失貌と失望
帰路につく遥の目の前で、秋の夜風を思わせる涼やかな銀色がなびいた。
瑠依だ。十字路の交差する地点で再会を果たした。
「なんとなく……会える気がしてたよ、皆森さん」
「瑠依は会いたくなかった」
「でも、用があるはずだよ……お互いに」
「……見せたいものがある。ついてきて」
返答を待たず、瑠依は背中を見せた。誘われるままに遥はそれを追う。
道中に会話はなかった。瑠依が目指す場所に着けば、自ずと向かい合うことになる。言いたいことも、聞かれることも、そうして始めるべきだと言う空気が、ふたりの間に流れていた。
そうして足を止めたのは、アパートの二階。一番奥まった部屋の前でだった。
表札は出ていない。瑠依が鍵を取りだして、彼女の住居だと知る。
かちゃり、と錠の落ちる音がする。きぃ、と蝶番が鳴き声をあげた。
ぽっかりと穴が空いたような暗闇が口を開いた。
「あがって」
「……おじゃまします」
沓脱にローファーを並べる。
瑠依は慣れた動作で部屋の中心へと向かっていく。電気をつける素振りはない。照明は天井にかかっていなかった。
カーテンのない窓から差し込む月明かりでどうにか内観を窺い知れる。
ワンルームの部屋にはろくに荷物がなかった。洗濯機や冷蔵庫を除いては家電の類は置かれておらず、部屋の隅に寝袋が見えた。ほかに寝具は見当たらない。
そうしたなかで目を引くのは、開け放たれたクローゼットに鎮座する水槽だ。
からっぽだ。水すら入っていない。そこに生き物が住んでいた痕跡すら、まるで消し去ってしまったように存在しなかった。
巨大な箱と化したそれの傍らで、瑠依は立ち止まった。
月光に彼女の銀色が照らされ、幻惑的な気配を帯びる。
そんな少女へ、遥は相対した。
「それが、皆森さんの金魚がいた水槽、なんだよね……?」
「そう。かなでにすくってもらった金魚が死んだ場所」
声色には感情が欠けていた。
「失ったものは、還らない。魔法少女の夢と同じ」
「ねえ、皆森さん」
遥は、深淵に呼びかける気持ちでその名を呼んだ。そうしなければ声が届かないと感じていた。
「魔法少女っていったいなんなの?」
かつて瑠依は、アトの言葉を継いで告げた。魔法少女のはじまりは、魔女の魔法であると。
そして彼女は、〈銀色の魔女〉と呼ばれている。
魔女でもあるから、魔法少女を傷つけられる。そう言われ、焼かれた耳に響いた音を憶えている。
「〈それ〉は境界だったと、伝えられている」
瑠依はぽつぽつと語り出した。
「世界のはじまりは、無すらも存在しない〈空〉だった。そこから有が生まれ、そのふたつを分ける境界……やがて魔女と呼称される存在が、魔法少女を生み出した」
彼女はその指先で水槽のふちをなぞった。
「魔女は〈空〉と有を切り分けているからこそ、存在しないものに名前をつけて、世界に新しい概念を生み出す力を持っていた。それは魔法と呼ばれた」
その指先が水槽のなかへ落ちる。金魚が現れた。飴だ。魔法で隠していたのだろう。
空疎な光景だった。行っている瑠依自身も価値を感じていないように、瞳がひどく冷え切っている。
「魔女の魔法は世界に意味を贈る。魔法少女は世界に贈られた希望だった」
紡ぐ言葉に温度はない。
「その希望によって、あるひとつの災厄が閉じ込められる――魔女は〈空〉の化身として存在を侵され、世界の敵として、この世界を有の存在しない〈空〉に還そうとしていた」
手のなかの飴が消失した。
水槽には、空に見える手のひらだけがあった。
「魔法少女は世界を希望で描き変え、〈空〉の世界を退けた。境界は魔女自身が錠となることで固く閉ざされた。そうして世界には、夢見る希望で世界を描き変える、少女の魔法だけが残った」
少女の魔法は夢と希望でできている。
希望こそが魔法少女であり、夢見るままに世界を描き変える。
「魔女が生み出した存在だから、魔女はその定義を描き変えて傷つけることができる」
「じゃあ、皆森さんはなんで魔女なんて呼ばれてるの?」
