流星前夜
イチョウがアスファルトを黄色く染めあげていた。
遥の耳を教師の声が通り抜ける。「本番まで一週間切ってるけど、だからってあんまり自由にやりすぎるなよ」決まり文句だ。窓の外に意識が向く。
季節が過ぎるのはあっという間だ。何かに没頭すれば特に。
チャイムが鳴って、ホームルームが終わる。三々五々とクラスメイトが散っていく。部活やバイト、そもそも居残りは強制ではない。
それでも二十人近くがロッカー前に集まった。工程はぴっぱくしていない。この瞬間瞬間に終わる時間を惜しむだけの価値を見いだすひとだけ、作業を手につけていく。もはや口を動かすのが主なほどにはかまびすしかった。
垣根こそないが、役割に応じてグループは別れる。遥は反対側に目線を飛ばした。廊下のそばでは瑠依たち演者組が台本をつき合わせて話し込んでいる。
「……」
〈美しき女王〉役の早季の趣味によってなすがままにふたつ括りの甘い髪型をさらす銀色の少女。彼女とはここしばらく、一定の距離以上に踏み込んだ会話をしていない。
友人関係、と呼べる距離は継続している。疎遠になったわけではない。
ただひとつ、文化祭のステージという同じ目標に対して同じ方向を向いていないだけ。
それだけで道は違う。
「空閑さん?」と声がかけられた。「あ、あぁ、ごめん」と応じて視線を切る。――間際、底深く飲み込む藍色と重なった。
その瞳が言っているようだった。「信じて」と。だから、遥は視線に思いを込める。「いつだって応援してる」と。
瑠依たちは教室の外へと出ていく。他クラスと持ち回りで空き教室の使用を許可されていた。読み合わせのように独立して行いたい作業はそこで進める手はずとなっている。
遥もまた、自分が担う役割を果たすべくそれに向き直った。
鏡だ。
過多とも表現できる宝飾で装った立て鏡。しかしそれは奢侈に見えてはいけない。なぜなら持ち主は、その美しさで一国を統治した人間なのだから。品をなくせばなくすほど性格からかけ離れる。
だから赤く彩った。唇に乗る深い赤のように。東西の美をかき集め着飾るのではなく、その内側からにじみ出る素養として色彩を統一した。
美しいひとと遥が想起するのは、そんなひとりだけだ。
難航したのは、鏡面をどう表現するかだった。
通常の鏡はガラスに透過した光が銀塗りに反射して像を映す。しかし、転倒などの事故を考えると鏡面を作るわけにはいかない。
ただ銀紙を伸ばして貼ったり、ただ光が反射して見せるだけなら〈星〉の魔法で染めるのも脱法なれど手段である。しかしそれは本質でない。
美しきを映す。それが鏡に与えられた役割だ。
言葉が脳裏に反芻する――存在しないことが美だと。
摩擦のなさに美を見いだすなら、ただ平面を輝かせればいい。
美しいひとは、赤い。なら美しさとはどんなものか――クラスメイトに訊ね、自問を繰り返してきた。遥にとっての美しさ。
『美しさぁ?』
あるひとは、舞い散る秋の葉を見て言った。
『花じゃない? なんか無邪気って感じで好きだよ』
『額装じゃなくて鏡のコンセプトで迷うことなんてあるんだ、おもしろいね』
あるひとは、夜空を照らす光を見て言った。
『月、かな……まあ、未練と言われればそうだけど、やっぱさ、目に残るよね』
『またこっぱずかしいこと聞くな~』
あるひとは、遠くの顔をちらり見て言った。
『笑顔でしょ。大切なひとが笑ってくれる顔ほど、美しいものはないよ』
――花が咲くように飛ぶんだよ。
そう言った、集めた光で輝く少女の笑顔。
その光景が目に焼きついている。そしてそれこそが、鏡の映す美しさだと思った。
「鏡が美しいんじゃない」
美しさを語るその顔を、遥は美しいと感じた。だからみんなの前で思いを発した。
「鏡に映るものが美しいんだ――だったら、鏡面なんて必要ない。だって、わたしたちは知ってるもの」
小物班のだれもが頷く。演出班も首肯した。鏡の前に立つふたりだけは苦い顔をしたものの、多数決の前に敗す。
それが正答であったかは、前日リハーサルの日に示された。
〝鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだぁれ?〟
美姫と褒め讃えられ一国を統治するに至った少女が鏡の前で問いかける。長く流れる黒髪は、長き冬をそこへ閉じ込めたように冷え冷えとしながら、新雪の野を見渡すがごとく穢れない。不遜なき眼差しが眼鏡の内に光る。早季がステージの上に立っていた。
衣装は黒い。それは何にも染まらぬ色。固くジャケットを羽織り、フォーマルな男性的シルエットを浮かび上がらせている。しかしくるぶしまでを覆うパンツにはスリットが入り、女性的な曲線を薫らせた。
その現代的な錯誤こそ、時代に捉われない彼女の美学を思わせる。真なる美は内側より出でて、世界はただ承認するものだ。
そして鏡は答える。低い声でいっとう耳を引く男子が担当している。
〝深き深い森の奥。忘れ去られたお伽噺に囲まれて、真実なる美は存在します〟
鏡がその姿を映す。裾野から静かに――確かに、現実が銀色の幻想に覆われるの事実を認識した。
だれの鏡にも、錯覚のない美しさが映った。
◇ ◇ ◇ ◇
暗い夢を見る。果てなき荒野よりなお見るもののない、ただただ平坦な暗闇の夢を。
はたしてここに自分は存在するのか――自分とは、はたしてなんなのか。
問いかけを声に出してみても響くものはない。ならばやはりすべては夢まぼろし、存在しないのだろう。
闇が蠢動する。存在しないのならば、〈それ〉は何を奪っているのか。
無邪気に笑う。悪意なく笑う。爛漫に笑う。子どもが笑う。
暗い夢を見る。寝処で目をつむり、耳を傾けた。
それは遠い世界の夢物語。魔法で困りごとを解決する少女のお伽噺。
母が語りかけてくれた。読み聞かせてくれた。
無邪気が笑う。悪意なくが笑う。爛漫が笑う。子どもが笑う。
――莉彩はいったい姉/自分が笑っている?
