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スターリィシネマ・ダイアローグ  作者: 綾埼空
Fairymirror Festival
28/50

アクアリウムミラージュ

 放課後、並びあって帰路につくのがどうにも懐かしい。

 アルバムの写真を撫でる気分で、遥は校門を抜けた。

 奏が隣にいる。そのさらに隣には、遥の知らない莉彩がいた。

 冬の足音に怯えるかのように背を丸くする彼女の正体を、結局この瞬間までわらかずにいた。

 いくら言葉を重ねても、そのおどおどとした口調から遥の知る赤色を連想することはできなかった。


「アクアリウム、楽しみだねー」


 奏の言葉に遥は小さくうなずく。遊びに行ける、それ自体を喜ぶ気持ちもありつつ、その状況によって少しでも莉彩に歩み寄れればと考えていた。


「支倉さんがくれたチケットだから使わないともったいなかったけど……私と遥ってじゅうぶん映画観せてもらってたから、好意に甘えすぎじゃない? って気持ちもあったからさ」


 この世界でも、奏と支倉の間には縁があった。

 劇場にまつわる〈失望〉はとかく。

 支倉の悩みは、魔法少女であることが解決の必要条件ではない。天音奏が天音奏として活動した結果だ。


「莉彩も来てくれてよかったよ」


 びくりと肩を震わせて、莉彩は困ったように口角をあげた。


「わ、たしも、さ、誘ってもらえてうれしい。天音さんと空閑さんの予定に紛れ込んじゃんったのは申し訳ないけど……」


 彼女の何がそう卑下にさせるのか。必要以上に下からの言葉を、奏は笑い飛ばすように返した。


「言ったでしょ、私たちだけじゃ行きづらかったって。そもそも、遥の様子がおかしいのがきっかけだし」

「失礼な! ……まあ、莉彩ちゃんに失礼だったのは認めるけど」

「お、どろかせちゃったみたいで、ごめんね」

「いや、わたしがボケてただけだから……」


 時差ボケならぬ世界ボケだ。

 そんなこんなで道を行く。距離はそこそこあるが、奏がいるので会話のネタには困らなかった。


「ほんと――」


 遥の口から言葉が転がり出る。


「変わんないね……」


 立ち位置の違いで、居心地は変わらなかった。

 奏は魔法少女ではない。莉彩は性格も容姿も異なってクラスメイトだ。

 今の遥は、この風景を異なる世界のものだと認識している。

 それでも、疎開感はなかった。

 奏がいぶかしげに覗き込んできた。


「同窓会?」

「まだ早いかなー」


 なんて言いつつも、二度と会うことのないと思っていた友達と巡り合えたのだから、去来する気持ちは近いのだろうと思った。


「ほ、んとに……」


 莉彩のつぶやきは、早朝の霜が鳴る音に似ていた。


「仲いいね、ふたり」

「どう、なんだろうね……」

「そこは勢いよく肯定してくれないかなぁ」


 曖昧な返答しか口からこぼれない遥に、奏は冗談めかした憐憫を誘う声音でおどけた。

 そして一転して、彼女の歩みのように芯の通った言葉が向けられる。


「仲よしを証明しなきゃいけないほど浅い関係じゃないでしょ」


 そう力強く言い切られてしまうと弱い。遥は言葉による証明を求めたが、奏はかたちがなくとも実在を信じていた。

 希望論と夢物語は平行線で、夏の終わりにはじけて消えた。

 はたして今の光景は希望的なのか、夢のあぶくと消えるだけなのか――遥は、いまだ奏に手を伸ばせないでいた。

 それでも、心を言葉にして世界に届かせる。


「仲よしじゃなくたって、ずっと一緒にいたいとは思ってるよ」

「ま、仲がいいから仲よくしてるわけじゃないよね」


