序章 五話 『流星はソラに輝く』
薄暗い空間、地上とは一線を画した重苦しさの残る霊廟の地下。一頭と一人がぶつかり合う。壁に掲げられた灯火。その薄明かりだけが世界を照らす。
一頭、三つ首の獅子はその巨躯を大きく唸らせ前足にて眼前の敵を薙ぎ払わんとする。
その一撃は空気を纏い、かまいたちさえ起こしながら小さき少年に振るわれる。当たれば塵すら残るまい。そんな破壊の権化が、たった一人に対して見舞われる。獅子に油断はない。その少年が内に秘める神域の可能性を、見極め理解し砕き尽くす。
一人、まだ少年と形容すべきもの。名はミツキ。そんな小さきものが迎え撃つ。ほんの数日前まで戦いとは縁のない日常を過ごしていたはずの彼。彼が対峙するのはこの世界においても数多のものが恐怖する神造の怪物。そんな規格外の死の塊に対し一切の恐怖も抱いていない。
背後には小さな兄妹が。ぼろぼろの姿で怯え続ける二人を背中に、恐怖を振り払う。負けられないと己を鼓舞する。
ミツキは前に手をかざし、その先に魔力を集中させる。鼓動するように力が集まると、それは彼の掌に光の球となって現れた。紡がれるは光の塊。暗闇を照らす絶黒の白。
安定した魔力は、少年の意思で指向性を帯びる。神々しい灯は裏腹の破壊をその身に宿す。魔力は爆発的な力によって空間の歪みを引き起こした後、一条の光線となって怪物へ向かった。
本来、その外皮はただの魔力弾など意に介さないほど強靭。怪物はそれを正面から跳ね返し、そのままミツキの命を奪う。
──はずだった。
しかし、その魔力の密度は想定の埒外にある。魔力弾などと誰が思おうか。それはまさしく砲の如く。空気を抉る音が、静寂の残る地下の空間にじんと響いた。
魔法に至らないただの魔力の塊は、しかしそれだけで怪物の外皮を削り取る。
彼は世界で唯一、無限の魔力を身に宿す。それを十全に扱い溜められた魔力。魔法に至らない、ただの魔力の塊でしかないはずの幼稚な技術。しかしそれだけで、怪物の外皮を削り取った。神に与えられたはずの絶対防御を貫く例外中の例外。それこそがミツキである。
獅子は長らく味わっていなかった痛みという概念に困惑。その後、激昂する。
「■■■■■■──!!」
咆哮。恐らく痛みに悶える声であろうそれを放ちながら、再び少年を見据える。獅子は既に、彼を蹂躙すべき弱者ではなく、自分の敵と見定めていた。にもかかわらず攻撃を容易く通されたことで、警戒をもう一段階引き上げる。もはやそれが自分と対等か、ひょっとすれば、それ以上か。その事実でも獅子の矜持は崩れない。それどころか、宿敵の誕生にどことない幸福すらも感じているようだった。
「■■■■──!!」
笑う。そんな感情は持たされていないはずなのに。
嗤う。表情は変化させずとも、誰の目にも明らかなほどに。
「マジかよ……流石に腕の一本二本は奪えたと思ったんだけど……」
対するミツキ。彼は右手に溜めていた魔力を全て放った。しかし、獅子の体躯に大きな変化はない。再度同じ量を充填するには時間がかかる。余裕はない。
後ろにいる二人の兄妹を見遣る。獅子の目にはすでに映っていないそれらを、少年は問題なしと放置できない。空間跳躍を繰り返し翻弄する間に魔力を貯めることも可能。だがその選択肢は封じられている。庇うべき存在は、今もまだ彼の後ろに。
「大丈夫」
笑う。そんなピンチにも関わらず。
嗤う。身に迫る恐怖を振り払うように、心配いらないと告げるように。
攻防が始まる。
獅子は巨躯、速度は知れている。そんな考えを吹き飛ばすような速度でミツキに迫る。前腕での薙ぎ。空気の圧を伴ってこれが襲い掛かる。鋭く研ぎ澄まされた爪は、容易に人間の命を奪うだろう。
「っづ……! あぁっっっ!」
これをミツキは寸でのところで躱す。否、躱しきれずに肌を掠める。出血箇所を手で抑えながらごろごろと右に転がると、すぐさま立ち上がり警戒体制を整える。
本来ならばなんてことなく躱せたはずの攻撃。それを受ける。獅子の視界に常に収まり続けるために、跳躍を封印し、泥臭い戦いを自らに強いる。
