きみがいる世界
白昼の空に薄らいだ月が見える。蜃気楼のような幻を思わせても、たしかにそこにある。
奏の笑顔も、そういったふうに遥の瞳に映った。
「どうしたの?」
肩口でたわむ黒髪を視界に収めて、首をかしげたのだと気づく。疑問に歪んでも、型をくり抜いたように精巧なまぶたはかたちを損なわない。
記憶を切り取った人形か。そう感じてしまうほどに、彼女は天音奏の姿をしていた。
「どう、したも何も……だって、奏……」
呂律が生き急ぐ。考えがまとまらないままに感情を取りこぼしていく。
喜びも、悲しみも、怒りも、嬉しさも――あまねくは去来せずに、ただただ胸の空洞に不気味な音が反響している。
自らの内側にあるものの正体もわからずに、遥は不規則な心音に身を任せた。
喉から響いたのは、縋るような音だった。
「なんで奏がいるの……?」
「待ち合わせしたからでしょ」
特別なことなど何ひとつないと宣告するみたいに奏は言う。よくできた芝居を見ている気分だった。短い言動が、遥の想像を超えて天音奏を提示していた。
夢と判ずるには、鼻腔をくすぐる花の香りが鮮明だ。
「でも、奏は夏に飛び降りて……いなくなったよね」
「飛び降りたって何さ」気を悪くした素振りもなく、愉快そうに奏は笑う。「怪我なんてしてたらここにいないし、そんな危ないことしないって」
「いや、するでしょ」
「するけど、そしたらだれも救えなくなるじゃん」
「その夢は……叶わなかったでしょ、奏」
「何言ってるの。まだまだ進行形だよ」
乾いた布から水分を絞り出すような遥の声音を笑い飛ばして、奏は利発に力こぶを作った。
「シンガーアイドル〈天音〉は絶好調だからね」
「そうだけど……そうじゃなくて」
擦りむいた膝の傷を目の当たりにした目つきで遥は吐き出す。
「魔法少女として……奏の夢は失われちゃったよね」
これがはたしてどういった機序による光景か、遥にはわからない。
けれどそれだけは、少女にとっての真実だった。
奏は面食らったように表情を消す。そしておずおずと口にした。
「魔法少女って何? 映画?」
これが夢なら悪夢よりひどい。とんだ現実逃避だ。
かといって、奏と別れる選択肢は遥にない。どうにか奥歯を食いしばって、口角をあげる。
「なんでもない。徹夜でそんなアニメ観てたから疲れてるのかも」
「遥がそこまでのめり込む内容とか気になるんだけど」
ごまかしてもよかったが、手がないわけでもない。だが、その前に。
「わたしたち行かなくていいの?」
「あぁ、立ち話してたら遅刻しちゃうね」
制服を身にまとっている。月のせいで時間は定かではなかったが、どうやら朝のようだった。
直前の記憶は、瑠依たちがカーテンコールを終えて舞台袖に立ち去る姿。晩秋の早い夕暮れのはずだ。
この半日に意味はあるのか――この現象の意味するところは何か。わからないが、足を止める理由にはならない。
先を行く奏に追いついて、横に並ぶ。語るのは、ある夏の終わり。あまねく救済を夢見た魔法少女の喪失にまつわるお伽噺だ。
「――へー、ちょっと気になるかも。花火って爆発だし。動画サイトにあるの?」
「個人製作だから探すの大変かも」
「そっか。縁が合えば観れるかぁ」
「だといいね」
なんて言い合っていると見慣れた校舎が目に入る。
「今日も余裕の登校ですな。私たち優秀ー」
のんきな言葉に、わずかながら早く登校する学友がくすりとした。すれ違いざまに奏の名を親し気に口にする。それは見慣れた光景――二度と、見ることの叶わない光景。だったはずだ。
言葉を耳に捉えながら、遥の目線は上空に留められた。
その視線を追う奏の瞳には、ただ透き通った冬の青空だけが映っている。
「どうしたの、遥? 流れ星でも見えた?」
「んー……雨かも」
「雲ひとつないよ」
「涙かな」
「じゃあ救わないと」
「嬉し涙なら?」
「そっと立ち去るよ」
「なら、奏は先に行ってて」
「隠しごとなんてやーらしんだ」
「まさか、わたしが奏に隠しごとなんてするわけないじゃん」
言葉が伝わらないことがあっても――そんな思い込みで、飲み込んでしまう言葉があるとしても。
思いを偽ることだけはしてこなかった。
「そうだね。ま、困ったら声かけてよ」
「そのときはよろしく」
昇降口へと遠のく少女を見送って、遥は校舎の横へと回る。まだ朝早くひとはまばらだ。一瞬の変身ならば見とがめるひとはいない。
確信もあった。胸の奥に宿る光が消えていない。〈星〉の魔法少女としての希望は、実感を伴って灯っている。
だから、ステッキが手のなかに現れた。体を蛍に似た光が包み込み、純白の花を咲かせる。
空を飛ぶ。ひと息で屋上にたどり着いた。
