17少女漂流記
休日だった。窓から覗ける空は高い。日の光がフローリングに照り返して銀の髪が淡い輝きを抱きかかえていた。
小さな部屋に光の尾を描いていた毛先が落ち着き、瑠依の喉もまたせりふを途切れさせた。
「んー、雰囲気は出てるけど……」
脚本を担当した少女の部屋だった。ベッドに座る彼女の声が瑠依の耳の奥で鳴り響く。
「序盤はいいんだよね、自分が何者かわからない少女の無垢さ? みたいなのが出てて」
けど、と言葉が繋げられる。
「終盤のさ……自分の名前を呼ぶシーンが、ただ名前を言ってるだけみたいに聞こえるから……もう少し盛り上がると嬉しいかな」
その変遷こそ、瑠依が実感を掴めない感情だった。
「けど、セリフの覚えが早くてすごいよ。そのぶん、こうして細部を詰められるんだから」
台本をそらんじるのはむずかしい行為ではなかった。ただ書いてあることを口にすればいいだけだ。意味の読解が必須ではない。
しわだらけの表紙をめくる。記憶と違わぬ文面を見て悩むふりをする――悩んでいるのは事実だが、そこに答えがないのもまた事実であった。
あらましを反芻する。
その美しさで一国を統治した女王。彼女を幼少より映し続けた鏡はいつからか、世界でいちばん美しい存在を唱える魔法の鏡となっていた。
ある日その鏡が、自分以外の名前を呼ぶ。お伽噺として忘れ去られた妖精に育てられるひとりの少女を。
それこそが瑠依の演じる妖精の少女であった。
鏡に見いだされたその子は、鏡を通じて自分を獲得する。
物語の終幕で手に入るもの――報酬の実体が瑠依には遠く、その輪郭も掴めない。
羅列されたせりふは感情を説明せず、ただ出来事を重ねている。
そこにどんな思いがあるのか。解答欄はト書きとせりふのわずかな隙間で、裏表紙をめくっても教科書のような正答は書かれていない。
通読して、それでも溜め息ひとつ漏らさない瑠依に、この人物の作り手は語りかける。
「瑠依ちゃん……何に悩んでるの?」
見上げる視線に捕縛される。瞳の黒が鈍く映すものを反射しない。薄いまぶただ。その下に代謝から置き去りにされたような隈がくっきり浮かんでいた。
原因は一概に語れなくても、夜半に浸る不摂生は理屈に合う。何が彼女をそこまでさせるのか。「それともさ」と開かれる口が瑠依を絡めとる。
「それって……言葉にできない悩み?」
「……言葉には、できる」
瑠依は暗闇のなかで手探りするようゆっくり答えた。
「ただ……その意味が、瑠依にはわからない」
〈銀色の魔女〉と呼ばれる少女は言う。魔女は世界に意味を贈る。そんな彼女が、言う。
「瑠依の演じるこの子は、名前を獲得する。けど、名前は贈られるもの」
――涙のように美しい藍色をしているんだ。瑠依、と名乗るといいよ。
かつて少女は、そうして生きる理由を手に入れた。定義されて、だれもの悲しみを代理する雨になろうとした。
それが間違っているとは、今でも思わない。けれど、霖雨は悲しみを流すのではなく、ただ隠すだけだと知った。
与えられた救いに夢を見て、その夢の先を描こうとしている。ならば、自分を定義するのは自分自身だ。
「なんでこの子は、自分の名前を見つけられた?」
瑠依の疑問に少女は呻いた。脳こそが痛痒の原因であるように頭を乱雑にかきむしる。
発作に似た行為が一通り収まって、ぼざぼざの髪は木枯らしの後の路面を思わせた。
「……まあ、その、ふわっとさせてる部分ではあるからなぁ……描写が足りなかった、とは思いたくないけど……」
言いながら視線が逸れていく。斜めに向こうに。机があって、机上には小さな鏡が立てられているのを知っている。
その角度から姿は見えているのか。彼女の瞳からは読み取れない。
