きみだけがいない世界
瑠依と合流できたのは、昼休みだった。
事を伝えると、わずかに目を丸くした。
「同名の別人の可能性」
「考えたけど、そもそもクラスメイトに〈莉彩〉って名前のひといなかったでしょ?」
その答えに瑠依は黙する。行きどまりだ。遥は回り道を探すように水を向けた。
「瑠依はどうしてた?」
「はるかが遅かったから、少し街の様子を見ていた……あまり変わらないように思う」
藍色の視線を空の彼方に送る。
「鏡の奥に迷い込んだみたいに同じ。でも、何かが違う、気がする」
遥も同じものを見ようと瑠依を追った。月は見えなかった。
「〈鏡〉のだけは見つからない」
瑠依は最終通告のように言った。
「どうして同じ名前の別の子がいて、あの赤色はいないのか。瑠依たちは〈鏡〉のをよく知らない」
「手がかりは……あの鏡写しの妖精みたいな化身だけ、だよね」
水溜まりに群がる羽虫のように飛び回り、希望を奪う化身。発生は毎夜ではなかった。しかしここ一ヶ月、かなりの頻度で対応をしていた。
ときおり訪れる悪夢にあえぐだれかの手を握るようにして、ふたりの魔法少女はステッキを振るった。
決して莉彩と同じ時間に戦ったことはない。
だが彼女は、いつだって現場に顔を見せた。
遠くは文化祭の準備が始まるころ――近くは、その前夜。
〈失望〉の手足たる化身こそ魔法少女に対なす概念であり、ゆえに瞳に映せる存在であるため、捜索は比較的容易だ。
しかしそれは、目に映るから。勘のようなものが働いたり、対立する希望を謳う遥のように鼻が効く場合もあるが、居場所がアラートされて知らされるわけではない。見落としはある。それを減らすため、別れての警邏を基本としている。
そのすべてに居合わせている、あるいは、莉彩こそがその中心であるのなら。
「〈失望〉が世界にふれるための手足として用意されたのが化身ならさ……その行動から、何を失ったのか想像できない?」
それこそが、この世界の由来を解き明かす糸口になるかもしれないと遥は考えた。
瑠依は首を振る。
「化身も〈失望〉も、ただ希望を奪いとるだけの存在」
「けど、奪い方は違うでしょ?」
思い返す。
黒い花嫁は、喪失を埋めるように希望を奪った。
銀色の揺籃は、感染させるように希望を奪った。
無邪気な妖精は、どう奪う――?
「おもちゃで遊ぶようだったよ」
遥の言葉に瑠依は頷く。
「あれは、ただのいたずら」
「子ども……ってことだよね」
「なら、幼少期に何かがあった……きっとそれが、魔法少女になった理由で、だからこそ〈失望〉になった」
〈銀色の魔女〉として崇め畏れ育てられた幼少期を過ごした瑠依が言う。
「聞くしかない」
「聞くって……だれに?」
「莉彩」
魔法ではなく、名前を呼んだ。どこか距離を感じる響きだった。
「どこまで同じかはわからない……けど、彼女が〈鏡〉のに関係する莉彩なら、手がかりはあるはず」
「なら、行ってくるよ」
「どこに?」
「アクアリウム」
「この近辺に水族館がある?」
「ない……はずなんだけど。わたしたちが知ってる街だと」
遥はお伽話をそらんじるように告げた。
「映画館の跡地……アクアリウムになってるらしいよ」
「映画館って……あの?」
「そう、支倉さんの」
パンダの石膏のある公園前の、小さな劇場を思い浮かべる。
「あんな場所にどうやって水槽を置く?」
「水族館でイメージするあの大きなやつじゃなくて、観賞用の小さな水槽が並んでるだけなんだって」
「あぁ……だから、アクアリウム」
「そ、なじみ深いでしょ、わたしたちは」
奏がすくった二匹の金魚をふたりは分けられた。
遥のアクアリウムには命があり、瑠依のアクアリウムは命を失った。
「はるかの金魚は元気?」
「ぱくぱく餌食べてたよ……この世界でも、たぶんあの子は元気に過ごしてそうかな」
