序章 七話 『黒衣の王』
叫ぶ。もはや獣の咆哮と遜色ないほどの、心の底からの叫び。それ真正面から浴びて、対峙する黒衣の男は表情を歪める。
「ああ、そういう。なんともまあ、悪趣味な仕掛けだな」
「──せ……」
「まあ、それにすんなりかかったという事実の方が笑えるが」
「──返せっ!!!!」
ミツキは怒りのままに右手を伸ばし魔力を放つ。直後、体から魔力が失われる感覚。二度目のそれを、今度ははっきりとした自覚を持って受け止める。
「──お、うぇ」
吐き気がする。魔力が失われることに対してではなく。その身にもう、奇跡がないことを、否が応でも知らしめてくる。そのことに、心が、体が、ついていかない。
「児戯だな。魔法の使い方も知らんのか」
魔弾が命中する直前、男は右手を横に振るう。すると、
「なに……あれ……あたしあんな魔法知らない……!」
黒──形容するとすればそうとしかいえないナニカがベールを形成。ミツキの魔弾をことごとく飲み込む。弾くわけでも、受け止めるわけでもなく、魔弾は静かにその中へと消えていった。
魔法使いの母からその知識を授けられたゲルダ。彼女をして知らないと言わしめる現象を目の当たりにした。カイが驚愕したのはその特異性。同時に分析する。あれの正体。
「魔法じゃないのか……?」
「いい思考だ。その判断で間違いはない。若いが優秀だ。すぐにでも欲しいほどに──こちらと、違ってな」
「返せ! 返せよ!! それは!」
通じない魔弾を撃ち続ける。冷静さを失ったミツキは、いつもの感覚で魔力の放出を続ける。その身にない事実を、受け止めてなお止まらない。
「だからと言って、何か教える義理はないが」
一度目のベールが消失したのち、再び右手を大きく振るい強固な黒を作り出す。雑多に撃ち込まれる魔弾は、円形状のそれにまばらに当たっては吸い込まれていく。
「! だめ! ミツキくんそれ以上はだめだよ!」
──ダレカがナニカしゃべっている。そんなことはかんけいない。いまやらなきゃいけないのは。
「貴様が今やるべきは、そんなことか? 『外套の魔道士』。いや、もはやそれは」
「う──おえ!!っは、はあ」
「死んだ、か。残ったのは残り滓一人。つまらん幕切れだな」
再度の吐き気。先のそれとは異なる、体が発するアラート。魔力の過剰放出に対する防衛反応が、ミツキの暴走に待ったをかける。
「そのまま静かにしていろ」
男は黒を鎖のように形成し、ミツキの体に巻き付くように操る。
「だまれ、うるさい、くそ、くそ、くそ!!」
ミツキは不調に構わず魔弾を放とうとするが、できない。なぜかわからないが、微かに残っているはずの魔力が使えない。
「なんで、なんでなんでなんで!! なんでお前が!」
「……試し打ちだな…」
手のひらを構え、照準を合わせる。流れ込んでくる情報に任せ、何の苦もなく放つ。
「『苦克上塗』」
手に入れた力。対照は三人。野放しにしていれば、噛み付いてくる畜生。その飼い主も含めて、まとめて飲み込む。
「う、あ、あ」
「あ、や……これ、やだ、やだやだやだや、だ……!」
「これ、くそ、ゲルダ……!」
──恐怖。
恐怖、恐怖、恐怖。
恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖。
三人の脳内に、心に、あらゆる感情を上書きするほどの恐怖を植え付ける。
「なるほど、流れ込んでくる情報は正しいもののようだ。どこの馬の骨かはわからんが、この仕事には敬意を払ってやらんこともない。それ以外の全てが気に入らんがな」
ゲルダは頭を抱えうずくまる。ただでさえ他者への恐怖を抱きやすい彼女。その恐怖に、五感を働かせることすらできていない。
カイはゲルダを庇うために這い寄る。恐怖から自分の身を守るよりも、彼女を守ることを優先した。本来であればあり得ないはずの反応。二人の絆は、神の奇跡にすらかろうじて抗ってみせた。それでも途中で力つき、同様にうずくまる。
「悪くない。使いようによっては有用だ。オレには不要かと思ったが。軍の指揮を統一するためにでも使うか」
「はっ、はっ、はっ、はっ、はぁっ」
「──ほう、まだそんな目ができるか」
──恐怖。
恐怖、恐怖、憤怒。
絶望、渇望、焦燥、敵意、怒り、憤り。
──憎い。眼前の敵が憎い。全てを奪った誰かが憎い。またしても与えられた困難が憎い。
──みすみす失わせた、自分自身が憎い。
「そうか、『返せ』というのもあながち冗談ではなさそうだ。笑えないとは思っていたが、あの五つ、全てが貴様のものだとはな。流石に恐れ入った。『外套の魔道士』には、オレが来るだけの価値があったようだ」
「返せ! げほっ、は、はぁ……それは!! ご、ごほっ……は、あ……俺、の、だ!!!」
叫ぶ。声が枯れようとも構わずに。植え付けられた恐怖を、忘れ難い怒りの感情で押さえつけながら。
叫ぶ。身体の不調を押し込んで。縋り付いているそれが、自分がかつて嫌悪していた奇跡と知りながら。