「自分なんてさ、ないんだよ結局」
少女は悲観的に聞こえる言葉を、なんてことのないように口にした。
「思考や選択があるってつじつま合わせを自分って呼ぶだけ」
だから、と言葉を繋げる。瞳が窓からの光を取り込んで輝いて見えた。
「名前なんて、自分がそうしたいように名乗ればいいって、そう思ってるよ」
少女は立ち上がる。沈み込んでいたマットレスが元のかたちを取り戻す。掛け布団は皴が寄ったままだった。
「けど、これは瑠依ちゃんの悩みに答えられてないね」
「あなたは、どうして……この台本も、なんでそんなにがんばれる?」
「ただの自分探しだよ」
「ないのに?」
「自己はなくても自我は……どうしたいかはあるよ。つじつま合わせだって意味は作れる。なんでこんな思いを抱くのか、その原因を知りたいって思うんだ」
「どうしたいか……」
どうしたいか、どうなりたいか。お伽噺に夢見る寝処の無垢がかたちなす魔法少女の基本理念。夢はもはや自己と同一し、それを求める思いこそが自我だ。
ゆえにこそ、それはだれにも通底する。別れの日の有無は違えど、みな無垢から生まれ出る。
魔法少女として生きると決めた。ならば、それは避けて通れない問いだった。
「もし贅沢を言うなら」
少女の声に瑠依は意識を引き上げた。窓辺に立つ彼女を光が影にする。輪郭が際立った。日が遮られてまぶたが開く。今まででいちばん、その姿が見えた。
「この子を通して、瑠依ちゃんが答えを見つけられたら嬉しいかな」
その言葉は、いつかに頬をつたった光に似ていた。
◇ ◇ ◇ ◇
秋の風に乱れた髪が揺れていた。少女に見送られて、瑠依は家を後にする。
行き詰まった役作りに光明を求めて提案された休日の読み合わせだったが、安易に答えは導かれない。それでも、無為な時間ではなかった。
門扉を閉じる際に柱に埋め込まれた苗字を見る。記憶に相違なく、しかし台本には書かれていない。
作品に名前を残さない。彼女にとっての自己は表紙に刻まれるものではなく、中身から浮かび上がってくるものなのだろう。
日はまだ高い。解散したのは瑠依に次の約束があるからだった。
空は飛ばず、地に足をつけて歩く。これから会うのはそんな相手だ。
街なかでもっとも盛況している駅前からは遠のく道だった。斜めに逸れていって住宅街を進むと、コンビニやドラッグストアが間隙に収まっている区画に着いた。横に伸びる傾斜は選ばずにまっすぐ平地を踏みしめていく。一軒の平屋が目に留まった。
小さく経年を感じる見目をしていた。しかし深緑に侵されている様子はなく、細かな手入れにひとの息遣いを覚える。
聞いていた住所には、支倉と表札が出ていた。先日の警邏の折に確認はしている。夜を染める暖色の光。営みは影絵のように窺えた。その日は訪ねるでもなかったから、空から眺めた。
今日は正対し、インターフォンを押す。閑静な空気に鋭敏となった耳が室内で膨らむ響きを捉えた。軋む板の音が心臓に感応する。
『はい、どなた?』
スピーカーから聞こえる声は、お伽噺の読み聞かせに似て耳に馴染んだ。カメラはついていない。だから名乗った。
「瑠依」
『待ってたわ。いま開けるわね』
足音が近づいてくる。緊張は解けていた。
レンズの大きな眼鏡をした老女が扉を開いて瑠依を出迎えた。鬢に白いものが増えている。
「わざわざ来てもらっちゃってごめんね」
「いい、駅前はひとが多い。それに……」
瑠依の脳裏に失われた景色が浮かぶ。あらゆる流れが滞留する空間。永遠と信じた夢は終わった。
夢が終わっても、命は続いていた。
「あがって、ね?」
