星はきみに輝いて
瑠依は顔を背け窓を見ていた。外ではイチョウの葉が散っている。徐々に姿を見せる枝先に時間を感じた。
チャイムの音が聞こえる。終業の合図だ。瑠依は首を回す。少女もその一部である、廊下の端を占拠する集団を見た。
「もう時間かー」「まとまんない……てか、完成図がいまいち見えないわね」「んー、やっぱ仮読みから組み立てていくほうがいいんじゃない?」「だわな。役が見えなきゃ場所もできないか」
脚本を担当したクラスメイトと、その補佐として演出の担当になった級友が一斉に瑠依を見つめる。
「てなわけで、主人公な瑠依ちゃん。次回から読みわせたいんだけど、いい?」
そう問われて、否定する材料はない。肯定する理由もなかったが、縦に頷いた。
どたばたと早足で廊下を渡る四人の背に付き添って、瑠依も教室へ急ぐ。手には台本が握り込まれていた。表紙にやや読み跡がある。その皴が少女の苦悩だった。
絵具の残り香がある室内へと滑り込む。「走るんじゃないよー」視界の端で歩いてくるのが見えた教師の声に肩を押される。間に合った。教壇側に詰めた机の群れに入り込んで、自席に座る。
ホームルームは簡素なメッセージで済まされた。放課後に残ってもいいが、閉門までには帰るようにと目安の時刻が伝えられる。まだそこまでの追い込みは予定されていないが、状況によってはありえる――というより、率先して残りたがるひとがいるのだと早季から聞いた。青春と呼ぶらしい。
隣の遥が上の空だったのが気になった。帰りの挨拶が終わって問いかけると、事情が聞けた。
「鏡……はるかが作るんだ」
「わたしがひとりで、ってわけじゃないんだけど……代表者としてやってくれないかって」
そう言う顔は、木の実でも噛んだかのようにゆがんでいる。その感情の正体を瑠依は知らない。
ただ、そうなる気持ちは知っていた。
「どうすればいいかわからないのは、瑠依も同じ」
机の上に置いたままの台本に目を配る。
「何度読んでも、瑠依は瑠依が演じる子の気持ちがわからない」
目線を戻す。遥の肩越しに舞い散るイチョウを窓越しに見た。
時間は過ぎる。夏はとっくに終わっていて、いつの間にか秋も遠のこうとしていた。
ひとり、置き去りにされていく。それは気配を増す文化祭本番への予感か、世界に対してのものか。
「瑠依自身の気持ちだって……はるかに導いてもらったから知れた」
「それは……ただ、わたしが先に気づいただけだよ」
ふたりは同じだった。同じ夢を見た。やり方は違っていても、その夢を否定しないために行動して――今も魔法少女であり続けている。
その根底にある理由。通底するのは、夢がなかったこと。叶えたいと思うだけの自我がなかった。
自分がなかったから、他者の定義に救いを見た。その救済こそ命だった。
だから、ふたりは同じ伽藍を抱えながら違う命だった。定義が違えば意味も違う。鏡写しの姿は、しかし自分を映さない。
「自分なんかでいいのかって、そんな気持ちがあるよ」
遥が言う。
「瑠依は……瑠依が、どう思っているのかもわからない」
瑠依が言った。
自己承認は、承認する自己があるからこそで、そのスタートラインを踏み出したばかりのふたりにはいまだ縁遠いものだった。
風がふたりの髪をふわりと持ち上げる。
その流れは窓からのものだった。開け放たれた大窓が季節を招き寄せる。
乾いた背景素材が室内に運び込まれていた。作業スペースとなっている後方のロッカー前は雑然としている。足場に気をつけながら、ロッカー上に用紙を重ねていく。
そのひとりと目が合った。
「なにー……ふたりして秘密な話ー? やーらしー」
その間延びする口調が歩調であるようにとてとてと、少女が近づいてくる。揺れる髪の内側から緑が覗く。
ふたりの机を繋ぐみたいに屈んだインナーカラーの少女に、瑠依が声を返した。
「夕架璃……部活は?」
「場所待ちー」
彼女が軽音部に所属していると遥も知っていた。たしか、と記憶を探って苗字を釣り上げる。
「花園さんは……その、準備のほうは、どう……?」
その言葉に、問いかけられた少女がゆっくりまぶたを見開き、目を丸くした。
当惑する遥に「ごめんー」と断って夕架璃は声を続けた。
「空閑さんにー、名前を知っててもらえててびっくりしちゃったー」
その音色に含むところはない。ただの事実確認だった。遥もただ歯切れ悪く答えることしかできない。
「あ……う、うん……それは、わたしが悪かったから、さ……」
「悪いとかないけどねー。うちも全人類の名前知らないしー」
それに瑠依が「そういう話?」と切りこんだ。夕架璃は受け流すでもなくほのぼのと笑う。なんとも朗らかな空気感をしている。かつて見た、ステージ上の姿が想起できない。けれど、拒絶がかたちをなした銀色にふれたのは、その暖かさではない。