「貴様が本来の持ち主が故か、うまく奇跡が働かんようだな」
──仕方ないか。
そう言って、男は黒を生む。先ほどまでとはレベルの違う密度。適当に広げられたベールではなく、明確な形を持って男の手元に集まっていく。
──それは、剣か、槍か。はたまたそれ以外の何かか。分かるのは、命を絶つこと以外役に立たないだろうこと。それだけの、刃が生まれた。
「流石に目障りだ。これ以上無様を晒すなよ。それはオレだけでなく、『外套の魔道士』への侮辱だ」
殺意の塊。防御を許さない断魔の装い。ただでさえ魔力による防御が封じられているミツキに対して、過剰とも思える攻勢をとる。
「ここで幕を引いておけ、亡霊」
振り下ろされる刃に、なすすべもなく──
「なんのつもりだ、貴様には手を出すつもりはないが」
「や、やめ……て……はぁ、ふ、ぅう、う、ぁ」
息も絶え絶えに立ち上がる。込み上げる吐き気に、抗い難い恐怖に苛まれながら。震える身体を無理やり叩き起こし、少女はミツキを庇うように前に出た。
「……」
「たすけて、くれた……から。はあ、ぁ、ぼろぼろになって、っぅぅぁ……」
「ゲルダ……無茶は……しないで……僕が……いく、から……」
ついでカイも立ちあがろうとするが震える足に力を入れることができず崩れていく。
「いや、って突き飛ばして……拒絶して……それでもやさしくって……」
徐々に語気がはっきりしてくる。虚だった目には強い光が灯り、目の前の恐怖を真っ直ぐと見据える。
「……それで? だから見逃せと?」
「やめろ、ゲルダ、俺が、悪かった……から。間違ってた……逃げよう……逃げて……二人だけでも……頼むから……」
虚だった目に光が映る。強く荒々しかった語気は見る影もない。視界に映っていた怨敵はもはや眼中になく、目の前の少女と、倒れ伏せる少年のことだけを考える。
出会ったばかりのミツキにここまでしてくれる。そんな彼女に、我を忘れる怒りを、忘れる。
「何も返せてあげれて無いの。救って貰った命に、釣り合うくらいのもの。これくらいしかないから」
「違う……違うんだ……俺はもう、キミから……」
──貰ってる。
そう言いかけて言葉が詰まる。貰ったものが、確かにあるはずのそれが、光に隠れてうまく見えない。
「……」
黒衣の男は黙って見据える。目の前の子供たちが、いったい何を成し得るのか。代わりとなりそうな成果を、見極めるために。
「今度は、あたしの番だから」
「「ゲルダ!!」」
瞬間、規格外の魔力が集まる。魔力は冷気に、冷気は、やがて氷に。彼女を中心に前方へと氷結範囲を構成する。
「──! そうくるか!! これならばオレにも消せん!!」
規格外の魔力が集まる。術者すら食い破るほどの魔力の奔流。それが起こすは想像の具現。絶対零度、万物の活動を否定する最上の一手。
「──」
口にした音はもはや聞こえず。魔力の奔流は轟音を伴い、世界を最果てに至らしめんとする。神にも届きうる氷の玉座。その完成が近づく。
──彼女すらも巻き込んで、勝利をもたらす神域の御業が。
しかし。
「──あ」
ゲルダの小さな身体から突如力が抜け、その場にすとんと座り込む。同時に、集まっていた魔力が突如として霧散し、神技の完成が阻まれる。
「──そうか。この奇跡は本来……」
男は左手をかざしたまましばらく思案する。そして、再び三人へと向き直り、告げる。
「お前の勝ちだ、小娘……いや──ゲルダ。ここは引き下がる」
「ゲルダ……! ゲルダ! 生きて……」
「ごめん……なんだか急に……ホッとして……変になって……」
男が植え付けたのは、『安心感』。感情の急変化は魔力操作と想像の精密さを欠かせ、ゲルダの特攻を止めた。
「──もう一度聞く。貴様が今やるべきは何だ──ミツキ」
「俺……は……」
男は黒衣を翻し去っていく。無防備なその後ろ姿。ミツキの体からはいつの間にか黒の鎖は消えている。狙えば、必ず、仕留められる。
「……」
「ご、めん……ごめんね……ミツキくん……」
泣き出しそうな声。恐怖や急な安心によるものとは異なる。彼から失わせたことへの罪悪感。
彼の姿に、その感情が膨れ上がる。そんなこと、いつもの彼なら分かる話だった。
「あ、あたしが……いた、から。ミツキくんは……」
「それなら僕だって……ゲルダの、姉さんのせいじゃ、ない……」
「──」
助けようと思った二人。救ったはずの二人。この世界で、代え難い信頼が、親愛が、芽生えていたはずの二人。
見落としていた。見逃していた。無視していた。見ないふりをしていた、聞こえないようにしていた。
──何よりもそれが無様だと、奴に言われるまで気が付かなかった。
「──い、こう」
震えた声で語りかける。
「──だい、じょうぶ、だから」
ついに泣き出してしまった二人を見ないで済むように、下手くそな笑顔を作りながら。
「──だいじょうぶ、だから」
涙も、言うべきはずの言葉も、どちらもうまく出てこない。そんなこともお構いなしで、ミツキは二人を連れて歩き出した。
星の光は、見えない。