促されて瑠依は玄関にあがる。靴を脱ぎ、老女の背に導かれて廊下を渡った。足音は魔法で消すのが常だ。ひとりぶんの軋みが鳴る。
通された洋間は、常日頃から使用しているのだろう生活臭がした。それは支倉自身のにおいであり、椅子に着いた細かな傷、色褪せたブランケット、毛の寝た絨毯、日焼けした時計が感じさせる経年であって――何より壁に並ぶ、彼女自身では動かすことは叶わないであろう棚に差し込まれた、数々の映画のパッケージが日常を浮かび上がらせていた。
向かいに立てられた画面の大きなテレビは今は何も映していない。側面に鎮座するスピーカーが仰々しい。デッキにはディスクの再生機器がある。
「……映画」
「そ。場所はなくなっても、好きな気持ちがなくなったわけじゃないから」
失われたもの――手放したものが戻ることはない。けれどそれが、断絶を意味するわけではないと知る。結実したものは何かからの地続きであり、損なわれてもその道は途絶えない。
「座って……と言っても、椅子はこれしかないから、座布団の上だけど」
ふたつ置かれたそれにくたびれた様子はない。隔てる背の低い机もまた、この日のためにしつらえられたような木目をさらして部屋の中央に収まっている。
「問題ない」
瑠依は頷いて、そのひとつに座した。テレビを背にして、つまり色々なパッケージと対峙する。辞するも茶を支度するという姿を見送った。やがて茶請けを供に湯気を立ち昇らせる盆を机に乗せ、ひざを折る。腰を下ろす支倉の背に映画の並ぶ光景こそ自然に思えた。
配られた歓待をどう扱っていいか考えあぐね、脚のうえに置いた手のひらは動かない。
自身の淹れた茶で舌を濡らして、老女は口を動かした。
「驚いたわ。まさか、瑠依ちゃんが連絡をくれるだなんて」
「連絡したのは瑠依じゃない」
「連絡したのは莉彩ちゃんね。でも、連絡をしてくれたのは瑠依ちゃんでしょ?」
映画館を閉じたのちの支倉の行方を瑠依は知らなかった。だから莉彩に取り次いでもらい、今日を約束した。
赤い少女は嫌な顔ひとつですべてを遂行してくれた。彼女はただ橋渡しをしてくれただけで、この日この時間に顔を出すことはない。用件があるのは瑠依だけだった。
「最近はどう? 元気に過ごせてる?」
「……元気、はわからない。でも、不健康ではない」
「そう、それならいいわ。一気に冷え込む季節だもの」
手指をあたためるように支倉は湯呑みを両方で包み込む。暖房の音は聞こえている。骨が冷えるのか。
「じゃあ、そうね……これまで、どう過ごしてきたの?」
「……」
夢の終わりを見届けたあの夕暮れから今日までの空白を老女は聞く。その話題運びに瑠依は、残りの数分を指折り数えるみたいなじれったさを感じた。
「なんで訪ねてきたのか聞かない?」
「どうして来てくれたのかを知るために、瑠依ちゃんのこれまでを聞きたいの」
「意味がわからない」
「会いに来てくれようと思った理由があるでしょう? それは用件を聞くよりよっぽど大事だって、私は思うの」
「……べつに、特別な理由はない。どう過ごしているのか気にかかっただけ」
支倉の眼差しは平熱で、瑠依を暴き立てるような鋭さもない。ただ目の前にあるがままを見つめている。
「けど」と少女の口から近況が転がり出た。
「主役なんてすごいじゃない」
感嘆の声に銀色の髪が揺れる。
「瑠依が自分をわかっていないのに、だれかを演じるのはむずかしい」
「瑠依ちゃんにとって自分って何?」
「かなで」
迷うべくもなかった。暴力的なまでの自我の発露。彼女の夢があまねく救済をもたらすのを間近で見続けてきた。名を与えられただけでなく、その強烈なまでの言動が自己であると認識した。
「でも、かなでは失われた」
