの少女の姿をかたち作る。
天音奏。
「あたりまえのようにひとひとり消さないでくれるかなぁ」
「夢を叶える魔法ってやつは、死もなかったことにできんのか」
「いいや、死そのものだよ……夢を叶えること。それがどういうことか、きみがよく知ってるだろ、莉彩」
失った貌の内で舌を打つ。
そうだ。夢を叶えてしまったら生きていけない。それはどうしようもない致命だ。
麻酔も過ぎれば命を奪う。夢への陶酔は、引き返せない地獄への片道切符だ。
命を賭けて叶えた夢があった。勝っても負けても命は失うのが道理だ。
灰になった薪に火は点かない。からっぽに朽ち果ててしまって、爛れた肺では息もできない。
「それでも」
赤い少女は謳う。
「それでも、生きるしかねえんだよ」
吶喊する。鏡の破片でけん制しながら距離を詰める。
「生まれてきちまった以上、孤独になんてなれねえ。どこに過ぎていこうと、だれかから生まれて、だれかに生かされてきた。その繋がりはどうしたって消えねえ」
「だから、すべての縁を絶つ。その絶望の果てに、あまねく夢は叶う」
「夢を失っても、命は脈打ってんだよ」
奏の背が壁につく。側面を鏡が埋めた。逃げ場はない。
「おまえが救ってきたもんの責任を捨てんな」
莉彩が掲げたステッキを振り下ろす。
軽い音を立てて、奏の体を斜めに通り過ぎていった。
魔法少女は魔法少女を傷つけられない。そんな法則、以前に。
ステッキそのものに、何かを害する機能はない。
「無意味って、そう思わない?」
温度のない黒いまなざしが向けられる。その言葉は、いったいどこまでを包括しているのか。
その結果か。それとも、これまでの行いのすべてか。
「いや」莉彩の貌が割れる。「無意味にしねえためだよ」
赤い瞳を養分に、漆黒の花が咲く。毛細血管のひとつひとつに根を張り巡らせたようにして、莉彩の体までを覆った。
致命の絶望。死に至る花弁から、甲高い音が響いた。
それは、鏡が割れるのに似て。まるで、ガラスの造花であったかのように。
花が散った。
「昔、双子の〈失望〉を討ったことがあるけど」ふわり、と奏が浮き上がり壁の上に立つ。「同じ存在がふたりいれば、自己証明を見失うことはないんだね」
鏡写しですらなく、同一。莉彩と、彼女が求めた莉彩。
鏡の中の空想はその光景が消え去ってなお、胸の奥底で声を紡ぐ。
ただの幻覚かもしれない。ただの幻聴で、信じたいものの根拠として縋っているだけかもしれない。
夜空に黒い星を探すような、当てどもない存在。
それでも、脅迫のようにさえ聞こえる莉彩の声の先に、赤い鼓動が確かにあった。
失貌しても、失望しても、絶望しても。
莉彩は、自分自身を見失わない。
「そう言うおまえは、ずいぶんな有様じゃねえか」
赤い視線が射貫く先。
黒い徒花の衣装が爛れていた。
ステッキが通り抜けた先が修復されることなく、肌が露出している。
「いやになるね、まったく」
皮肉るように溜息を吐く。自身の姿を見下ろして、奏はステッキを放り投げた。絵筆は中空で姿を消す。
「ゾンビの気分だよ……ああ、あの爆発は痛快だったね」
「知らねえけどよ……やっぱり魔女は、過去の妄執だ」
「真似事してたくせに」
「だから、だろ」
いじけるように言う少女の言葉を莉彩は一蹴した。
つれないとばかりに奏は肩をすくめた。
「魔女の魔法は世界に意味を贈る……それはただ、かたちを作るだけなんだ。それをどうするか、どうしたいか……解釈して、定義するのは、今を生きる人々だけしかできない」
「だから、死ぬしかねえって……それは、逃げだろ」
「何から?」
「だれに対してもだよ」
ステッキの先端を差し向ける。二枚の鏡が躍り出た。
「勝手に命手放して、んで自分勝手によみがえったかと思えば、また死ぬだ……残された人間の悲しむ顔考えられねえのか?」
「だから縁を」
「そいつが逃げつってんだよ」
鏡面が互いを映す。僅か。そして微か。しかし確かに、ひとつの〈世界〉が顕現する。
すなわち、≪運命の錯赫≫。
「自分勝手に絶縁できると思うなよ」
ステッキの先端が赫灼と輝く。収斂した表現。莉彩が飛ぶ。
月より近い。間近の少女へたどり着くのに時間は必要なかった。
世界を書き変える絵筆にて魔女を穿つ。
魔女の檻。夜色の茨が視界を埋めるも、焼き切る。
届く。赤色が。鼓動なき心臓へ。
そして。
「理屈としては簡単さ」
心臓を焼かれ、奏は語る。
「今を描き変える、そんな未来の象徴たるステッキ。魔法少女が唯一、その贈り手の魔女に抵抗できる観念だよね」
自らの胸を刺し貫くステッキを握りしめる。
「ごめんね、莉彩」
腐食するかのように、ステッキが黒く澱んだ。
「この心臓は、とっくに捧げた。きみの鏡に私は映らない――夢を叶えるためだけに、目を明けてるんだ」
「おまえ……」冷えた眼を見上げる。死者の眼球を埋め込んだ生者のような不気味さに、奏は唇を震わせた。「いったい、何を救った?」
「人を」
明解。その単純な答えは、彼方と此方ほどの違いを感じさせた。
同じ言葉でも、その意味が異なる言語を操っているような、違和感。
「赤色の夢……その理想で救われる世界に、私が架ける」
振り落とされる。ステッキは手放さない。だから、虚空を見た。
奏の胸。ぽっかりと空いた空虚に、蠢動する虹色の球体があった。
それを認知した瞬間、意識が遠のく。
「……てめっ」
墜落の感覚はなかった。
鏡は風景に溶けていく。
「天音さん……」
「死にはしないよ……きみも、弟も……ただ、眠るだけだよ」
差し向けられた憐憫に、奏は薄く笑った。
「おやすみ。赤色と透明の、優しい子たち」
赤い光は途絶え、その残光すら残らない。
虚空に独り。天音奏は君臨し続けた。




