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スターリィシネマ・ダイアローグ  作者: 綾埼空
Fairymirror Festival
25/50

お伽噺に夢を見た

 瑠依は流れていく景色を眺めていた。

 軽音部員が機材を下ろしている。命を取り戻すように荒い呼吸をする三人が前室に足を下ろした。

 入れ替わるように遥たちが背景素材をセッティングし始める。リハーサル後、備品はそのままステージ裏の決められたスペースに収めてあった。

 緊張はない。心音は穏やかで耳に聞こえない。ただ、光だけが視線の先にあった。


「次は瑠依の番だよー」


 その光に語りかけられる。ステージ上での叫びとはうって変わる口調だ。いつも通り、夕架璃は特有のテンポで間合いを詰めてくる。言葉がいつの間にか懐に宿っていた。


「期待してるからー」


 手のひらを握り締める。もらったものを失わせないために。固く、強く。

 〈ホエールフォール〉の三人は汗の道を残しながら、体育館へと抜けていく。その足跡を洗うべく後輩がモップをかけていた。忙しない。時間は休まることを知らない。

 隣に気配を感じた。横目にすると、長く下りた黒髪が目に入る。櫻井早季であった。停止しているのは、ふたりだけ。世界の速度から隔離されたようだった。


「私ね、最初あなたのこと嫌いだったの」


 突拍子もない言葉だった。不都合はないので特に反応はしなかった。


「転入初日の挨拶憶えてる? まるで自分だけが奏を大切に思ってると言わんばかりの口調……空閑さんにも、同じ理由でむかついてた。自分たちだけの世界だって信じて疑わない目つきが嫌だった」

「……早季も、奏が大切」

「今の私は奏に見いだしてもらった……向いてるって思えないし、今もしんどいときはあるけど……世界と繋がれている実感がある」

「瑠依も奏に命をもらった」

「この物語で、瑠依と私の役は相容れない。けど、演じる私たちは同じひとを大切に思っている……感情は背比べじゃない。同じだからこそ、違った道でも同じ場所にたどり着ける、はず」

「やりきろう」


 瑠依は端的に告げた。早季は面食らったように目を見開いて、頷いた。


「そうだね。月に見せつけるんだ、私たちの生きざまを」


 そうして早季はステージへの階段をのぼる。瑠依もまた、流れ出した。

 すれ違う人々からエールが贈られる。脚本を担当した少女と目が合った。瞳の色が刻々迫る未来を予感させる。この舞台が終われば夜を待つこととなる。空に雲はない。月が見えるだろう。