そんな夢でもいずれ失われる。奏こそが瑠依の礎だった。その信心が失望の夜を招いた。見いだした希望は自分を照らすものの、映し出すわけではなかった。
「夢が終わってもあなたは、あなたとして生きている」
「終わったり失くしたからって、それまでを否定しなくてもいいのよね」
老女は湯気の落ち着いた湯呑みを机に置き、饅頭の包みをはずした。
「過去はただ過ぎたことでしかない。今も、未来も、そういうものになっていく。一生を懸けたつもりでも、命だって終わるものでしかないわ。ぜんぶはただ流れていくだけなのね」
茶饅頭を、飾りのない手指がよっつに割る。口はまだ言葉のために存在した。
「だからそこに何を見いだすか。それが自分だって思うのよ」
四等ぶんのひとつを支倉は口に運ぶ。「甘いわ」とほほ笑んだ。
「私は終わりを瑠依ちゃんに見届けてもらった。ちゃんと諦められた。未練がないのは贅沢だけど……だからって縁を切ってしまう必要はないのね」
老女がこの部屋に、この光景のまま通した意味を理解する。ただ思い出になったのならば、処分が苦労でも布で隠してしまえばいい。けれどそれこそが支倉だと、彼女は認めた。
奏を忘れたくなかった瑠依は、思い出として抱えて生きていくと決めた。そうして夏を見送った。
「かなでのいない日々に瑠依は瑠依を探してた」
奏と過ごした時間もまた瑠依だった。与えられた人生だとしても、瑠依だけの心があると希望論を唱えた少女の声がよみがえる。その意味にようやく届いた気がした。
指先にふれた意味を丁寧に手繰り寄せるようにして、瑠依は静かに言葉を織り重ねていく。
「かなでがいなくなって悲しかった。だから瑠依は生きてる。瑠依が失くなったら、だれかが悲しむって知っている」
「そうなったら、私は悲しいよ」
「でも、かなでのいない世界でどうしていきたいのか、瑠依は瑠依のことがわからない。この名前は、かなでがくれたから」
「うん」
「それが瑠依のしたいことなんだ」
海溝に似る藍の瞳が意思をたたえる。
「もらったこの名前の意味を、瑠依は作りたい」
与えられたままに生きるのではなくて、生きていく姿を名前としたい。
すべてがただ過去と遠のくだけの現象にすぎなくても、流れとして繋がりがあるのなら、生きる意味は前だけに存在するのではない。
そしてその夢は、台本のなかの少女に合致する。
「瑠依ちゃんががんばりたいって思えるなら、それはすてきなことだって思う。応援したいわ」
「ありがとう。相談してよかった」
「こちらこそ、相談相手に選んでくれてありがとう。会えて嬉しかったわ……それに、せっかくなら瑠依ちゃんにお話ししたいことがあるの」
「瑠依に?」
「新しくね、やりたいことができたの」
瑠依は驚きに目を見張った。
「あんなふうに見送ってもらってね……節操なしだって思うけど」
「そんなことない」
銀の髪を振り乱して否定する。
「どんなこと?」
「夢を見たの。おかしなことを話すって思われるかもしれないけれど……瑠依ちゃんと別れてすぐの夜に、とても悪い夢を見たのよ。それこそ、生きているのが苦しくなる……生きている意味なんて世界のどこにもないと思っちゃうくらいの夢を」
「……」
言葉を受け止める。瑠依自身が背負う罪だった。
≪魔女の夜≫。あまねく希望を失わせればひとは夢を見ない。存在しないものに喪失の痛みは訪れない。それが道半ばで途絶えた救済を果たすと信じて、〈銀色の魔女〉は人々を失望の揺籃に包んだ。
夜明けを迎え、暗闇はただ傷として残った。鏡の魔法に描き変えられても、漆黒は何にも染まらない。