「お伽噺を信じて、この世界を〈空〉に還そうとした人たちの夢が結実した、境界を開く銀色の鍵」
背後で悲鳴のような音がした。肩越しに見ると、どういった機序が、風を感じなかったのに扉が閉まっていた。
「それが瑠依」
遥はこわばる頬を自覚しながら、向き直る。目に映るその色を口にした。
「だから、〈銀色の魔女〉」
「納得した」
「いや、そしたら〈失望〉っていったいなんなの?」
「魔女は〈空〉に侵されていたから、魔法少女を生み出した。その魔法もまた〈空〉に侵されていた。希望を失った魔法少女は魔法を失うだけのはずが、〈失貌〉して、魔法少女の希望を奪う存在に落ちた。だから、何もない空虚」
「じゃあ、契約の印って言うのは」
「一方的に押しつけられる烙印。〈空〉の影響の名残り」
「アトはなんなの?」
「わからない」
瑠依は水槽から手を離して、腕をおろした。
「〈空〉も魔女も、こちら側には干渉できない。アトがどうして魔法を授けることができるのか、瑠依は知らない。でも、仮説は立てられる」
その腕の先、月の光に伸びた影は沈黙を保っていた。
「境界から動けない魔女の化身。〈失望〉と一緒。自分の世界の外側に干渉するための手。それがアト」
「……そっか、もし境界が開かれたら、魔法少女が必要だから」
「アトは、与えられた役割を果たしているだけ」
なら、と据わった目つきで瑠依は言った。
「かなでの〈失貌〉はだれのせい?」
その視線に射すくめられて、遥は表情を歪ませた。
「希望は永遠らしい」
辞書をなぞるように瑠依はつぶやいた。
「だったらなぜ、かなでは希望を失った?」
藍の瞳は、深海のような底知れなさを思わせた。光のなかにいるからこそ、それはひときわ強調された。
「どうして瑠依は生きている?」
「どうしてって……皆森さんが生きているからでしょう」
「違う! 瑠依の命は、かなでが夢を叶えるための道具。それ以外に意味はない」
「なんで……? 奏に生き方を教えてもらったからって、生まれたときから、それは皆森さんのものでしょう」
「瑠依の命はかなでから与えられたもの。瑠依のものではない」
「奏は〈失貌〉した。だから〈失望〉になって、わたしたちが討ったんだ」
「……奏の希望は、失われていた」
ぼんやりとしていた瑠依の瞳が、一点に結ばれる。
その焦点は、遥を捉えていた。
「かなでが〈失貌〉するなんておかしい。希望を失った魔法少女の姿をだれよりも知っている。救済か、自分の命を絶つ――それを止めただれかがいた」
遥は半歩、後ずさっていた。
逃がさないとばかりに瑠依は歩み寄る。
「止めたのは、空閑遥。だからかなでは、〈失貌〉するまで救済を止めなかった。叶わないと知った夢を、追い続けた」
遥の視界がくらくらと揺れる。
「かなでが望んだなら、受け入れられた。かなでの死だって……〈失望〉だって」
瑠依の姿が淡く光った。
一歩、進むたびに魔法少女のコスチュームがあらわになっていく。
「けど、かなでを〈失貌〉させたのは、空閑遥だ」
「……ぁ」
喉が震えて、遥は声が出なかった。
〈失望〉の姿を思い出す。
あらゆる苦役を一身に与えられたような、無残な姿を。
本来ならばそうはならなかったはずなのに、遥のせいで奏を辱めた。
アスファルトに脳漿をぶちまけたほうが、はるかに美しいままでいられたと、遥自身が納得していた。
「わたしは、奏に生きて、ほしくて」
「その末路があれだ。空閑遥の言う生きるということは、命も体も失って、ただ希望を失わせる呪いになること?」
何も言えなかった。
「だれの夢も叶わずに終わった。……そんな夢なら、初めから望まなければよかった。望むから、失う」
遥の眼前に、ステッキが差し向けられる。
「そう、望むから……ならこれも、無駄か」
熱に浮かされるようにひとり呟いた瑠依は、記憶を探るように天井を見上げた。
「瑠依も、空閑遥も、かなでのように上手にはできない」
そう言って瑠依はふわりと浮かび上がる。
それを追おうと駆け出す遥の機先を制するものが撃ち放たれた。