 奏の答えはさっぱりとしたものだった。その距離感すら懐かしくて、とっくに過去になってしまったものを思う。

 足取りだけがたしかに前へ向かっていた。


「莉彩ちゃんはどうなの?」


 遥の問いかけに当人ははてなと首をかしげる。


「仲よしって言える子、いたりするの?」

「む、難しいこと、言うね……」

「そんなことを言い始めたのは莉彩ちゃんだよ」

「わ、たしは、ただ事実を言っただけなんだけどなぁ」


 困り眉の少女は、迷路の出口を探るように沈黙して、しとしとと音を鳴らすみたいにつぶやいた。


「み、んなと仲がいいと思う、よ?」

「莉彩ってだれとも壁がないっていうか」奏がどこか誇らしげに応じる。「摩擦なくやりとりしてるよね。すごいと思う」

「天音さんに、褒められるようなことじゃないよ」

「そうかな? 私じゃできないことだから、いつもすごいなって見てるけど」

「奏だって、それこそこの街のひととだいたいかかわってるでしょ」

「私はむりやりかかわりに行ってるだけ。嫌だとか思われてても、関係ないからさ」


 思わぬ返答に遥は目を丸くした。


「私が夢の架け橋として役立ってるから、居場所がある。じゃなかったら、ただ場をかき乱してるだけだからね」


 季節を運ぶ風のような声だった。冷たく感じたのは、ただ温度感の違いなのだろう。


「そこまで」遥は動揺を取り繕って言葉を絞り出す。「距離を感じなくて、いいんじゃない?」

「私は夢を信じてるけど、みんなはそうじゃないから途中で諦めちゃったりするでしょ? そこに違いがあるんだから、価値観が違うのは事実だよ」


 天音奏は夢を信じている。ひとは夢を持つのが当たり前で、それを叶えるのが当然だと心に抱いている。

 ゆえに夢を持たない遥によって少女の夢はやぶれ、天音奏は自分自身を否定した。

 その成れの果てである<失望>との戦いを通じて遥は、奏の世界を知った。境界のない世界を。無垢なまでの青空の世界を。

 ただ、その心象を通してかかわるこの世界を奏自身がどう捉えているかまでは、知るよしがなかった。あの夏はもはや手遅れで、対話の余地はなかった。

 汚れはないと思い込んでいた。赤子の感性ように澄み切ってると。けれど、生まれたての子どもだって世界と摩擦する。無垢は、思考がないことを意味しない。

 考えがあって、融和に至れなかったから関係は決裂する。当然だけど、それは悲しい出来事だと感じた。


「それでも……違くたって一緒にいられるよ」

「遥はやさしいね」

「ただの本音だけど」

「だからやさしいねって。莉彩もそう」

「わ、たしは違う、よ……?」


 呼吸をするような否定だった。


「摩擦がないって、天音さんは言ってくれた。それってただ、通り過ぎてるだけ。だれとも摩擦がないってことは、だれともかかわっていないのと同じだって思う、よ?」


 遥は自分の頬にふれた。ざらりとした肌の感触が指先に伝わる。化粧はされていない。けれど、思い出す。

 美に近づくにつれて引っかかりのない存在になると感じたことを。

 それは逃げ水のように、揺らめく火のように。鏡に映る像のように。

 目の前にあるのに、掴めない。


「言いたいこともなくて、喧嘩もない……そんなの、かかわってるなんて言わないよ、ね?」


 答えられない。真理であると認めるわけではなくたって。遥は、言いたいことがあって他者とかかわっている。その摩擦で世界と繋がっている。

 言葉が音を失った沈黙が生まれる。あらゆる感情がとっかかりなく、交差していることを知らないままにただ過ぎていくだけの孤独。隣り合う足音もひとごとで、近づきたくても心臓だけが()いて喉は鳴らない。