「……そう」
海溝に似る瞳が濁った。動くもののない水槽に溺れるみたく、瑠依は息を止める。
遥は、水底に差し込む光のような声音で言った。
「この世界のことが解決したら、見に来る?」
それはいつの日にか、飲み込んだ提案だった。
関係が深まったから歩み寄れる、なんて思っていない。
ただ、信じていた。
瑠依の人生が失うばかりを背負うのではなく、獲得するために歩いていけると。
「答えは出せない」
水面に浮かぶ泡を思わせる儚い声だった。そしてそれは、呼吸の証明だ。
「けど、会いたいとは、思う」
「そしたら……うん、叶えに行こう」
「はるかは信じてる」
「……何を?」
「この世界が、瑠依たちの知る世界に戻るって……それは、希望論だ」
「当然、わたしをだれだと思ってるの」
「そう……瑠依は、はるかを信じてる」
「わたしも、瑠依を信じてる……それに、莉彩のことだって……間に合わせてみせる」
遥は手のひらを胸の前でぐっと握りしめた。
「だから、だいじょうぶ」
掴んだものを手放したりなんてしない。その温度を、瑠依は知っている。
「けど、なんでアクアリウム?」
「誘われたんだ、奏に。アクアリウムに行かないかって……莉彩ちゃんと一緒に」
「莉彩ちゃん」
おうむ返しに遥は小さく笑う。
「莉彩ちゃんって感じの子なんだよ。ちょっとおどおどしてて、守りたくなるようなさ」
「守られたら怒りそうな莉彩しか知らない」
「ね。わたしが探してたのは赤い莉彩だったから、話題に困ってさ。そしたら奏が助け舟を出してくれたんだ」
「それで遅くなった」
「そ。中休みも一緒に過ごす流れになっちゃって……今は購買に行くってむりやり抜け出してきた感じ」
「ふたりはお弁当派」
「わたしもそうなんだけど、ま、しょうがないや。長丁場になるだろうし、ちょうどいいよね」
「瑠依はもう少し街を回ってみる」
「ちゃんとご飯食べなよ」
「気が向いたら」
「約束してくれなきゃ、教室連れていくよ」
「ちゃんと食べる」
ふわりと銀色の髪が浮かび上がる。別れもなく青い空へと溶けていった。
逃げ出すようにも思えたが、わざわざ追うまでもない。それに、口に出したのだから瑠依が約束をたがうわけもないだろう。
粒にすら映らなくなるまで見送って、遥は来た道をくだっていく。購買でメロンパンを買ってから教室へと戻る。
「あれ?」
その、階段をのぼる最中でふと思った。胸中に収まらない困惑が喉からこぼれ出る。
「瑠依の席って……あったっけ……?」
ひやりと、遥の背中に汗がつたう。
前提を思い返す。
奏が魔法少女であったから、名もなき魔女は救われた。
天音奏はこの世界で魔法少女ではない。しかし、魔法少女という法則は存在する。それは、遥と瑠依のふたりが証明している。
「この世界のわたしたちが別に存在する、わけじゃないよね……じゃなきゃたぶん、わたしはもうひとりのわたしと出会ってるはずだから」
ならば、少なくとも奏が魔法少女でない影響は受ける――人生の根底からすくわれた、その命の底が抜ける。
三階に足かけた。横並びの教室が目に入る。閉じられた教室の小窓から空が小さく覗く。
「大丈夫だよね、瑠依……?」
☆ ★ ☆ ☆
見知ったアパートに自らの苗字がないことで、瑠依は自分の出自を理解した。
携帯端末がどこを探してもない。連絡帳を確認するまでもない。奏のマネージャーである〈皆森〉とは、この世界では縁がないのだろう。
それはつまり、天音奏との絶縁を意味していた。
「この世界の瑠依は、瑠依じゃなくて……」
目を覚ましたとき、見知った路上にいた。だから、人間関係は変わらないと思いこんでいた。
〈莉彩〉について聞き、奏が魔法少女を知らないことが結びついた。
ここが〈鏡〉の魔法少女の成れの果てによってつくられた〈世界〉なら、だれをどう配置するかは彼女の意思が参与している。