銀色の一条が遥の耳を焼く。
それは空から降る、一筋の流れ星に見えた。
瑠依と遥ですくったスーパーボールだ。
炙りつける音に、一瞬遅れて汗が流れ出た。
「脅しはもう、ないのね……」
「さようなら。二度と会うことはない」
窓ガラスが溶けるようにたわみ、瑠依はそこへ吸い込まれるように身をひるがえした。
窓枠を越えて、外の世界へ。ガラスの穴は消失していた。
妖精が舞うかのような幻惑的な飛び方で、瑠依は夜空の向こうへと消え去った。
それを止めようとすらできないのは、空を飛べないからではなかった。
空を飛ぶ姿に、目を奪われたからだ。
「わたしは、それでも……」
つぶやきは、彼方へは届かず。
あらゆる出来事が手遅れになった予感だけが、胸のなかをざわつかせた。
それが杞憂でないとどこかで理解しながら、遥は静かにしゃがみ込む。
跳ねることなく、床に落ちたスーパーボールを引き抜いた。
瑠依の魔法でところどころが溶けていて、ボールと呼ぶにはいささか不格好な姿だった。
跳ねることはできず、かたちも失った。
機能を果たすことのできないそれの名前は、いったいなんなのか。
似た存在を遥は知っていた。
「見てるんでしょ、アト」
「どこにでもいるさ、ボクは」
遥はスーパーボールを懐にしまいながら、声がするほうへ向いた。
差し込む月光に伸びた影から、一匹の猫がしゃぼん玉のように浮かび上がる。
「皆森さんは希望を失ってなかったよ」
「きみとよく似ていると、言ったはずだよ」
「わたしは消えかかったけど……」
遥には失いたくない願いだけがあった。
ならば瑠依は、
「皆森さんには、夢も希望もない?」
「少女の魔法は夢と希望でできている。その法則はやぶれない」
アトはそう唱えるように言って、
「例外があるとしたら、それは――」
ぽつり、と頬に温度を感じた。
天井を見上げると、ぽつぽつと垂れてくるものがあった。
雨漏りのようだと思った。
窓に目を向けると、その表面をしずくがつたっていた。
雨が降っていた。
やけに重苦しい銀色のしずくが、垂れ下がるように降りそそぐ。
そんな光景とは裏腹に、雨粒は床に落ちると軽やかに跳ねた。ころころ飴玉のよう。しかし、音を嫌っているのか。地面を叩く音はなく、辺り一帯の音すら吸い込んでいるような静寂を生んでいた。
肌に、痛みやかゆみなどの違和感はない。ただ、滴り落ちるしずくが粘度を伴っているのが、感覚的な不快を掻き立てる。
見上げた空には、作り物じみた綿菓子のような雲が広がっていた。
月も覆い隠して、辺りはすっかり薄暗い。
「――ああ」
と、遥は思った。
緩やかに肌の上を滑り落ちる雨粒が、指先で留まる。
溶けた飴が固まっていくように、じわじわと体が侵されていく。
どろどろの飴は、しかし熱はなく、逆に体温を奪われるほどに冷たかった。それが関節にしみる。
ぽっかりと胸のあたりから生まれる空虚に意識が落ちていく。
「そっか。皆森さん……」
変身しようと試みるも、星の一片すら舞わない。
頭の片隅に予感はあった。
今の遥は、どうなりたいかも、どうしたいかも見つけられていない。
だから、それを叶えるための姿に変わることができない。
望んだ通りに世界を描き変えることができない。
「〈失望〉じゃないよね」
抗うことをやめた遥は、飴の雨に打たれながら考えた。
希望を羨んで手を伸ばしているわけではない。一方的に空から降りそそぐしずくは、まるで天からの贈り物だ。
失望という言葉が、雨となって降りそそぐ。
世界に意味を贈る存在。
それをなんと呼ぶか、遥は教わった。
「魔女になったんだね」
全身が飴に包まれる。
暗がりに落ちた意識では、呼吸の仕方すら思い出せない。
だから、そのつぶやきはだれの耳にも届かない。
「ねぇ、これはだれの希望が失われたの……皆森さん……?」
希望を灯す星は、輝きを失う。
遥の心から希望が途絶えていく。
閉じる視界に、やはり星の明かりは見えなかった。




