四章 十七話 『Dead Line』
「ダアト!? 死造神ダアトが、なんで、こんなところに……!?」
その名乗りだけであれば間に受けることはなかった。しかし、目の前で起きた現象が、受け入れることを余儀なくさせる。
彼女は魔獣を産み落とした。それも、一般には存在が認知されていないスフィンクスを。
「そうだ、みんな!!」
自警団員は全員、そのスフィンクスに囲まれている。その外皮は硬く、熱に弱いと言っても生半可な火力では効き目がない。そんな強敵が八体。とても彼らだけで対処できる相手ではなかった。
インカムの奥から罵声と絶叫がこだまする。ミツキはダアトへの警戒もよそに、一目散で彼らの救援に向かう。
「出力拡張……っ!?」
「ダメだよ? ボクをおいて行かないで? ほら、一緒に気持ちよくなろ?」
彼女はミツキを後ろから抱き止めるように捕らえた。その時、ミツキの首筋に、柔らかく温かい感触が走る。
「なっ!?」
ダアトが、彼の首筋に舌を這わせていた。黒い唾液が首に絡みつき、徐に形を結び始める。
「『魔吸茸』」
「ぐっ!?」
生まれたのは黒いキノコ。それはミツキの首筋に根を張った。
そして、
「が、あああっ!?」
「はは、すごいすごい!! こんなにおっきくなるんだね、ギンギンじゃん!!」
ミツキの体から魔力を吸い上げ、徐々に肥大化していく。吸えども吸えども尽きぬ魔力。キノコは永遠に魔力を吸い続ける。それに与えられた機能はそれだけ。止めることも抑えることもできない。一定の速度で吸い続け、己の体を肥大化させ続ける。
やがて、成長が止まった。拳ほどしかなかったそれは、人間の頭を軽く超える大きさになり、
「ばぁん。イっちゃえ」
破裂。轟音と胞子を撒き散らしてキノコは役目を終えた。
直撃すればひとたまりもない威力。仮に頭部へ当たれば瀕死になるだろう一撃だった。
「くっ……! こ、の……!!」
しかしミツキは破裂の寸前、自分の肉ごとキノコを切り出し、ぎりぎりで爆発から逃れた。
生じた土煙を利用しダアトから離れ、団員の援護に進む。
だが、それも無意味。地面から湧き上がるようにダアトは現れ、再びミツキの道を塞ぐ。
「逃げないでよ? まだできるでしょ? もう一回、しよ?」
「邪魔すんなよ……!! みんなを、助けないと!!」
届かない距離の先から、怒声にも似たディエスの指示が聞こえてくる。
「全員俺の後ろに下がれ!! 退避優先だ!! しんがりは俺がやる!! 傷を負ったやつは迷わず逃げろ!!」
今はディエスの指示でどうにか命を繋いでいるが、それもいつまで持つか解らない。ダアトと戦うよりも、救うことの方が重要だった。
「じゃあ、これは?」
ダアトは黒い液を両手で作った受け皿にため、一杯になってから地面にこぼす。黒い水溜まりは移動し、スフィンクスのいる場所まで行ってから変化した。
「『炎魔』。『テンペスト』」
彼女の言葉に呼応して、曖昧だった形がはっきりする。生まれたのは炎を纏った猿と、煙の塊。かつてゲルダとカイが戦ったそれらが、より強い形で現れた。
「新手!? クソ、相手する余裕なんてねえぞ!!」
ディエスの狼狽した声を聴き、ミツキは頭に血が上るのを感じ始める。
「団長!! みんなぁ!! ……お前ぇ!!」
「ほらほら、早くしないと」
インカムから音が響いた。絶え間ない絶叫と何かが燃える音。ひとしきり耳の奥で鳴り続けた後、嘘みたいに静かになった。
「──死んじゃうよ? ほら、もう一人死んじゃった」
「ふ、ざけんじゃ、ねえよっ!!」
彼女を無視すれば魔獣が生まれる。彼女の相手をすれば助けに行けない。絶望的なデッドロックに、ミツキはたまらず声を荒げる。
「何がしたい!! アンタの目的は何だ!! 俺が目的だってんなら、みんなを殺す必要なんてねえだろぉがっ!!」
「クソっ……クソぉ!! 俺が退路をこじ開ける!! だから、もう誰も死ぬんじゃねぇ!!」
「が……だん、ちょう……助け、て……!!」
団員がまた一人、息を亡くす。テンペストに掴まれ体を覆われた彼は、次第に息ができなくなり死んだ。体を震わせながら吐き出した声は、ぎりぎりミツキの耳に届いた。届いてしまった。