「ただずっと真っ暗な中を落下して、いつ底にぶつかるかわからない恐さも、だれの温度も感じない孤独もぜんぶがぜんぶ心臓を握りつぶして呼吸もできない……なのに意識だけがどんどんはっきりしていく、現実みたいな夢だったの」
その怯懦を退けるように饅頭を食む。わずかな咀嚼の閉口を、瑠依は黙して待った。
「でもね、光が見えたの」
嚥下した喉が、歌うのに似た響きで希望を紡いだ。
「遠く手が届かない、けど確かにある光。小さなころにね、ひとりお手洗いで目が覚めたときに見つけたみたいな星明り。頼りなくて、それでもそこに存在してくれるから、夜の怖さは変わらなくても歩いていける、そんな暖かさ。あの輝きを、多くのひとに見てもらいたいって、そう思ったの」
〈星〉の魔法少女がもたらした希望は支倉に夢を見せた。そのことに胸の奥が熱くなる自分がいることに瑠依は気づいた。
「どうやって叶えるのか決まってる?」
「まだいろんな方に相談してる段階ね。けど私は、場所が好きだから……それが叶うようにしたいって考えてる」
「そう。瑠依たち、がんばろう」
瑠依は茶菓子に手を伸ばした。包装を剥がすと白饅頭だった。口に運び、こしあんの甘さが舌に痺れる。とっくに冷えた茶を飲み、苦みが喉奥を締めつけた。
甘くて、苦くて。どっちかだけでなくていい。どっちも選んで飲み込める。
「ねえ瑠依ちゃん。私、瑠依ちゃんの立つ舞台観たいわ」
「観に来てほしい。はるかも……みんな、がんばってる」
日程を伝える。そこからも絶えることなく言葉と言葉が重なっていく。
窓辺に夕焼けが差し込んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
空に瑠璃色が忍び寄る。夜の吐息だった。
支倉からは冷え込みを心配されたが、魔法で拒絶できる瑠依の体感は恒常をもつ。空を飛ぶ姿も瞳に映らない。銀色の魔法と呼んだのはだれだったのか。世界と接触するステッキによる指向は必要あれど、衣装への変身はいらない。魔女ゆえの自在性だ。
都心部を指定されていた。電車で一本だが、いくらか遠い。交通網を使う予定は最初からなかった。
瑠依を先行するように生活の光が灯っていく。目的地が近づいてきた。星明りの終末を思わせる爆発的な輝きが目に入った。
おおよそ生活とはかけ離れた煌びやかさだった。イルミネーションの明滅に似た往来を下目にして、瑠依は街灯の乏しい路地裏に降り立つ。
元がどんなテナントが入っていたのか想像もできないくたびれた建物が並んでいる。降りたシャッターやひび割れた壁にボムされて、いっそう退廃をかもし出していた。先鋭的と礼賛されるオーバードーズの幻惑じみた表通りをキャンディとして舐めるようなグラフィティだった。なんにせよ瑠依には興味がなかった。
空から降り立つ銀色の少女をだれも認知しない。行き来する人々は男女年齢様々であった。
治安のいい空間と断言するには暗闇が多いが、目立った諍いはない。点々と目にするコミュニティ――仲のよさそうな面々が固まっているだけでも、それが監視の目として作用している。倫理のうえでの安定でしかなくとも。
だから女子高生が制服を脱いでしまえば、そこを拠点とすることに不思議はなかった。
筆記体の店名が軒に吊るされている。ライトアップもされていない。注視しなければ見落としてしまう。耳をすませば微風に乗って重低音が漏れ聞こえた。談話の声で掻き消えるかすかなものだ。音を発する口は階下に続く。
軒先で、闇に溶け込むようにして見慣れた少女がひとりたたずんでいた。
「夕架璃」
名を呼ぶと、肩を震わせ垂れまぶたの奥の瞳をさまよわせる。揺れる髪の内側の緑が夜に馴染んでいた。