「──っ! ……くそ……魔法の使い方、ちゃんと聞いとくべきだった……!」
治癒魔法はまだ使えない。しかたなく傷口に魔力を通し無理やり止血しようと図るが、あまりの激痛に視界が一瞬揺らぐ。
その一瞬で獅子は追撃。前腕による叩き潰すような一撃。押さえ込み、食いちぎることを意図した連撃の狼煙。
「っのヤロウ……!」
ミツキは溜めた魔力の一部を解放し、攻撃に対し斜め方向にそれを打ち込む。皮膚を抉るほどの威力はない。しかし空に構えられた前腕は、食いしばることもできず軌道が逸れる。腕は、ミツキのすぐ横の地面へと着弾した。
「つっ……いってえな、ちくしょう……!」
それでも、破壊の余波、粉塵とそれに紛れる岩石の雨は消しきれない。幸運だったのは、位置を調整したおかげで兄妹にその余波が向かわないということ。ミツキは魔力を温存し甘んじてこれを受ける。
「ふぅ……はぁ……よし、そろそろ」
攻撃が続く。ミツキはこれを最小限の魔力でいなし続ける。少しずつ、少しずつ、肉体は損傷する。血液は流れ、痛みに精神が摩耗する。一度体験した死の感触。それがじわじわと首に手をかけ始めた気配を感じ取る。
それでも、少しずつ。少しずつではあるが魔力は充填されていく。右腕に込めた魔力は、すでに輝きを抑えることができない。眼前の獅子、その命に届くだけの魔力が溜まろうとしていた。
「■■■■■■■■──!」
「っ……! マズい……!」
鼓膜を裂くような咆哮が放たれた。同時に大量の魔力が獅子の口、その先の交差する一点に集まる。どす黒い魔力は、ミツキの集めたそれを塗り潰す勢いで膨れ上がる。これこそが奥の手。魔力で構成された自身の肉体を消費して放つ咆哮。本来であれば竜種でなければ成し得ないほどの絶技。それを放つ構えをとる。
ミツキはその前兆をいち早くキャッチし、回避の判断を──
「──いや、だめだ」
そして気づく。その咆哮が与える影響に。地下という環境。この咆哮が奪うのは人命のみにあらず。空間すら破壊し尽くすその力は、躱したところで安心とはいかない。
霊廟の崩壊。その危険性を認識すると、彼は獅子の正面に躍り出る。
自分が逃げられたとしても、動くことのできないあの二人は? 当然、崩壊する霊廟に押し潰されてその短い生を終えるだろう。
──それだけは、見過ごせない。
「! 危ない!」
少女の声がした。ミツキを拒絶していたはずの彼女がミツキの身を案じる。先程とは異なる、心から他人を慮る柔らかい響き。叫びの中にも、優しさの音は消えることなく主張する。
それこそが、少女の本質だったのだろう。
「! ……ありがとう」
ミツキはそのことに安堵する。他人に心を開かなかった少女が自分の身を案じたことに。そして、その少女が、他人の身を案じられるほどの善人であったことに。
──助けに来られて良かった。
心からそう思う。
「■■■■■■!!」
「おおおおぉぉ!!」
瞬間、咆哮、迸る混沌、魔力の渦。
刹那、光明、流れ走る一条の流星。
両者がぶつかり合い、数秒、鍔迫り合いの後。
炸裂。部屋の中心でぶつかるよう計算したことで、それは地下の岩壁をわずかに削るにとどまった。
しかし。
「ふう……」
右手に魔力はもうない。再度の溜め直しを余儀なくされる。
魔獣に許された限りある知性と本能。そこから絞り出した勝利への一手。これによって、獅子の賭けにも等しい戦術は成功する。
「賢いライオンだよ、ほんと」
ミツキが身に宿すは無限の魔力。さまざまな奇跡があるが、特筆すべきはこの一点だろう。
逆に言えば、それだけ。魔力だけが無制限。
「あいつももう撃てないだろうけど……それで十分ってことか」
傷を負えば血液が流れる。その量は有限。
痛みを知れば精神が削れる。限界は近い。
──詰み。
獅子の魔力も大半が消失したが、神より賜った特性は健在。その硬度は変わらない。必要なのは、それを貫くほどの魔力。溜めるには、足りないものが多すぎた。
「でも」
ミツキは諦めない。