「……っ!! 全員インカム切れ!! これ以上、あいつに聞かせたら──っ!?」
ミツキの視界に戦況は映らない。蹂躙の景色が記憶に残らないのは、果たして幸運か不運か。彼は耳に残る断末魔だけ、これより先永劫忘れられない。
「何のため……? あはは、面白いこと聞くね? ──『死賜鐘』」
ダアトはまた新たな魔獣を生み出す。黒い液は地面に落ちる前に形を結んだ。重い音を立てて落ちたそれは、大きな鈴のような形だった。
「っ!?」
それが体を震わせると、けたたましい音が周囲に鳴り響く。思わず耳を塞いだミツキ。その音を遮ったとしても、彼の耳の中には別の音が轟いている。
何か硬いものが砕ける音がした。まるでスイカが割れるみたいに、砕けた中から液状のものが漏れる音がした。観測できる限り四つの音。その音が聞こえた直後、およそ人間が発するとは思えない怒声と悲鳴が。それから遅れて、四つ、何かが地面に倒れる音が聞こえた。
「──空想顕現」
その音で、ミツキの中で何かが切れた。通常時には不可能なはずの詠唱を唱える。ミラと戦ったあの日だけ許されたはずの力を、魔力球を二桁数使うことで再現する。
コストパフォーマンスは最悪。冷静な頭では選択しない愚策。間違いなく間違いである選択をとってしまうほど、彼の頭は熱を帯びていた。
──ミラすら手を焼いた力を使うほど、彼は目の前の死を憎み始めていた。
「絶界の剣!!!!」
空を焼き尽くすほどの熱量。ダアトと、その先にいるスフィンクスたちを殺し尽くす灼熱の剣。彼は目に炎を灯しながら、死の具現たちへそれ以上の死を放つ。
己を蝕んだミラにすら向けなかった殺意を向け、彼は神話を解き放つ。
「……なんだ、結局そんなもんか」
対するダアトは指を舐め、空中に唾液を振り撒いた。そして唱える。
「『火蜂』」
唾液はそれぞれが小さな虫に姿を変えた。赤い蜂のような魔獣は一斉に炎へ群がる。
たかが羽虫。神にすら届く力を前に、一体何の意味があろうか。
「──は?」
「ミラは真面目だからねー。真正面から戦ったでしょ? ほんとバカだよね? こうやって」
意味はある。そうでなければ、神が造り出すことなどあろうはずもない。
小さな蜂は一斉に炎の剣に群がると、あっという間にその火を喰らい尽くした。許容限界まで体に炎を蓄えた蜂は、剣の形がなくなると同時に一様に体を弾けさせる。
「アンチテーゼをぶつけちゃえばいいのに。だって、ボクたちは全能。カミサマなんだから」
世界はまた、まっさらな状態に戻る。焼ける怒りに脳を焦がしていたミツキも、圧倒的な能力に目を覚ます。冷静になる。なってしまう。
「キーン!! 馬鹿野郎、何で庇った!! 何して……待て、ウェッジ!! 冷静になれ!!」
「そうだ、さっきの質問何だっけ……ああ、そうだそうだ。『釣鳥』」
話しながらも、ダアトは魔獣の生成をやめない。それが生み出したのは青い鳥二匹。それらは生まれ落ちるとすぐに、スフィンクスたちのいる場所へ飛んでいった。
「どうして殺すのか、だっけ?」
「がああああああああ!!」
「ケイン!! この……ふざけんじゃ、ねえぞぉ!!」
鳥が上に飛び去っていく。それは一本の柔らかい何かを咥えていた。釣り上げるみたいに手繰り寄せ、身の丈に合わない質量を体に取り込むと、満足したのか命を散らした。
「キミ、サッカー好き? 確か好きだったよね?」
「はぁ!? 何の……話だよ……!!」
生み出した二本の炎を振るいながら、ダアトと会話を交わすミツキ。耳の中にはまだ絶叫が響いている。頭の中では、繰り返し繰り返し絶叫が鳴り響いている。
「じゃあケーキは? ステーキは? 好き?」
「だったら、何だってんだよ!! お前は何が言いたい!!」
激情に身を焼きながらも、ミツキは密かに感じていた。
ダアト本体は大した強さではない。のらりくらりとやり過ごされているが、幾度か攻撃はかすっている。ミラと比べれば一目瞭然。今の自分が戦える程度なら。
──殺せる。
「じゃあ、なんで?」
「はぁ!?」
「ねえ、何で食べるの? 何で練習したり、試合したりするの?」
「そんなの!!」
「そう。そうだよ。決まってるよね?」