錯覚を現実にする割れ鏡の魔法。辻褄合わせは得意だろう。しかし、瑠依の出自はそれより特異で、根深い位置にある。
「魔女」
魔法少女を作り出した存在で、奇跡の根源。
涓滴が岩を穿つような願いの空けた穴だとしても、その奥底で瑠依は胎動した。
「なら、あのひとたちが諦めるはずがない」
脳裏に浮かぶ顔はもやがかっており、首から上のないマネキンに似ていた。
魔女を崇め畏れ奉った〈空〉崇拝の村民たち――あの山奥からここまで、どれほどの距離があるのだろうか。
彼らに特殊な力はない。けれど、信仰の執着は奇跡に届くと、瑠依は身をもって体現している。
そして、そう。魔女の魔法は世界に意味を贈る。瑠依の唱えた言葉が期せず言霊となったのか。噂に影が差すように、階段を降りた銀色の少女の行く手を拒む体がふたつあった。
「……」
知っている気がした。けれど、思い出せない。
思い出そうとすることを、脳が拒んでいるのか。
抑揚なく声が並ぶ。
「外出の方法はわかりません」
「外出の意味はわかりません」
「それこそが奇跡なれば」
「それこそが魔法なれば」
「お戻りを」
「ご帰還を」
「あなたは魔女」
「あなたが魔女」
「我らが至る根源への鍵」
「我らが求むる銀色の鍵」
「〈空〉へと」
「〈空〉へと」
瑠依はふたりがどのような存在であるか、どうでもよかった。
「≪魔女の夜≫は終わった」
錠を閉じる音のように、軽やかに少女は告げた。
「失望はもう、この世界には開かれない」
「ならば私は何を育てた?」
「ならば私は何を生んだ?」
男が疑問して、女が続けた。そうして考え至る。実感はない。けれど、そう。
ふたりは、瑠依の親だった。
ぼやけた口元が言葉を並べていく。
「おまえが魔女として意味を果たさないのなら」
「おまえが魔女として役割を果たさないのなら」
壊れてしまった機械仕掛けのように、同義の言葉を。
「「おまえなんて生まなければよかった」」
同音が発せられる。しかし、重さはない。
宙を舞うほこりが頬を撫でたような、なんの感慨も感触もなく瑠依の鼓膜を通り過ぎた。
ふたりの本心だ。生みの親に存在を否定された。きっとそれは悲しむことなのだろう。
けれど、思い出がない。ふたりとの縁を証明する記憶がない。
煙がかたち作った刃のような言葉に瑠依は傷つきようがなかった。
「瑠依はあなたたちから生まれていない」
まとわりつく白煙を吹き払うのに似た断絶を口にする。遠ざける意思こそが明瞭だった。
「瑠依に命を与えてくれたのは、かなで」
ふたりから当惑が立ち昇る。当然だ。瑠依が体験したすべては、この世界とは関連しない。
瑠依という記号は、名前として作用しなかった。
奏に出逢えなかった銀色の少女は、そんな空虚のなかに息づいている。
「でも、そうじゃない。かなでがすくい取ってくれたのは、瑠依の奥底にあった命。瑠依は瑠依として、存在していた」
少女は自身の胸に手を当てた。鼓動はだれに命じられるでもなく自律している。しかしそれは命の証明ではない。
停止した律動が再び動き出したとき――瞳に熱が再燃して、新しい夢を追いかけた瞬間も、また命だ。
「ただ存在すること。意味も、理由もいらない。それが命」
そこには定義も証明もない。まるでお伽噺を信じるようにして、無垢なままに受け入れる。
その行為は、まるで鏡写しだと瑠依は思った。
〈空〉を信仰してただ一心に魔女を育てた彼らのようだと。
だからこの答えは正解ではない。相手を否定した瞬間に自らも否定される。選ぶとは、否定する行為なのだ。
否定して否定して否定して――それでも残ったものは否定できない。
夏の終わりを、希望と呼んだように。ただそこにあると、認めることしかできない。
だから瑠依は、自らを信じた。