「瑠依」
遥は見逃すことのできない銀色を呼ぶ。転落防止の網目から、遠くでも海溝のような藍の瞳が目に入った。その視線に迷いは見えなかった。
まっすぐな眼差しに確信する。喪失の共有こそがふたりを結びつける。そのほかはない。だから、彼女は同じであると。
奏の失われた世界を知る、縁であると。
「かなでがいる」
銀鈴の声が揺れる。瑠依は振り返らない。足跡を確かめるようにたたずんでいた。
「奏、だったよ……瑠依も、遠くからでもわかったよね」
「間違えるはずがない……瑠依の命――瑠依たちの夢」
「どういうことだと思う?」
「……〈鏡〉のを探そう」
「莉彩……そう、だよね……」
否定しようにも、あらゆる材料が揃い踏みしていた。根底はわからずとも、物証が莉彩を浮き彫りにさせる。虚偽は信じることではない。目の前のかたちを見失えば、姿もまた見失う。
莉彩を信じるのであれば、否定はできない。
瑠依が告げる。
「きっと〈失貌〉した」
「……でもなんで、わたしたちは影響を受けてないの?」
「魔法少女は魔法少女を傷つけられない」
瑠依は淡々と、その法則を口にした。しかしそれは、ある希望的な前提のもと成り立つ。
「莉彩は、〈失望〉になってないの?」
「化身が発生しても、〈鏡〉のは魔法少女だった。何かが違う」
あの妖精が莉彩の〈失貌〉から発生したと仮定すれば、それに抗う〈鏡〉の魔法は夢と希望でできている。
「それでもここは、〈鏡〉の〈世界〉だと思う」
瑠依はその意見を疑うそぶりもなく、端的に言い切った。
それに異を唱えるには、遥もまた疑惑を胸のうちに育てすぎた。
「でも、探そうにもわたしたち、莉彩の家も知らないんだよ」
「かなでなら知ってる」
信頼の燈る声色だった。
「こっちのかなでもかなで。なら、絶対に知ってる」
「そうだね」
天音奏とは、そういった存在であった。
方針が固まり、瑠依が振り返る。
「はるかが聞いておいて」
「……会わなくていいの、瑠依は?」
「うん」
端的に頷いた。
「かなでと会ったのは、はるか。なら、そういう巡り合わせ」
「うーん……そうなのかなぁ……?」
「それに、会えば瑠依の罪を奪い取る」
眉根を寄せる遥に、瑠依は早朝の静寂に乗せて言った。
「生きていてくれるなら、しあわせ……けど、それは瑠依たちの世界の話じゃない。失われることが覆るなら、あらゆる夢はいつか叶う現象になる。瑠依は魔法少女として生きると決めた」
〈銀色の魔女〉が招いた失望の夜の贖罪として、瑠依は夢を叶える生き方を選んだ。失われた夢の続きを描き、その命を永遠とすることで先の夢に希望を繋ぐと。
いつかやぶれるために存在すると痛切に感じていても、魔法少女であることを選んだ。
それで何が許されるわけではない。失われたものが戻らないように――行いは遡らない。与えた傷は残り続ける。
それでも、瑠依はそこに希望を見いだした。希望を謳う〈星〉の魔法少女は、魔法少女の夢を応援している。
「そっか、わかった。莉彩について聞けたらまた来るね」
「任せた」
瑠依と別れる。上履きに履き替えなければいけないので再び変身する。階下にだれもいないのを確認して飛び降りた。接地はふわりと。地に足を下ろし、制服に戻る。
奏は昇降口で待っていてくれた。
「具合はどう?」
「上々」
靴を履き替えて、横に並ぶ。上階への道を進む。
「ねえ、奏」
その響きを本人へ口にできることへ喜びを感じながら、遥は訊ねた。
「莉彩って名前に聞き覚えあったりしない?」
「あるけど」
奏は当然のように言った。魔法少女であることが彼女の特別性を担保しているわけではない。
それを実感しながら、遥は言葉を重ねた。
「ちょっと用事があって……よかったら紹介してくれない?」
「紹介って……」
階段の踊り場で折り返し、さらにさらに段を踏む。
「クラスメイトじゃんか」
朗らかに笑いながら「遥らしいけどさー」と続ける。奏の動きを模倣するように三階まで歩数を積み重ねて、ようやく遥は意識を取り戻した。
困惑を口にするより早く、奏が手を振った。
「あ、噂をすればだね。おはよう、莉彩」
お手洗いか何かからの帰りか。廊下をひとりの少女が渡っていた。
「あ、あぁ……天音さん、お、おはよう」
首のあたりで日本人形のように切り揃えられた黒髪が目に入る。
下がったまなじりが柔和な印象を与えた。黒目が大きい。頬が次の季節を招き入れるように白い。唇に差すように桜色が乗っていた。晩秋は乾燥する。リップクリームだろう。
奏が〈莉彩〉と呼ぶひとは、そんな。
「遥がなんか用事あるんだって」
「空閑さん?」
肩をすぼめて困ったように笑う、そんな少女だった。