 奏の緘黙(かんもく)が気になって目を配ろうとして、莉彩が声を発した。


「お母さん」


 道すがらに、ポリエステルの買い物袋を肩にかけた女性が目に入った。低い位置に一本にまとめられた黒髪が空気を切る。少女の声に反応して振り返った。

 距離が空いてもわかるほどの皺が頬に走っているものの、明るく咲いた表情から笑みを重ねたものだと察せられる。

 高校生の娘がいるとは疑わしいほどに若々しく、その感覚は近づくにつれて深まっていった。表情の明るさもさることながら、艶やかな化粧が実際を脚色していた。


「莉彩……と、お友達?」


 大きな瞳が遥をなぞって奏で留められる。


「あら、奏ちゃん?」

「お久しぶりです、彩羽(いろは)さん」

「お母さんとも知り合いなんだ」

「いろいろと助けてもらってるの……ほら、お母さん、あんまりひとに話を聞きに行くの得意じゃないから、ね」

「適材適所ですよ。きっかけがあれば仲を深めるの得意じゃないですか」

「ほんといい子ねぇ」


 彩羽の微笑みが深まる。彼女の柔和な気配は、遥の知るどちらの莉彩にも似ていない。


「そ、うだね。天音さんは、すごい」


 羨望が擦過傷の血のようににじむ声音だった。嫉妬だ。彩羽とは、莉彩にとってそんな対象なのだろう。

 母。

 親。

 親しき、母。

 遥の知る莉彩と、この世界の莉彩がどこまで共通しているのかはわからない。

 けれど、あの赤色だって確かに存在したのだから、だれかの子であり、母親から生まれ出た。そんな事実を失念していた。

 ――なら、幼少期に何かがあった……きっとそれが、魔法少女になった理由で、だからこそ〈失望〉になった。

 瑠依の言葉が耳の奥でよみがえる。

 目の前の莉彩を見るかぎり、親と複雑な関係を含んでいるとは思えない。もっと外的な要因なのだろうか。

 摩擦がないこと。それが鍵のように遥は感じていた。

 錠のない扉が目の前に立ちふさがっている。つるりとした壁面。取っ手はなくて、ただただそこに存在している。

 この鍵は、どうすれば扉とかかわることができるのか。


「お母さん」と莉彩の呼ぶ声に意識を引き戻す。「今日どれくらいに帰ればいい、の?」

「お出かけするの?」

「う、ん。天音さんと、空閑さんと一緒に」


 彩羽と目が合う。遥は会釈を返した。


「す、こしまえにできた、アクアリウム……連れてってくれるって」

「いいじゃない。せっかくお友達と一緒なんだから、遠慮なんていらないのよ。いつも言ってるでしょ」


 陽だまりのような暖かな声音で母は応じた。


「莉彩の好きな通りに生きていいのよ」

「う、ん……そうなんだけ、ど……」


 歯切れの悪い返答だ。その横顔が、迷子のように陰る。


「……そうだね、遊んでくる、ね?」

「行ってらっしゃい。ふたりも、莉彩のことよろしくね!」


 奏の「任せてください」なんて言葉に相乗りして遥は頷く。

 正反対な親子だと思った。日向そのものな暖かさのある彩羽と、日向の差し込まない影といった雰囲気を言動にまとう莉彩。

 日差しそのものな苛烈さをもつ赤色を思い出す。

 いったい何が莉彩なのだろうか。

 遥もまた、どこに進めばいいのか不明な迷子の不安を抱く。

 それでも、行く先だけはたしかにあった。

 奏が先導する。その半歩遅れて莉彩と遥が追従した。

 道中の会話は、莉彩の家庭環境についてだったが、父母が健在なことや仲がいいことなど、真新しく感じる情報はない。

 平和だ。状況とは裏腹に、どこまでも穏やかな時間が過ぎる。

 秒針が歩数となって前に進んで、現実は目的地にたどり着いた。

 パンダの石膏と目が合う。その向かいにある安普請な建物は、瞳になじみ深い。

 どこか、うら寂しさがあった。花火のように咲いた花の色。壁面を彩った、夢を送り出す少女の魔法(グラフィティ)。撤去の際に消されたのは知っている。

 だが不思議と、その痕跡も存在しないように遥の目には映った。

 <鏡>の魔法少女はいない。赤い色をした莉彩は存在しない。その事実を、突きつけられるように。

 そして、青の世界だった。

 茫漠とした意識のまま、受付などあったのかわからないままに、遥はその場所に足を踏み入れていた。