「びっ……くりしたー。えー、遠くからでもぜったい気づけると思ったのにー。魔法ー?」
「そう」
事実だった。夕架璃からすれば冗談でしかない。「うけるー」と笑って少女は階段を指差した。
「行こっかー」
誘われるままに傾斜の急な段差をくだっていく。壁には増改築の後のように色々なシールやポスターが重なっていた。隙間に除く塗装はおおむね禿げてしまっている。重低音が近づく。
夕架璃が体重をかけて扉を引くと、音は声を伴った。壁ひとつ隔てて聞こえ、明瞭ではない。天井につるされたライトが過剰な光量で狭い空間を照らしていた。
「インナーちゃんじゃん」
入り口からすぐ横に、廊下を半分占有するスチール机で隔てて男性がパイプ椅子に腰かけていた。
ピアスの数が過剰に感じる以外、目の引くところはない。染色で傷んだ髪が過日を思わせる。若き過ちを見守る側の年齢に見えた。
「来るって聞いてたけど、バンドの子たちじゃないんだ。めずらし」
「まぁねー。友達と共通の趣味を作ろうという試みですよー」
夕架璃はポケットから折り重ねた紙片を二枚取り出す。チケットだ。
「今日出てるでしょー」
「はいよ。ドリンクはいつも通り中ね」
受け取る手で向かいにある扉を指し示す。
「瑠依は何飲むー? 水かエナドリか割り材のジュースしかないけどー」
「けち臭くて悪かったね」
ぼやく声に「あはー」と夕架璃は笑い返し、通された道を進む。先と同様の重たい扉を引くと、いよいよ音が炸裂した。
決して広くない空間だった。教室と同じくらいだろう。満員にはほど遠い。隙間だらけで部屋中を音が暴れまわっている。
前方には柵を隔てて一段高いステージがあった。降りそそぐライトの熱ばかりが高音で、吹き溜まりのような客席は季節と同期していた。
じゃぎじゃきと鳴るギターに乗せて、発音もめちゃくちゃな歌詞を男性ボーカルがなり立てている。はちゃめちゃだがリズムだけは正確だ。ベースとドラムスは女性だった。
「あいつらはただのばかだからー。そんな真剣に聞かなくていいよー」
音に負けないよう声量をあげて言う夕架璃は、出入り口横のカウンターに身を寄せていた。
「うちはりんごジュースー」
「同じでいい」
瑠依は吐息のように声を出す。彼女の魔法はそれで言葉を届けた。
金額が提示される。夕架璃は五百円玉をみっつ転がした。百円が帰ってくる。パッケージの剥がされたペットボトルの中身がプラスチックカップに注がれ、差し出された。
「お金」
「いいってー。うちが誘ったんだしー」
「相談したのは瑠依」
「話を持ちかけたのはうちっしょー」
りんごジュースをちびちび舐めながら夕架璃はステージに目を向けた。先のバンドが客席を煽っているものの空回りしている。瑠依も手に持ったりんごジュースがわずかに振動する。それでもだれも出ていかない。
「滑ってるわけじゃないよー。客もここらへんで入り浸ってるひとばっかだしー。わかってて冷やかしてんのー」
「なんであんなに叫んでる?」
「ロックンロールの正体は空洞だからー、ひたすらに大きな音を突き詰めていくことがロックンロールの破壊に繋がるとか言ってんだよー」
ばかでしょー、と夕架璃は片笑う。
「壊して作ってまた壊してー。そんなの虚空にボール投げてるだけじゃんかー。なのに信じてるんだよー」
ステージを見る瞳がまぶしげに細まった。
「羨ましいよねー、ほんとさー。そうやって何かを信じられるなんてー」
「瑠依は、どうしたいか見つけた」
「早かったねー。でも、そんなもんかー。答えなんて身近にあるもんだよねー」
