1.悪夢
※自殺・流血表現があります。ご注意ください。
「セシリア、私は君に失望したよ」
煌々と輝く巨大なシャンデリアの下、華やかな衣装を身にまとった男女が重々しい雰囲気で対峙していた。悲壮な面持ちで吐き出された男の言葉に、女はいぶかしげな表情で尋ねる。
「…殿下?いきなりどうしたんですの?」
ここは国中の貴族が集まる社交界。白と金を基調とした荘厳な宮殿の広間で、艶やかな姿をした男女が豪華な料理を取り囲み、交流を楽しむ場所。
そんな優美な場で、突如突き付けられた男の言葉を女は理解できなかった。
「とぼけないでくれ。これまでずっと我慢してきたが、君の行いは目に余る。私は君のような悪女と婚約者であることが我慢ならない」
「…何ですって?」
周囲の視線が自分たちに集まる。大勢の前でいきなり侮辱を浴びせられ、女は顔が熱くなるのを感じた。羞恥に悶える女の様子を目にも留めず、男は力強く言葉を続ける。
「セシリア・ハードウェル、私は今ここで君との婚約を破棄することを宣言する!そして、君の代わりにマリア・ゲードリッヒ令嬢を新たな婚約者とすることをここに誓う!」
男は高らかにそう叫ぶと、隣にいた少女を抱き寄せた。琥珀色の髪を持つその少女は、目の前の王太子が気にかけている人物だ。透き通るような金色の髪である王太子と琥珀色の髪の少女は並ぶと絵になる。その光景を見るたびに女の腹にはふつふつと黒いものが沸き上がった。
それに加えて先ほどの身勝手で屈辱的な男の宣言だ。女の怒りは沸点に達した。
「いきなり何をおっしゃいますの!?私たちの婚約は家同士が決めた正式な契約!勝手に破棄することはできないはずですわ!」
お互いに愛のない政略的な婚約。貴族の世界ではそれは当たり前のことだった。
「そのことなら心配ない。既に君の両親には話をつけてある。国王である父上にも了承をいただいた」
「そんなの信じられませんわ!お父様は私を婚約者にすることにあそこまで執着されていたもの!婚約破棄を受け入れるはずがない!」
女の両親は娘を王太子の妃とするために、幼いころから厳しい教育を施してきた。女はそれに応えるため努力をしてきたのだ。苦労して手に入れた婚約者という座。彼女の両親がそれを手放させるなんて信じがたいことだった。
「いいや、君のご両親は受け入れてくれた。契約書ならここにある。君のご両親の筆跡は君が一番知っているだろう」
「そんな…」
そこには鋭く書きつけられた文字が並んでいた。間違いようもない。女が幼少期から見てきた父親の字だった。
「君はご両親にも見捨てられたんだ。当然だろう。それだけ酷いことを君はしてきたんだ」
周囲のざわめきが聞こえる。驚愕する者、嫌悪を浮かべる者、罵倒する者。反応は人ぞれぞれだった。
「殿下はなにか勘違いをしていらっしゃいますわ!私は真っ当なことをしただけです!先に私を裏切ったのは殿下ではございませんか!」
「裏切った?…私が、君を?」
女の言葉に男は表情を曇らせる。蒼い瞳には軽蔑の光が宿っていた。
「そうですわ!私という婚約者を持ちながら、平民出身のマリアを傍に置いていたではありませんか!私はそれを牽制しただけですわ!」
「牽制?…彼女の命を脅かすことが牽制?あれは牽制の域を超えている」
男の発言に女は断固として首を横に振る。
「アリアの命など私は狙っておりません。あくまで私は婚約者のいる殿下に平民出身の男爵令嬢にすぎないあなたが近づくべきではないとお伝えしただけですわ!」
堂々と己の無実を述べる女に、男の向ける視線はさらに鋭くなった。
「では、これまでの事件はどうやって証明する?やっていないならその証明もできるはずだ!」
「それは…」
急に言い淀んだ女の様子に、男は口角を上げる。
「ふん。証明できぬのだろう?それはそうだろうな。全て君がやったことなのだから」
「…っ!」
女は唇を噛みしめ、鋭く光る瞳孔を男に向けた。そんな女の様子に男は呆れた視線を送ると言葉をつづけた。
「もういい。既に婚約破棄が成立した今、お前に用はない。こちらで選択肢を用意した。好きな方を選べ」
「…選択肢?」
女の怪しむような声に男は静かに頷く。
「ああ。選択肢は2つだ。この国ではないどこか遠い国で暮らすか、ここで自害するか、だ」
「っ…!」
それは実質の死刑宣告であった。遠い国で暮らすなど聞こえはいいが、己の服すら洗ったこともないような貴族令嬢が未開の地で生きていくことなど不可能である。女の答えは一つしかなかった。
「…します」
「…何?」
「自害いたします!今、ここで!」
女の生き方は最後まで真っすぐだった。きっぱりと己の選んだ選択肢を叫んだ彼女に、男は僅かに目を見開いた。
「…その頑固なところは最後まで変わらぬのだな」
「セシリア様…」
男の隣にいた少女は悲痛な声で女の名を呼んだ。男はそんな少女にそっと肩に手を置き告げる。
「構うな、マリア。あいつは自ら死を選んだのだ。きっと思うところがあるのだろう。楽にしなせてやれ」
「…っ!」
男は戸の近くにいた衛兵に視線を送り、声を張り上げた。
「衛兵!今すぐ用意を!」
「「「は!」」」
王太子である彼の命令に衛兵は一斉に動き出す。会場のざわめきはさらに酷くなった。
女は綺麗にまとめられた自分の髪に手を伸ばす。そして、金色に輝く簪を思いっきり引きぬいた。長い髪が宙を舞いながら落ちてゆく。
突然の女の行動に周囲は息を飲むように静かになった。
女は引き抜いた簪を持つ手に力を籠めると、勢いよく己の首筋にそれを突きたてた。
「キャーッ!」
飛び散る赤い液体。あまりの悲惨な光景に会場は悲鳴に包まれた。
紅にそまる視界の中で、女は誰かが自分の名前を叫ぶのを聞いた。空気を切り裂くような悲痛なその叫びは、心から自分を惜しんでくれていて、その親しみのある声だけが彼女の最後の後悔であった。