 奥――いつかは舞台として血と汗を吸い、かつては劇場として物語を焼きつけて、今は命が漂っているという。

 青の電燈で光を蓄える水槽が、整然と並ぶ。その箱庭のひとつひとつが世界だった。

 そこには、何も見えなかった。


「……え」


 あえぐように遥の喉が鳴った。

 ただ、水槽が群れなしている。展示品なら問題ない。値札がないことは不可解ではない。

 珊瑚がない。藻草が揺れていない。金魚の一匹だっていない。

 ふらふらと水中をあてどなく漂っているのは、見間違いのように白く点滅する妖精だった。

 青い光にさらしあげられて、ときおり白く姿を浮かび上がらせる。あるいは逆で、もはや消えかかっているようにも見えた。

 くらげだ。

 その体を溶かして生きているかのような、透明なくらげがひとつの水槽に一匹、泳いでいた。

 月がまとう光の輪を思わせる傘が脈動する。そこから咲いた触手がゆらめく羽のように広がっている。よっつの口腕が手足を幻視させた。

 どこまでも透明だ。青い光によってそれはさらに際立つ。世界の彩りとかけ離れていると、いっそさらし上げるようにして。

 この世界をメイキングした存在の意図が見えてこない。

 とっかかりがない。

 摩擦などないように。

 存在なんてしないかのように。

 閉じた世界はどこにも接続せずに、いつか消え失せる運命と嘲笑うように。


「赤い夢を見るんだ」


 声が、した。

 音が拡散して響く。どこから発せられたのか。どの水槽の隙間から唱えられたのか。

 周囲を見渡して、気づいた。


「奏……莉彩ちゃん……?」


 だれもいない。加えて、来たはずの背後に扉がなかった。

 どこまで視線を走らせても、のっぺりとした壁面が続く。

 孤立無援。

 喉を締められるような息苦しさが遥の胸を囚えた。


「鏡の割れる夢を見るんだ」


 声が続く。

 その音色が莉彩のものだと気づく。ふたりの莉彩。喋り方は違えど、その声は一緒だった。

 音源がわからない。遥はねばつく唾を飲み込んで、そっと足を踏み出した。

 一定の間隔で並ぶ水槽。それがどのような規則に従っているのかはわからない。法則があるのかもわからない。ただ、ふたりぶんの横幅の道をひとりで過ぎる。

 水槽はやはり、どれも青い光に照らされたくらげが漂うばかりだった。

 どこにも、人影のひとつもない。段をひとつあがる舞台上から見渡しても、それは変わらなかった。


「……」


 再び、来た道を戻る。過去を振り返るようにして、そして、思い浮かぶのは赤色の面影(おもかげ)――、


「……あぁ」


 ゆえに、すべてがわかった。

 水槽は鏡だった。彼女、そして彼の――そのどちらも形容できなくなった、ひとりぼっちの逃げ水。

 水槽は世界だ。そして莉彩の心だった。

 何をどう感じていたかまでは、鏡面に映し出された像からでは把握できない。莉彩自身だって、すべてを言語化できているわけではないだろう。

 いくら鏡面がひび割れたって、映るものだけが描写されるように。破片のひとつひとつが別の世界に彩られるわけではない。息絶える可能性のぜんぶを把握するなんて不可能で、それと同じくらい感情を名づけるのも不可解だ。

 あまねくが流れゆく現象にすぎないのなら、心もまた遠のくばかりで、失われるものは見送ることしかできない。

 悲しみはただ頬をつたう。拭えるなんて奇跡のような行為で、感情の意味は気づかれない。


「泣くなよ、遥」


 だから、自分が頬を濡らしていると言われるまで気づけなかった。


「り、さ……なの?」

「ううん、わたしは赤色の夢を演じただけ。あの子がずっとそうしてきたように」


 振り返ると、舞台上にいつの間にかこの世界の莉彩がいた。


「あの子は……弟はいない。赤い心音は途絶えた。ただ白く、透明に消えていくばかりだよ」

「じゃあ、この世界は……」

「あの子の夢見た世界。(わたし)がいて、天音奏がいて、あなたと銀色の子は……魔法じゃ、描き変えられなかったみたいだね」

「莉彩は自分を否定して……貌を失ったの?」

「ちょっと違うかな。あの子は、自分の痕跡が残ることすら拒んだ。自己否定じゃなくて、存在の否定を自分に向けていた。だから、〈失望〉ってやつにはならなかった。……ただ、(おもかげ)を焼きつけただけだよ」