〈それ〉は笑うことしか知らない生きもののように喜びの声をあげて、羽をはためかせて奪い取る。
叶った気がした。渇望していたように思う。そうなりたかった。
満ち足りた感覚。これが夢が叶うということか。
もう一歩だって動けない。手足はない。翼は使い果たした。胸の充足がこれ以上は必要ないと、たしなめる声のように心音を鎮めていく。脈動は間隔を空け、存在しない意識がおぼろになっていく。
なのに見える。
遠く、果てなき遠く。手も届かない空の果て。
星。
一面の闇だけの世界で。その暗がりを晴らすことはなくとも。
ただ輝いて見えた。
「……」
存在するだけだ。あるいは見間違いでしかなくて、まばたきをすれば消えてしまうかもしれない。
でも、それでも。
ここで目を閉ざすことは、あの星を裏切ってしまう行為だ。
欲しいと思わない。光を手にしても闇は晴れない。だとしても、あの希望の輝きを錯覚にしたくなかった。
羽虫に似てたかる〈それ〉を払いのける。その手にはいつの間にかステッキを握っていた。先端の球体がふたつに割れていて、交わることない平行に浮かぶ。
そして赤く。早鐘打つ心臓から噴き出たように全身を赤が覆う。
「……っ」
輪郭を自覚した莉彩は、赤い髪を荒ぶらせて〈それ〉を粉微塵に砕く。
鏡であった。砕けた鏡の欠片であった。少女を囲って万華鏡のように幻想を見せていた。
映し出される莉彩の顔は、妖精となって彼女自身を奪っていた。
「……また、か」
ここ数日、同じ夢を見続けてきた。妖精を思わせる影に存在を奪われる光景。
夢遊病患者に似て知らない場所で目を覚ます。破砕した鏡が霧のように月光にけぶっていた。
夜にひとり、莉彩は宙空にたたずむ。空には星ひとつ光っていた。
それだけが世界とのよすがだった。
暗闇の世界で、星ひとつを裏切りたくないという思いだけが莉彩に色彩を取り戻す。
なぜ、そう思うのか。朝もやに霞む寝覚めの記憶のごとく夢は覆い隠され、真実には届かない。
でも、あの光を見るたびにいつだって感じる。
「意味わかんねえけど……まだ、諦めなくたっていいんだ」
だれかへ言い含めるように莉彩は口にする。
その言葉が一本通す糸として繋げるがごとく、粉となった鏡が集まりいつもの割れた鏡面を提示した。
帰ろうと視線を回す。駅が遠くに見えた。街からは出なかったようだ。
飛び立つ背に呼ぶ声がした。
「莉彩!」
遥の声だった。振り返った先には、瑠依もいた。
呆れが口の端に浮かぶ。
「よう学生さん、夜更かししてていいのか? 明日から文化祭だろ」
「それが本分みたいなとこあるから。前夜祭ってさっきまでみんなでご飯食べてたし」
「青春」
銀色の少女から発せられた思いもよらぬ単語に莉彩は目を見張る。
「青春、ね」
頬が緩むのを自覚した、
「言うじゃねえか、瑠依」
遥が驚きを顔に出す。わかりにくいが、瑠依も口を閉ざした。愉快な気分に冷や水かけられたようで気に食わない。
「んだよ」
「何かあった?」
「あ? べつになんもねえよ」
瑠依に返す。悪夢は見た。細かな記憶は抜け落ちているものの、ろくなものでなかったと心が訴えている。けれどそれは、自分自身の問題だ。
「莉彩、ほんとに何もなかったの?」
遥の窺うような目線を払うようにステッキで空を掻く。
「何度も言わせんな。何も変わんねえよ」
そう、変わらない。この夢は終わらない。
生きていくとは、莉彩として存在することだ。
「いつも通り、平和な夜だよ」




