化粧台の魔法
「鏡に映るのは、自分が見たいと思っている姿だよ」
毎朝毎晩、鏡に向かって自分の名前を言う。
そこに、だれも顔も知らない姉の姿が映るように。
三面鏡に逃げ場はない。左右に目を逸らしても、自分の顔が見える――言葉を話せるそのときから繰り返してきた習慣に、疑問を持つことはなかったが。
後方、鏡越しに笑顔の母が座っている。
「ねえ莉彩」
振り返らない。ただ、鏡のなかの自分に向けて名前を繰り返す。
莉彩、と。
姉の名前を。
「生まれてきてくれてありがとう、莉彩。一度、莉彩がいなくなってるから、私はあなたがかけがえないと実感してるの。愛しているよ、莉彩。私のお腹から、ちゃんとでてきてくれてありがとう、莉彩」
寝物語よりよっぽど聞いた言葉が首元に絡みつく。浮き上がってきた喉仏を押し込めるように、息を詰まらせる。
何が正しいのがわからなかった。
少なくとも、男子が女子の姿をしているのは排斥の原因になるとは知っていた。
この環境が――母が普通ではないのも、理解した。父がいない理由も想像できた。
けれど、わからない。
自分が何者なのか。
機能は男でも、精神は性別を決定していない。
生まれたときから、死産した姉であると決められていた。
それがあたりまえだった。世間の言う普通が、潔癖症の排他に感じる。
美しくないものと掃き清められる。
居場所はここにしかなかった。
三面鏡に自分を見る。
透き通る白い肌は、暗所に座る日本人形のよう。日焼け止めを欠かした日はなく、外で遊んだ記憶はわずかだ。屋外競技の体育はいつも見学で、修学旅行には一度も行ったことがない。
輪郭はどこか骨張って、最近食卓から野菜が減った。そもそも栄養はサプリメント依存だ。カロリーだけが管理されている。
腰まである黒い髪は漆のように艶やかで、癖ひとつない。
要素を切り抜けば女性的で、母は姉の部品を作るのに成功していた。
でも組み合わせた瞬間に、行方知れずの父が重なる。写真すら処分されてようと知れないが、身体的特徴にその影を見る。
整形をできれば話は早かった。骨を削り肉を切り、肌を整えれば母の理想に描き変えられた。
選択肢にあがらなかったのは、天然素材であることに母がこだわったからだ。莉彩なのだから、削ぐことも足すこともせずとも、自然と理想の姿に整っていくと信じていた。
化粧台にメイク用品が並んでいる。
自らを、自らで描き変える。
それで母が笑うなら、それこそが成りたい姿だった。
性別ではなく――姉に。
莉彩に、成りたかった。
だから化粧は魔法。祝福だった。
今日、自分は描き変わる。
今朝、精通をした。母には言わなかった。