「あなたたちからこの命は発生した。けど、この命を運んで生きてきたのは瑠依。それが最後に残った現実だった――かなでのための命だと信じていて選んでも、否定された。瑠依はそれを否定できなかった」
失われてほしくない命があった。だから、『生きてほしい!』という願いは拒めない。瑠依は瑠依の選択で生き続けた――それがたとえ、奏のために生きるという思いからかけ離れようとも。
「名前だってそう。かなでが名づけてくれた命でも、その意味は瑠依が選ぶしかない。だれも認めなくたって、瑠依がここにいると生きるために」
みんなの悲しみになろうとした。光の雨こそが瑠依の救いで、その夢の続きを描こうと願った。
失うことを拒み、これ以上の傷を遠ざけるために痛みを強制した。
けれど、違う。救いとは、与えられるものではない。
〈ホエールフォール〉の歌が耳の奥で鳴り響く。お伽噺が喉の奥で感情を待っている。希望が胸に宿っていた。
そして。そして。そして。
――涙のように美しい藍色をしているんだ。瑠依、と名乗るといいよ。
瞳の裏にはいつだって、白い救済の光が降りそそぐ青空が映っていた。
「あなたたちが〈銀色の魔女〉と定義したこの命を瑠依と呼ぶ――その意味は、お伽噺」
救いとは、いつだってそこにあるものだ。
気づかれずに寄り添って、瑠璃色の孤独を慰める。
「いつか忘れる悲しみのように……流れゆく涙のように――痛みが過ぎるまでそばにいる。そんな救いに瑠依はなる」
宣言に呼応するように燐光が舞った。冷えた月の白銀と、さめざめとした夜を描く瑠璃の二色だった。
お伽噺から切り抜いた魔女に似る魔法少女の衣装。変わるところはない。初めから、瑠依は瑠依だった。
それでも、意味は変わる。
「〈銀〉の魔法少女は終わり。瑠依は、〈伽〉の魔法少女」
あまねくを拒む銀色は、夜に寄り添うお伽となった。
「夢物語を求めるなら応える。でもこれは、遠いお伽噺。あなたたちの一夜を慰めるだけの空想。どうする?」
ふたりは息を飲むばかりで何も言葉にできない。
潮時だと思った。訣別を告げる。
「生んでくれたことには感謝する。瑠依に夢を見せてくれたのはあなたたちじゃなかった……ただ、それだけの話」
ふわりと瑠依は浮き上がり、その場を離れた。すぐにふたりは点となる。点は追ってこない。行動原理を失った機械のように立ち尽くしていた。
瑠依は前を向いて、もう二度と振り返らなかった。
そのまま宛てなく街なかを見下ろして、そのまま沿線をたどる。街から出て、その外観に目を配るも、おかしな点はない。
いつの間にか、いつかのライブハウスがある路地裏にたどり着いていた。夜はまだ遠い。ひとは少なかった。
アスファルトの地面に足を下ろす。煤けた空気を吸って、瑠依はようやく違和感に出会った。
壁だ。
壁を埋めていたはずのグラフィティ、その一部がごっそりと抜けていた。
脱色したような空白に、赤い色彩を思う。
欠けた風景を見て、理解が及んだ。
「そう……莉彩」
瑠依の頭のなかに浮かんでいたのは、真っ赤な少女であった。呼びかけないと、あらゆる痕跡が消え去って、それこそが正しくなる気がした。
虚像こそ、現実となるかのように。
「救われたかったんだ……この世界の、何もかもから」
オーバードーズの隙間からにじみ出た無垢なる叫び。あらゆる雑音に消える小さな声だった。失ってようやく存在に気づく。正気を疑い続ける正気。否定して否定して否定して――何も残らなかった。
縦に割いた手首から赤い命が失われる。一滴も残らない。枯れ果てる。そんな自傷を目の当たりにした気分だった。
「自分を大切にしてよかったはず」
それとも、と瑠依は小さくこぼした。
「自分なんてなかった?」
疑問が空に溶ける。西が赤い。燃えるように。溶かすように。
雲ひとつない。
太陽が泣き叫ぶみたいな赤だった。