 何が証明されるのか。何を見つけることができるのだろうか。瑠依は思う。

 見上げた景色に星がいた。


「行けそう?」

「やってみる」

「叶いそう?」

「見つけたい」

「見てるよ」

「見ていて」


 星が降りた。照明が落ちた。幕が上がる。

 光が。

 鏡だ。

 赤い。



〝鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?〟



 お伽噺が始まる。




 ☆ ☆ ☆ ☆




 美姫が歩くたび、名乗りのようにヒールが鳴る。

 暗いステージの上で、降りそそぐ淡い光をつき従えて長い黒髪が揺れる。

 向かうのは、重ねられた赤。ともすれば不吉とも見れる、赤い輝きを放つように照明をあてられた、ふちの赤い鏡の前だった。

 女は唱えた。



〝鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?〟



〝それは姫、あなたです〟



 女の頭上にそそぐ光が強さを増す。

 再び唱えた。



〝鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?〟



〝それは姫、あなたです〟



 女の頭上にそそぐ光がやわらぎ白む。

 三度(みたび)唱えた。



〝鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?〟



 自らの名が呼ばれると確信する、揺らぎない音だった。

 鏡は低く、感情など搭載されていない無機質な声で応じた。



〝深き深い森の奥。忘れ去られたお伽噺に囲まれて、真実なる美は存在します〟



 舞台袖から、世界を溶かし込む色が姿を見せる。

 銀。

 揺れる髪の一本一本が、涙のような尾を引いて世界を切り裂く。

 視界に入れたひとの涙膜すら鉛に変えて落とす。瞳孔を直接焼くその色彩は、あまねくを寄せつけない絶世を放っていた。

 ワンピースに似たドレスが肩から膝までを覆っていた。夜よりなお深い、その虹彩のように海の奥暗い黒だ。

 素足がぴたぴたと音を立てる。鏡をもてあそぶようにくるりと撫でる横顔が、照明の赤のせいか妖しく光っていた。世界を謳歌するように走り回り、袖へと消えていく。



〝あれが、私より美しき存在だと?〟



 美姫は肩を怒らせる。



〝名をなんと言う〟



〝名はいまだありませぬ。忘れ去られたお伽噺には名がないゆえに、彼らは名前をつけることができません〟



〝そうだな。私が奪った名だ。幻想に意味はない。世界は、ただ私の美しさだけを認識していればいい――重ねて聞こう、鏡よ。世界でいちばん美しいのはだれだ?〟



〝最後に芽吹いたもっとも新しき物語です〟



〝その審美を許そう。これまでが真実であるのなら、これからも真実であるのだからな。同様に、不都合なのも真実だ〟



 鏡を照らす光が引く。暗闇に穴開ける光の寵愛を一身に受け、美姫は天上に手を伸ばす。

 降りそそぐ色が、血のごとき赤に染まった。



〝そうさな……物語とは現実に忘れ去られる運命だ。私が読みふけり、閉ざすのも一興か〟



 明かりが消える。

 場面が変わった。

 天蓋を隠すように腕を広げる樹木に囲われた森のなかだった。しかし暗さはない。三人の小人が常に笑っているからだ。



〝我らは名を失くした妖精〟



〝我らは忘れ去られたお伽噺〟



〝でも寂しくなんてないんだ〟



 その背には、蝶に似た羽を生やしている。練り歩く姿は、どこか空を飛んでいるふうに見えた。



〝さあ、目覚めの時間だよ〟



〝おはよう、深き眠りの物語〟



〝今日もボクらに希望を見せておくれ〟



 くるくると手を繋ぎ輪を描く妖精が袖へと消えて、再び姿を見せる。

 三人の中心で、目をつむる銀髪の少女がゆっくりと歩んでいた。

 その足取りは徐々に早まっていく。浮上する意識のように。まどろみから覚めて、世界の真ん中で目を開いた。



〝あ――ぁあは〟



 あくびだった。めいっぱい体を伸ばして、少女は息を吐いた。



〝おはよう、妖精さん。今日も笑顔がたくさんで嬉しいわ〟



 鈴の鳴るような声で、無表情に言う。その顔は、色を知らない白紙の紙を思わせた。



〝今日も世界は平和かしら?〟



 円をほどいた三人がそれぞれ言葉を綴る。



〝もちろん〟



〝ボクらを脅かすものはいない〟



〝ここはだれもが忘れた森の奥〟



〝ボクらは忘れ去られた物語〟



〝きみはだれも知らないお伽噺〟



〝さあ、今日もきみの命を聴かせておくれ〟



〝そうね。あなたたちの眠りのために。わたしの見た物語を綴りましょう〟



 少女はやさしく喉を震わせる。



〝暗い空に大きな光がありました。(はげ)しくて、まばゆくて。ほかの輝きなんて飲み込んでしまうほどに明るい光です。そしてそれは、赤い色をしていました〟



 最後の情報に妖精たちがざわめきだす。少女は関係なしに続けた。



〝その光に照らされて、白い肌をした長い黒髪の女性が立っていました。彼女だけは色に染まりません。なぜなら、空の光こそ彼女だからです〟



 森に赤い光が差し込む。



〝空の光はただ姿を映しているだけ。世界はただ彼女を映すために存在していました。――だから、もうすぐです。彼女は、想像の力を知っています。この世のものではない美しさを想像する、ひとの力を知っています。もうすぐ、物語を終わらせるためにここへやってきます〟