「大事なのはさー、名前じゃないってことだよー」
肯定も否定も受けつけない、言葉尻の間延びした口調とは裏腹に鋭い声音だった。その舌鋒こそ、織り重なった拒絶を切り開いて心に届いた。
「で、準備ってことはバンドについてだよねー。まあ、どうなんだろー?」
「上手くいってないの?」
遥の疑問に「うぅん」と夕架璃はうなる。
「音はあってると思うよー。新曲だってあがってるー。……あ、ここだけの話ねー」
言う声は軽快だけれど、その喋りはどこかよどみがあった。
「順調そうだけど」
「うんー。じゅんちょーじゅんちょー。順調すぎて、気づいたら流れていっちゃうかもって思ってるー」
「……最後、だもんね」
「そゆことー」
例外がないわけではないが、夏の行われる大会、および発表会が三年生最後の部活動として認可されている。実績も弱く、人数も少ない軽音部が事例に該当するとは思えない。
「文化祭としては最後だけどー。活動はもう半年以上できるじゃんかー。火のつく理由がないんだよねー」
不完全燃焼――の前に、燃えない。
最後という材料はあっても、着火する熱が用意できない。
「後悔したくないからやりたいことやってんのにさー。うち今なーにやってんだろって考えちゃってるわけー」
ただ遠のいていく。過去になっていく。そして、後悔になる。
それを、遥は知っている――最後だと知らなくて、最後なんて受け入れたくなくて、ただ後悔だけを抱えた秋を過ごした。
「思いっきりさ、やってみればいいんじゃない」
そんな言葉が自分の口をつく。無自覚で、ただ感情の先頭に立つ思いをかたちにしただけ。
それはきっと本音で、だから遥自身すらすくいとった。
「考えて出ない答えはさ、まだ知らない問題なんだよ。だから、やるしかないんだ。それで何もうまくいかなくても……違った後悔になるだけだとしても、それは未来に繋がるはずなんだ」
過去をただ、手放さない。未来へと繋げていく。だから、
「今、がんばってみればいいんだよ。後悔をしないためじゃなくて、その後悔を過去で終わらせないために」
がんばってがんばって、がんばって――何も実を結ばなくても、そこに撒かれたものまで消えてなくなってしまうわけではない。
それにどんな意味を見いだすかは、後の自分に託される。
「後悔を受け取れるようにさ、今を全力で駆け抜けて未来になりたいって、わたしは思うよ」
「がむしゃらに、かー」
夕架璃は口に含めるよう言った。
「うん、そうだねー。がんばるしかないんだー。行動が理由になるって、信じるしかないんだよー」
頼りなく二点を繋ぐ糸のようであった夕架璃が立ち上がる。憶えているはずもない瞬間に遠のいた、初めて歩いた日の地面の感触を思い返すみたいに頷く。
「やるだけやってみるかー……意外と、終わんないかもしれないしー」
「前向きになってくれてなによりだよ」
そう言うのは先まで素材の回収をしていたクラスメイトで、夕架璃の所属するバンドのメンバーだった。ベース担当の子の発言に同調して、ドラムを担当しているもうひとりの少女が言葉を継ぐ。
「くがちもいいことゆうね」
相変わらず耳の慣れない呼称だった。彼女以外だれも呼ばない謎のあだ名だ。
「……ん?」
呼ばれ方以上に、聞き逃せない言葉があった気がした。
「聞こえてた……?」
「教室狭いし」
「窓閉めちゃったし」
ふたりがテンポよく言う。その後ろでさらにクラスメイトが顎を引いた。いくらか数は減って見えるものの、合計して片手を埋めるだけの人数はいる。
「いいこと聞いたわ」「なんか皆森さんと話してるなとは思ってけど」「そっちは聞こえなかったけど、花園喋り方のわりに声通るしな。そっから空閑さんの声もよく聞こえてきたよ」
耳が熱くなる。恥ずべきことを言ったつもりはないが、気恥ずかしい発言の自覚はあった。
化粧も衣装もなくたって、空閑遥こそが希望で構成されていても、剥き出しで胸を張れるほどの過信家にはなれなかった。
「なんか最近、空閑さんのこと知れて嬉しいわ」
ひとりがしたその発言に、都会で星を見つけたような喜びが生まれる。
そんな街なかの喧騒を縫ってたどる静寂に似た、ひそめた声が視界の外からした。
「ねえ、瑠依ー」
街灯もない路地がぽっかり覗かせる暗闇を思わせるトーンで、夕架璃が言う。
「自分探し、手伝おうかー?」
その言葉を、遥は追いかけない。星はただ輝くだけで、深淵を照らすことはできない。
同じでも、違う。そんな瑠依の悩みを、遥で溶かせない。
待っていようと、そう思った。
「……お願いしたい」
銀鈴のように鳴る瑠依の声が、遠く聞こえた。