ダアトは大きく腕を広げ、ミツキを迎え入れる体勢をとった。
ミツキは躊躇わない。二振の刀を思い切り振り、バツの字に彼女の体を切り裂いた。
「はぁ……はぁ……や、った……殺し、たぁ……みんな……」
「答えは簡単」
「っ!?」
確実に切り裂いた。初めての感触は今も手の中に残っている。ダアトは今、ミツキの手によって切り裂かれたはずだ。
しかし、彼女は再び現れる。ミツキの背後から、さっきまでと全く同じ姿で。
「──好きだから、だよ」
命を愚弄しながら、甘い声でミツキに語りかけてくる。
「別に食べなきゃ死んじゃうわけじゃない。スイーツもご馳走も、飢えを凌ぐのに必須じゃない。なのにみんな、分け合うこともなく食べるでしょ? 動物を殺してでも食べたいんでしょ?」
呆然とするミツキに腕を絡め、耳元で囁きかけてくる。淫美な雰囲気は、とても少女から発せられるものとは思えないほど妖艶で狂おしい。
「サッカーだっておんなじ。相手を負かしてでも試合に勝ちたいんでしょ? 泣かせてでも、将来の夢を諦めさせてでも自分が勝ちたいんでしょ? しょうがないよね? だって、どうしようもないくらいに好きなんだから」
「黙れ」
短刀を取り出し、彼女の首に突き立てた。まごうことなき赤い血が噴き出す。恍惚と体を震わせて、彼女は確かに息絶えた。
「おんなじだよ。ボクも、キミと、キミたちとおんなじ」
「喋るな」
殺しても殺しても、ダアトは再現なく沸き続ける。ミツキの背中にいた彼女の首は刎ねたはず。足に縋りついたそれは心臓を貫いたはず。今腕に絡みついてるそれも、確かに胴体を切り裂いたはず。
なのに、それは滅びない。また同じ姿で現れ、ミツキの情欲を煽るように絡みつく。
「好きだからじゃ、ダメ? キミたちはステーキを食べられるのに、ボクは食べちゃダメ? ケーキも? サッカーも? ボクだけ、仲間はずれ?」
唇と唇が触れそうな距離で、吐息が感じられるその距離で、彼女はミツキに語り聞かせる。温かく、甘い香りがした。蕩けそうなほど卑猥な音が全身に響いてきた。
「ダメじゃないよね? みんなが幸せの方がいいもんね? そんなひどいこと、言わないよね?」
あったはずの死体の山は、目を離した隙に消えて無くなっていた。夢だったのかと錯覚するほど、跡形もなく一瞬で。
「だからボクは殺すんだぁ。お腹が空いたからでも、生きるために必要だからでもない。それが一番、幸せだから」
小さい体が、ミツキをぎゅっと抱きしめる。耳元で囁く声には抗い難い引力があった。耳を塞ごうとしても拒めない、強い強制力があった。
「しょうがないよね。だって好きなんだもん。だから殺す。殺して殺して、最後の一人になるまで貪り殺す。他でもないボクが、最高に幸せになるために」
「……そうかよ」
「あっ……」
抱きついてきた彼女の腹に容赦なく短刀をねじ込んだ。彼女は小さく喘ぎ、仰向けでミツキを見つめたまま息絶える。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ミツキの掌には、殺した達成感ばかりが残っている。何度も何度も繰り返すことで、殺しへの嫌悪は薄れてしまっていた。
──また戻ってきたとしても殺す。生き返れば生き返るだけ殺す。滅びて消えてなくなるまで、休むことなく殺す。
疑問も抱かない。感傷もない。今まで自分が持ち続けてきた殺しへの忌避感がなくなったことに、彼は何の感慨も抱かない。
彼はこの短い時間で忘れてしまった。忘れるはずがない彼が、忘れ難い激情に飲み込まれ見失ってしまった。
「……?」
彼の足下に何か落ちる音がする。
それは小さな肉。ミツキの胴体くらいの大きさで、でも厚みは彼よりもっとずっとある。重厚な肉付きに、それが辿ってきた修練の跡が見える。
もっと大きかったはずだ。見上げるくらいの人だった。いつも導いてくれる。頼り甲斐のある背中だった。怖そうな見た目をしていながら、実は繊細な人だった。
約束があった。酌み交わすはずの盃があった。忘れていた。何のために戦っていた。何がしたくて力を振るっていた。何がために、自分は神を殺したかった。
仲間を守りたかったんじゃないのか。殺させないためじゃなかったのか。救うことこそ、自分の命題ではなかったのか。