「おもかげ……?」

「求められて、それでもなれなかった姿。なれなくて否定した、自分につきまとう影。赤色はただ自分を守るための仮面でしかなかった。このわたしが、あの子が求められていた莉彩……なんて、空想した」

「それって、見たいものを見てるだけってこと?」

「そう、結局は鏡の中に見たいものを映しているだけ。でもそれで世界は完結する。認識なんて、自分がどう捉えるかって話だからさ」


 莉彩が水槽を指差す。どれを示したかは大切ではない。どれも同じで、ゆえに願望が痛々しい。


「まるで飛んでるみたいでしょ?」


 青い世界をゆらめくくらげ。触手を羽のようだと形容した。まさしく空を飛んでいる。


「だからさ、自分の内側の問題なんだよ。傷つくこと、傷つけること。傷の有無じゃなくて、そうだと思い込んだら存在するんだ」

「けど……だからって、どうして莉彩が消えたいなんて思わなくちゃいけなんだ……」

「あの子も……わたしも、ハッピーエンドが好きなんだ」


 幸せな結末。夢の中の夢。

 それは垣間見た記憶の一幕。たしかに存在した、一夜のお伽噺。


「あのひとが……お母さんが幸せそうに見えるから。もしこのお伽噺があのひとを幸せにしているなら、そんな存在になりたい。それが、莉彩という命の幸福なんだよ」

「そう、だとしても……それだけじゃないはずだ! 莉彩の……ふたりの幸せは、自分にだってもっと向いてるでしょ!!」

「ないよ。だってあの子は、魔法でわたしの蘇生を望みもしなかったよ?」


 遥は呼吸を止めた。吐き出された弾丸に穿たれるような衝撃だった。

 魔法でしか叶わない夢を抱くからこそ、魔法少女になり果てる。

 その望みが正しく実を結ぶかは定かでなくとも、見えているのならばそこへ羽ばたく。だから魔法少女は空を飛ぶ。

 けれど赤色の魔法は、認識をゆがめる割れ鏡。自分自身をこの世界から消し去ってしまう錯覚を描く。

 からっぽの肺が酸素を求めた。吸い込む空気が苦く舌を乾かした。


「莉彩は……本当に、お母さんから望まれた生き方をすることだけを、望んできたんだ……」

「そう、仮面をかぶって影を追いかけ続けた。消えて失くなることがあの子の美だった」

「存在しないことが、完璧」

「影だけが残って、それが莉彩になる。役者が消えて、役だけが浮かびあがる芝居だよ」


 彼女は舞台の上に立ち尽くす。ひとりぼっちで。そこにしか、居場所がないようにして。


「いつから」遥は、奥歯を噛みしめたままか細く言った。「いつから、莉彩ちゃんは莉彩について知ったの?」

「知ったのは、ついさっきだよ。ひとりでこの空間に取り残されて、覗き込んだ水槽にわたしを見つけたんだ」

「じゃあ……こうやって喋ってくれてる言葉は」

「さっき知ったことを喋ってるだけ。わたしの言葉なんてどこにもない。用意されたせりふをなぞってるだけだよ」

「なら……そろそろ教えてよ。莉彩ちゃんの心を」

「赤い夢を見るんだ」


 彼女は、まるで小石をよけるように飛んで、舞台から降りた。そして、水槽の隙間を縫って近づいてくる。


「鮮烈で鮮明で美しい、目を焼く赤色の夢を……なんども見てきたんだ」


 どこか自身なさげて、卑下する声音だった。


「憧れだった。なりたい姿で生きているように見えて……わたしには、そんなものなかったから」

「……莉彩」

「好きに生きていいって、ずっと言われてきた。小さなころから、ずっと……あの子とは正反対。わたしは、お母さんに愛されてきた」

「……莉彩っ」

「でも、わからなかった。わたしには、やりたいことなんてなかったから……なんでも与えてもらったから、求めることがなくなった。生きてる意味がわからない、なんて贅沢だけど――それがわたしの傷だった」