「まだ、生きてる」
今度こそ、後悔しないために。
「なら」
助けられる命を、助けるために。
「できることを、全力で」
すがるように、自分の奇跡に手を伸ばした。
◇
「この世界における魔法、その原理自体は単純だ」
昔と今とで若干プロセスは異なるがね、とアダンは茶を淹れながら話す。
「想像。魔力を通じてそれをカタチにする。言ってしまえばそれだけのことなのだよ」
「じゃあ今、俺が目の前に火があるのを想像したら出るってことですか?」
ミツキは訊ねる。その通りならば、無限の魔力を有する自分は文字通り全能ではないだろうか。そんな期待をこめて。
「可能だね」
「よっしゃ! じゃあ」
──しかし、とアダンはいつものように続ける。
「個々人によって適性のある魔法は異なる。それは当人の持つ魔力自体の性質、『色』と呼ばれるものが関係している」
ミツキはその説明を聞くと、思い出したように声を出す。彼には一つ、心当たりがある。自分の可能性を拓く、そんな記憶が。
「それって確か」
「そう、キミにはこれにまつわる奇跡が備わっている」
──根源色。それこそがミツキにだけ許された力。英雄への鍵、その一つ。
「キミは自身に生来備わった火、光、そしてその混合色である雷に加えて、別途色を与えられた。原初の四色。火、水、風、そして土だ」
「火は被ってるから……全部で六色……これってすごいんですか、先生?」
純粋な疑問。生活に慣れ、常識を学んできたといえど、それがどれほどのことかはわからない。故に訊ねる。この世界では愚問とも思われる内容でも。
「当然だとも。通常、魔力の色は多くて二色。あったとしても三色だ。キミは元々、希少な色持ちということだね。その上おまけまで与えられている。大盤振る舞いだ」
笑顔を隠せないミツキを尻目にアダンは続ける。講義のスイッチが入っているようだ。
「キミの奇跡はそれに留まらない。キミの有する雷のように、色と色とが反応し、混ざり合い、全く別の色をなすことが稀にある」
知っている。ミツキは初日にそれにまつわる話を耳にした。直前まで浮かんでいた笑顔が消えていく。与えられたものの大きさが、今ようやく実感になった。
「かの英雄は、現存するあらゆる魔力の色だけでなく、他の魔力を塗りつぶす『空』色の魔力を有していたそうだ。キミであれば、失われたそれも再現できるかもしれないね」
ミツキは小さな部屋で、かろうじて聞き取れるような声で呟く。期待していたそれが、どこか重くのしかかるような気がしたから。
「万色融合」
「その通り。おめでとう、キミは全能に手が届く」
◇
「ぶっつけ本番は慣れてるよ……!」
数日前にした些細な会話。その内容を残らず思い出す。逆転の可能性。それを記憶から引き摺り出すために。
「魔力そのものに色があるなら、魔法は使えなくても……」
獅子の猛攻、前腕で薙ぐ。その牙で食らいつき、巨躯を生かして押し潰す。
全身全霊で躱す。魔力を集めることもせずに、今はただひたすらに躱す。その間も、自身の奇跡に手を伸ばす。
根源色、その原理。まず解明しなければならないのは、そこ。そこに第一の鍵がある。
「フィルターだ、多分」
奇跡を通して、自身の魔力の色を根源の四色に変質させる。躱しながら手の上でさまざまに魔力を生成する。代わる代わる周囲を照らす魔力は、虹をも想起させた。
「同時にいろんな色にもできそうだ、これなら時間はかからない」
「■■■■■■■■──!」
「しまっ……!」
咆哮。ただの音の塊。威力を伴わないそれによって、集中していた脳が一瞬揺らぐ。生じてしまった反応の遅れ。その結果、攻撃を許すことに。
「がっ!?」
前腕での薙ぎ払い。それが直撃した。常に魔力を通し強化している肉体でなければ粉砕していたであろう一撃。そうであっても、しばらくは動けないダメージを与えられた。
凄まじい速度で壁にぶつかったが、それでも思考は手放さない。前世の最期、その経験が生きたのか、頭を庇うことは成功する。
しかし動けない。獅子に油断はなく、全速力でミツキに向かう。