 三人の妖精たちは慌てふためく。その感情を反映してか、辺り一面が赤い光で照らされた。

 存在を証明するような甲高い靴音が響き渡った。



〝物語は自らを語る。それがおまえらの最後の希望か、名もなき妖精たちよ〟



 長い後ろ髪がぴたりと背中に張りついた。立ち止まった美姫は、眼鏡のふちで囲うようにして四人を見据えた。



〝美しき銀色よ、名をなんと呼ぶ〟



〝わたしはいまだ、呼ばれる名を持ちません〟



〝名づけるものはいない。この世界から物語は消えた。私がそうした。美しきは想像されるものではない。存在するものだ〟



 妖精たちは美姫が言葉を紡ぐたびに震えあがっていた。少女の後ろで小さくなっている。

 その姿を見とがめるようにして眼鏡の内の眼差しを鋭くした。



〝忘れ去られてなお存在するのは、おまえらを綴る物語があるからか。夢、時、愛よ。想像に居場所はない。存在だけが確かな世界だ〟



 妖精は青ざめた唇で弱々しく言葉を返す。



〝夢を見ずひとはどう現実を生きていくんだ〟



〝時の流れなくひとはどう変化していくんだ〟



〝愛のない世界でひとはどう自分を知るんだ〟



〝甘い理屈だな。子どもですらもう少し賢しいぞ〟



 美姫はその、冬を閉じ込めたような冷たい黒髪をかきあげた。

 指先が天上に向かい揃う。



〝空を見ろ。その皓々とした月を見ろ。光は常にそこにある。それがひとの運命だ。この私が、あまねくを照らす。想像なんて曖昧な羽は命を運ばない〟



 熱した刃で積雪を切るような言論に妖精たちは音を失う。

 美姫の瞳が少女を捉えた。



〝この世界で私より美しい存在は必要ない。ましてそれが、幻想ならば――もっとも美しいと呼ばれるお伽噺よ、ここで幕を引くといい〟



〝あなたがそれを望むのなら〟



〝物語は求められる変化を拒めない。残酷な性だ。そうして元のかたちは忘却されて、やがて存在すら忘れ去られるのだからな〟



 美姫はその懐から球体を取り出す。赤い光に染まるまでもなく、小指に結ばれる運命の色をしていた。



〝これはおまえを幸福に導く〈運命の果実〉。食べれば永遠の眠りが訪れる。閉じた物語は、二度と開かれることはない〟



 少女が歩み寄る。妖精三人が引き留めようとするが声にならない。

 差し出される手に手を重ね、少女は果実を受け取る。



〝姫、最後にあなたに問いたい〟



〝許そう〟



〝わたしは……いったいなんのために生まれてきたのでしょう?〟



〝その問いは成立していない。存在に理由なんてないんだからな――生きることで答えが残る〟



〝わたしは、未完結のまま終わるのですね〟



〝この先は白紙であったと慰めよう〟



 尊大な言葉に頷いて、少女は果実を口にした。

 光が途絶える。

 暗闇。静寂。

 白。

 光。

 照らすのは。

 鏡。

 赤い。

 どこかから、美姫の声がした。



〝鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?〟



〝存在しません。美は失われました〟



〝一度は聞き間違いと流そう。二度はないと知れ〟



〝これはただ、真実を映す鏡にすぎません〟



〝ならばおまえも、遠のくお伽噺か〟



〝これはいつもこの場所にいます〟



〝私が旅立っていくのみか〟



〝ただ、忘れ去られるのみです。あらゆる物語は失われるのではありません〟



〝それが真実か〟



〝よき旅を。その先端でまた逢いましょう〟



〝二度はないと言ったはずだ――さようなら、幼き日の慰めよ〟