いつの間にか聞こえなくなっていた声に、彼はようやく疑念と答えを見る。
「だん……ちょう……」
そこにあったのは、傷だらけの男。
右目を失い、左肩の肉は深くえぐられ、両足は見る影もなく消え去った。綺麗さっぱり、初めからそんな形だったみたいに。
大きかったはずのその男が。
「俺……は……」
「あーあ」
父のように慕っていた、父親のように慈しんでくれた人が、ひどく小さくなって帰ってきた。
「残念。助けられなかったね? ボクに夢中になるのも仕方ないけどさぁ?」
「──」
再び視線をダアトに向ける。生き返ったことへの疑念はもうない。
「チャンスはあったのにね? みんなが死んじゃったのはボクのせいだよ? それは当然。だ、け、ど──」
「──」
スキップを踏みながら彼女はディエスの頭に触れた。どこにそんな力があったのか。それとももう、その体には重さがないのか。彼女は片手でそれを持ち上げ見せつける。
「──救えなかったのはキミのせい。痛いよー。こわいよー。なんちゃってね」
腹話術の要領で、ディエスの体の後ろから声を出した。
その姿に、ミツキの精神は限界を迎える。
歯を食い縛ることもない。拳を握ることもなく、涙さえも流れない。悲しみも怒りも、今の彼は持ち得ない。
抱くのは一つ。どこまでも純粋で透き通った殺意。今の彼が持っているのは、生まれて初めて感じたその思いだけ。
ダアトはディエスを放り投げた。ミツキはダアトだけを見据えている。
彼女は背後にいた魔獣たちに指示を下す。
彼は残っていた魔力球を全て掌に集め、神を殺す一撃を番える。
今の彼にはダアトしか映らない。消えていった命も、消えそうな命も。
──救えそうな命も、ミツキだけでは分からない。
「神の──」
生まれるのは黄昏。かの神を上回った、世界を混沌に導く力。これが放たれれば、ダアトであっても傷を負うだろう。
──放たれれば、だが。
「──人間の歩みを阻むなよ、愚神。この世界に、貴様らが必要な場所はない」
両者が動き出した瞬間、世界は大きく色を変えた。
現れたのは黒。黒色の雨に濡れモノクロになった世界の中、ミツキは経験の中から最適解を選び取った。放とうとした魔法を止め、単なる魔力の塊に戻った魔力球を雨から庇う。
魔獣たちは地面に繋ぎ止められる。杭か槍か。振り荒んだ何かに阻まれ、それらは力を発揮できない。
「……キミのとこには、ミカエルの本体を送ったはずなんだけど」
「ミカエル? ああ、これのことか」
投げられたのは人間の頭。それには無数の黒い針が差し込まれていた。落ちた衝撃でそれらが全て砕けると、頭もまた魔力の粒子になって消え去った。
「おっと、消えてしまったか。つまらん出し物だったが、いかんせん見た目は悪くない。オレの部屋に飾ろうと取って置いたのだが……らしからぬ失敗をしたものだ」
黒の中、一際深い黒が現れた。
たなびくは黒衣。醸し出すは王威。圧倒的な存在を前にしても、頭を垂れるどころか見下す様相。それの目に、神の威光は映らない。
それは目の前にいたミツキを一瞥すると、深い満足を表情に出した。
「見ろ。オレの言った通りだろう。いつか必ず、オレの前に立ち塞がる、とな」
男の側には金髪の女性が。デニムのズボンと動きやすいシャツを着て、タバコを蒸して飄々としている。
「いや覚えてへんし。それに、それそう意味ちゃいますやろ?」
ミツキの頭は男の姿を無視できない。忘れ難い記憶。深く刻まれた絶望の形。全て失った瞬間、自分に突きつけられた醜悪を思い出す。
殺意が埋め尽くす脳裏であっても、それだけは絶対に忘れられない。生まれ変わる直前に知った、海よりも深い絶望を噛み締める。
「お前……なんで……!?」
「久しいな、ミツキ。ゲルダは元気か?」
「ボクを無視するなよ、『黒衣の王』……いや──」
男は、ミツキの前に躍り出る。絶望の中、流れを切り裂き現れる。
──それはまるで、あの日を彷彿とさせるかのように。
「ここはオレが出よう。お前は、お前が成すべきことを成せ」
「キリアス・ブロットラーグ!!」
かつては敵として見えた男。それが此度、ミツキを救うべく馳せ参じた。