「ま……だ……」
掴みきれていない。どう混ぜるかは理解してきた。だが、どれを混ぜたらそうなるのか、見当がつかない。
死が迫る。逃れられないほどの速度。獅子が飛びつくその刹那。
「なっ……!」
暴風が獅子を弾き飛ばす。空中にあった巨躯はいともたやすく跳ね飛ばされ、ミツキから距離を取らされた。
「ごめんなさい。ずっと、何もしないで、見てた」
その暴風の出所、弓を構えた少年がそう語る。じっと動かないでいた、ずっと動けないでいた。その彼が、かろうじてミツキの命を繋ぐ。
「もう魔力は残ってないです! 今のうちに……っ!?」
だが足りない。獅子はすぐさま起き上がる。宿敵の命に手が届く。その瞬間が迫ることに重度の興奮状態に陥っている。風の矢を放った少年には一瞥すら与えず、最高速度で走り出す。
「あと……少し……」
混ぜ方はわかった。必要なものもわかった。何故、その二つが与えられたか。その意味から逆算する。
あと一歩、必要なのは純粋な質量。獅子の命を消しとばすだけの大きさが足りない。
時間が、足りない。
「■■■■■■■■──!」
「止まっ……!?」
時間が、止まる。足りない分を埋めるような、絶対の冷気。扉を開けた時に感じられたそれの正体。それが地を這うようにして眼前の獅子に向かい、その身体を氷で覆う。強靭な外皮も氷による足止めには無力。それを放つのは。
「おねがい! そんなにもたない!」
床に右手をつけ魔力を流すのは少女。一度、ミツキの手を拒んだ彼女が、その命を掴み留める。
「いける」
最後のピース。魔力が形を変え、色を変え、混ざり合う。
根源の四色。その全てを均等に。どの色も勝たないように。
──透明になるように。
獅子が動く。体を覆っていた氷を砕き、最後の一歩を踏み出さんとする。だが。
「俺の、いや」
『空』の魔力。退魔の魔力とも称される失われた秘術。一人を除いて持ちえなかった英雄の特権。ミツキの掌には、それと同じものがあった。
「俺たちの勝ちだ」
今日見せたどんな輝きよりも小さく、澄み切ったそれは。
獅子の体。魔力の塊たるそれを、文字通り消滅させた。
◇
「あ、れ……?」
「! 起きた! カイ! この人生きてる!」
少女が叫ぶ。
「だから大丈夫だって言ったでしょ。それにそんな騒ぐと」
「頭痛え……」
ほら、と少年が反省を促す。ミツキはこのやり取りで、自分が少女の膝を枕にして眠っていたことに気がついた。
「! ごめん! 俺どれくらい寝てた⁉︎」
ミツキは申し訳なさ半分、気恥ずかしさ半分で飛び退く。修羅場をくぐったといえどまだ17歳の少年。慣れない事態に赤面する。幸い、薄暗い地下なのでそのことは気づかれていないようだ。
「まだ寝てたほうがいいよ! あのあとすぐ気絶して、死んじゃったかと思った」
「お兄さん覚えてますか、あの怪物を倒したこと」
当然覚えている。記憶は鮮明。あの感触は忘れることができないほどに焼き付いている。達成感か。優越感か。どちらとも言えない幸福感が、身体を今も駆け巡る。
「僕はカイって言います、それでこっちが」
「ゲルダ! カイはあたしの弟なの!」
「……まあそんな感じです」
二人の印象から、ミツキは少年──カイの方を兄だと思っていたが、逆だったことに驚く。
快活なゲルダ、慎重なカイ。チグハグな二人だが無事だったことに安堵した。
「よかった……守れた……」
「あ……ごめんなさい……あたし、あなたのこと……」
ゲルダの声色が沈む。拒絶したこと。そして、戦えたのに最後まで手を出せなかったこと。恐らくこの二つを詫びているのだろう。カイも同様に頭を下げる。
「ううん、大丈夫。最後には助けられた。それにちゃんと生きてる。生きてたら、大丈夫」
ゲルダとカイは驚いたように顔を見合わせ、一言。
「「ありがとう」」
笑って、そう呟いた。
たった一言。当たり前に彼が受け取るべき言葉。でもその言葉だけで、ミツキは。
「──どういたしまして」
生きていてよかったと、そう思えた。