今日ここまでの路程は、夕架璃の言葉がきっかけだった。『これまでかかわってこなかったひととかー、縁遠くなったひとにさー、会ってみたら意外と発見あるかもねー』。自分探しを手伝うと申し出た彼女はそう言って、道を示してくれた。
「答えのない問いなんてそもそも立てられないんだからさー。疑問があったならー、答えはもう存在してるよねー。絶対不変の真理なんかー、個人にはいらないんだしー」
「瑠依だけの答えなら、それが瑠依じゃない?」
「その夢が叶わなかったら瑠依じゃなくなるのー?」
「……わからない」
言葉が喉の奥で濁る。瑠依は魔法少女として生きていくと決めた。そして夢を失うことによる自己否定こそを〈失貌〉と呼んだ。その末路は、あまねく希望を見失わせ、夢を摘み取る〈失望〉だ。
袋小路に風穴開ける言葉が夕架璃の喉から鳴る。
「生きる理由も意味も自分じゃないでしょー」
「自分って何?」
自分なんてないと言う少女がいた。自分は見いだすものだと言う先達がいた。自分はそこにあると言う希望がいた。自分はそうなればいいと言う救済がいた。
「ロックンロールだよ」
夕架璃は歌声のように言い切る。その声は間延びしなかった。
「あいつらもそうー。次出てくるひとたちもそうー。うちもそうー。みんなロックンロールで生きてるー。そうやってー、生きて残していくものが自分でしょー」
「それは、過去?」
「うちにとっての過去でー、だれかにとっては足跡ー。残るものを見てー、ほかのひとはうちを定義するっしょー」
言って、空いた手指で髪を梳いた。インナーちゃんとあだ名される彼女。そう呼ばれたから色を入れたのではなく、インナーカラーを入れたからその名が生まれた。
「カラーを入れたのにほかのひとの影響がなかったわけじゃないけどー。そうしたいって決めたのはうちー。ひとから決められた姿ー、自分で決めた姿ー、どっちもで自分でしょー」
行為による足跡を見て他者に判断される。行為を決定するのは選択であり、この選択に他者からの承認や定義によって育まれた価値観が出る。それを二者択一の問いで終わらせないのが、
「考えてー悩んでー、自分で自分と対話してー、そうやって自分ってやつを知っていけるんだよー」
他者からの影響を通して自分を選択していくことで幅が生まれる。
他者承認と自己承認とが一体化することで自己は導き出される。
「呼ばれ方なんてどうでもよくてさー。大切なのはどうするかだって思うけど―」
少女の目がステージから離れ、嵩の減らないりんごジュースに向けられた。
「夢が叶わないのは前提だからさー。それで何もかも投げ捨てちゃうなんてしなくていいんだよー」
「夕架璃……」
少女の声から、やわらかな繭を手のひらで覆うのに似た恐れを感じた。潰してしまうのに怯えるからこそ、ふれずに見えないようにする。そんな、恐れを。
喪失への不安の正体は知れない。それでも、震える思いで寄り添ってくれた。だから瑠依は、手に持ったコップを唇に乗せた。りんごジュースが体の奥に流れていく。
杯は乾すことなく口を離す。
潤った喉で満たされた気持ちを言葉にした。
「舞台、楽しみにしてて」
ステージの上からもはや絶叫が聞こえる。リズム隊も嘔吐のような連続で音を奏でている。クライマックスだ。それが心地よく思えた。
「みんなが期待してくれた瑠依が、その想いに応えたいって思うから」
だから、と視線をあげた少女へ言う。
「夕架璃のステージも、楽しみにしてる」
「……お互いにー、やるしかないねー」
眼前にコップが掲げられた。作法は知らなかったが、どうするべきかは自然とわかった。瑠依は交わるように液体を揺らした。
夕架璃は歯を見せて笑った。垂れたまぶたにやさしさ燈る赤茶の瞳に、ステージライトより強い輝きを見た。