「……莉彩っ!」

「自分で何かを決めることが恐くて、でも選ばなきゃお母さんを笑顔にできない。だから、なりたい赤色で笑うあの子がまぶしかった」

「……莉彩!!」

「わたしは、莉彩に救われたんだ……わたしだって、あの子にはなれなかったけれど、あの子の存在は、たしかにわたしの心を救ってくれたんだ」

「ちゃんと聞こえてるよね、莉彩!!!」


 遥はその名前を呼びかけ、叫んだ。


「莉彩の痛みにわたしは届かないかもしれない……けど、同じ命が――莉彩の憧れたひとが、あなたに救われたって言ってるんだ!」


 奈落に至る命が救われるのに、救世主は必要ない。そんな運命の戯れがなくたって、ひとは自分自身を救うことができる。

 あらゆる現象は流れゆく。時間に意味はない。すべてはただ過ぎてゆく。つまりあまねくがただ存在して、同じ場所で起こりうる。可能性はひらかれている。

 過去が重なって未来になるわけでも、逆の状態でもない。すべてが瞬間に起こるとは、あまねくがただ在るということだ。意味や理由はいらない。

 命は、その存在がだれかの救いとなる。望もうと、望まれなかろうと。そしてそれは、いつかの自分に対してだって。


「ようやくわかったんだ。わたしが救われた言葉。ぜんぶがぜんぶ、莉彩が欲しかった言葉なんだね」


 莉彩はずっと救いを求めていた。差し伸べた手をこそ、すくいあげてほしいと望んでいた。傷ひとつ見えなくたって、その手は自分自身を抱きしめる機能がないほど傷んでしまっていた。


「同じ言葉をなぞっても意味がないってわかってる。わたしは、わたしの言葉しか伝えられない――だから!」


 遥は、たしかなかたちを宿す胸のうちを言葉にした。


「生きててほしいよ、莉彩!!」


 無責任な思いだと理解している。自分の存在そのものを否定するほどの苦しみに、遥は一生をかけても届かないかもしれない。

 でも、それでも。


「わたしは、莉彩に出逢えて幸せなんだ!」


 星の光が遥を包みあげる。


「あなたの苦しみが、わたしを救ってくれた。運命なのかもしれない。都合のいい奇跡なのかもしれない。でも、わたしたちの魔法は夢と希望でできてるんだ!!」


 咲くようにして、白いコスチュームが少女を粧かした。


「わたしは、希望を謳う〈星〉の魔法少女。あなたの夢を守ってみせる」


 物理的な距離よりはるかに長く、それでも歩みを止めなかった莉彩が手を伸ばせば届く距離にいた。


「莉彩ちゃん――ううん、莉彩。あなたの夢を聞かせて」

「わたしは生まれてこれなかった……けど、あの子がまだ生きてるなら」


 少女は――姉は、蝋燭の火を吹き消す息のように静かに告げた。


「ただ、生きてほしい。幸せじゃなくたっていい……その苦しみを背負ってあげられないけど……でも、生きててほしいんだ」

「わたしもおんなじだよ……だからこれは、救いなんかじゃない」


 遥は手を伸ばす。手のひらに体温が重なった。

 温かい。

 心音が内側で喜びを奏でる。

 それを、裏切る。


「ただの希望論だ」

「わたしの夢、託したよ――星のような言葉を紡ぐ女の子」


 影を消し去るような劇しい光が繋いだ手のなかから放たれた。

 すべての虚飾がはがされる。

 光がやわらいで、もう手に温度はなかった。

 莉彩を選ぶということは、莉彩を否定するということ。

 言い訳はしない。

 でも。

 その選択をしたひとりの少女の人生を無為にしないため、遥は謳った。


「叶うよ、あなたの夢は叶うんだ」


 そして。そして。そして。

 眼前の世界は一変する。

 口を開ける天井が口紅(ルージュ)のような色を覗かせて、しかし黒く覆われる。それは羽を失った妖精が下ろす終幕。つまりは彗星(フェアリーテイル)。そんなお伽噺を看取るようにして、鏡の遺影を抱えた赤い芸術家が舞台上に姿を見せる。

 それは、空想の女に狂い落ちた赤色。

 伽藍の人形が運ぶ命のなれの果て。

 赤く爛れた運命の糸は、ここで最果てに至る。

 ゆえにこの〈世界(ステージ)〉の名は、≪運命の錯赫(ファムファタール)≫。

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