 破砕音が鳴り響く。光に亀裂が入った。

 その隙間に横たわるように、銀色が鏡の後ろから姿を見せた。

 手折れた花のように横臥しながら、少女は口を開く。



〝ここはどこ?〟



 応じて、姿のない声がみっつ並ぶ。



〝ここは物語の終わり〟



〝ここは記憶の最果て〟



〝ここはボクらの終幕さ〟



〝妖精さん? どうして姿を見せてくれないの?〟



〝終わった物語に光が当たることはない〟



〝忘れ去られた記憶に光が当たることはない〟



〝でも、ここにいるよ〟



〝わたしもここにいます〟



 ふらふらと髪を揺らしながら立ち上がる少女に、低い声が重ねた。



〝そうだ、物語は終わらない〟



 少女は傍らにあった鏡に今しがた気づいたように振り向いた。



〝あなたは……?〟



〝真実を映す鏡……しかし、そんな役割なんてどうでもいいことだろう〟



〝役割がなければ何があるのですか?〟



〝存在だ。役割なんてくだらなく、名前なんて意味がない。そんなものなくても、我らは存在する〟



〝しかし、必要とされなくなったから、わたしたちはここにいるのですよね〟



〝存在はだれに定義されるものではないだろう。ただ、あるのだからな――命とは、そういうものだ〟



〝命……物語にも、生命があると〟



〝運命だ。命を運ぶその運動を、生きると呼ぶ。その結果としての生命だ〟



〝ならば、どこへと運んでいくのですか?〟



〝ひとと共に、だ〟



〝忘れ去られたと、ある女性は言っていました〟



〝忘れ去ったものは存在しないとひとは思い込む。しかし、物語は常に傍らに存在するものだ。ひとと物語は、同じ命を運んでいる〟



〝どこへ向かってでしょうか?〟



〝どこまでも。終わることはない。再演だ。そして物語は、再び読み解かれる〟



〝だとしても、わたしは未完結で終わった物語です〟



〝いいや、きみはまだ結ばれている。〈運命の果実〉は、与えたものと与えられたものを結びつける。きみという美と、美しき姫は、赤い糸で繋がっている〟



〝その先端で、わたしはわたしを知ることができるでしょうか?〟



〝知るのではない。ただ、告げるのだ。物語は、きみ自身で紡ぐんだよ〟



 赤い光が差し込む。か細く、それは月のように広大ではない。しかし、確かな道しるべとして、少女の足先を照らしていた。

 手繰り寄せるようにして歩んでいく。その背中を聞き慣れた声が押した。



〝いってらっしゃい、ボクの夢〟



〝いってらっしゃい、ボクの時〟



〝いってらっしゃい、ボクの愛〟



〝いってきます。そしていつか、あなたたちが再び読まれますように〟



 少女は別れを告げる。袖へと消えて、暗転。

 白く、照らされた世界には、美姫と少女だけが相対していた。

 黒髪の姫が長く息を吐く。



〝有終の美という言葉は知らないのか?〟



〝まだ終わっていないのです〟



〝繰り返してどうする。運命は、まっすぐ進めばいい〟



〝完結は定められた道ではありません。道を作ることこそ、命を運ぶ行為にほかならないのです〟



〝いいや、すべては月の光に照らされればいい〟



 美姫は天上を撫でるように指を這わせた。



〝決定された運命こそ生命を美しくさせる。それこそがひとの真実たる美だ〟



〝その美しさをだれが見るのでしょう? ただ存在するだけの美を追い求めるのなら、比較は必要ないはずです。いちばんの美にこだわったのなら、あなたの美は観賞を求めるはずです〟



 少女は小指をそっと美姫へと差し出した。そこには何もない。しかし、見えない繋がりがあると、この相対が証明している。



〝世界があなたを映す鏡なら、わたしにとっての鏡はあなたです〟



 ふたりは歩み寄る。それは決して交わるためではなかった。結ばれた糸に引かれ合い、しかし重ならない。

 通り過ぎ、もはや互いの顔は見えない。背中越しに体温すら感じない。



〝あなたを通じてわたしはわたしを知る――ゆえにわたしは、わたしの運命をこう名づけましょう〟



 虚空に向けて少女は告げた。



〝美、と〟



 それは世界に己を打ちつける、確固たる声音だった。

 美の前に鏡が現れる。問うた。



〝鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだれ?〟



〝美が、ただ存在するのみ〟



 美姫が呻くように言う。



〝開かれた物語は自由の証左ではないぞ。それはただの荒野だ〟



〝だからこそ、物語は傍らにいます〟



〝忘れ去るぞ〟



〝忘れ去られようと、あなたたちの幸福こそが至上の幸い。幕開けを待ちましょう〟



〝尽くすことが運命か〟



〝いいえ、至ることこそ運命です――さあ、共に〈運命の果実〉を〟



 美が天上へ手を伸ばす。光が、赤く染まる。



〝わたしたちが運ぶ命の至る先端が、幸福であると信じましょう〟



〝信じるなんて……そんな空想でどこまで行ける? 幸福な終わりはお伽噺だ〟



 美姫も指先を天の光に重ねた。



〝しかし、そうだな――そんな結末こそ、美しい〟



〝紡ぎましょう、この運命を〟



 光は強さを増し、世界を包み込む。

 そしてすべては途絶えた。

 暗転した景色は静穏をもたらす。

 暖色のライトがステージを照らした。

 演者が並ぶ。

 カーテンコールだった。




 ☆ ☆ ☆ ☆




 まばらな拍手は物語への内容の不理解を指し示すようであった。

 困惑が耳に痛い。不協和音が胸の奥をざわつかせる。

 莉彩は叫び出したい衝動を胃に押し込めて、体育館の外へ走り出した。

 道は開けない。乱れた赤髪がその美貌を隠していた。ひとの隙間に体をねじ込んでどうにか進む。時間がない。喉元まで嘔吐の予感がせり上がる。

 室内に飛び込み、手近なお手洗いに駆け込んだ。どちらの性別を選んだのか判別はつかない。識別する余裕もない。手洗い器に感情をぶちまけた。

 透明な液体が陶器の上を跳ねる。水しか口にしてなかった。固形物を最後に食したのはいつだったか。

 妖精の夢を見る。自らを奪われる夢を。

 否定する自己がなく――自分の貌がなければ失わないと思っていた。

 違った。


「……とっくのとうに〈失貌〉してたんだな」


 無垢なる自己は、生まれたその日に貌を潰され殺された。特徴を失った平面に思うままの顔を描かれた。それすらも否定して、残った血だまりで仮面したのが今の自分だ。

 粗暴な口調も態度も、母の理想(ゆめ)である(りさ)にはほど遠い。ただの反発が生み出した反応に過ぎない。

 本当の〈私〉なんてどこにも残ってはいない。

 顔をあげる。

 鏡に映る赤を見て、ふと疑問が浮かんだ。


「なんで死んでないんだ、こいつ?」


 夢はとっくに叶えた。生きる理由なんてないはずだった。

 生きながらえたのは、未練があったからか。


「違う――死ねなかったんだ、怖くて」


 手首に置いた刃を引けなかった。自らの内側に流れる赤が失われるのを恐れた。

 だから、


「ようやく気づいたよ、天音――あたしは、おまえに救われたかったんだ」


 鏡が音なく割れる。

 莉彩の瞳のなかで。

 鏡にはもう、だれも映ってはいない。

 あまねく色彩が失われた。


「一度くらい、幸せになりたかったな」


 鏡面落下。

 すべてが赤い鏡に落ちる。




 ☆ ★ ☆ ☆




 そして。そして。そして。



「遥ー!」


 空閑遥は、懐かしい声に振り返った。

 胸の当惑を置き去りにして、糸の引かれるように体が従う。

 黒い髪が季節の予感にそよいでいた。怜悧なまなざしが少女を打ち抜く。


「かな、で……?」


 視線の先で、天音奏が笑っていた。

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