序章 一話 『ある少年のものがたり -case B-』
意識がとある少年に狙いを定める。それが見たのは彼の人生。報われなかった少年の、輝かしくも虚しい終わりまでの話。
◇
一日の終わり、ホームルームの最後が告げられるや否や、喧騒が広がる。
「満生、試験期間で部活休みだろ!?」
「久しぶりにカラオケでも行こうぜ!」
「あー、ごめん。期末までにやらなきゃいけないこと結構溜まっててさ……この埋め合わせは絶対にするから! 勘弁して!」
同級生二人に声をかけられた少年、日浦満生は申し訳なさそうにその誘いを断る。
「なんだよー、中間の時もそうだったじゃん! 結局その埋め合わせもされてないしさ!」
「流石に頑張りすぎじゃない? サッカー部の練習も厳しそうだし。前の試験も校内で十位には入れてたし。来年の入試にはちゃんと間に合うって。ねえ先生?」
「まあお前らは遊びすぎだとしても、日浦はちょっと根を詰めすぎだとは思うぞ? ちょっとは息抜きでもしてこい」
三人の担任は諌めるように声をかける。教師でさえ苦言を呈するほどの勉学の量。その少年は、取り憑かれたかの如く努力を重ねる。
「わかってはいるんですけどね、頑張れる時に頑張らないと落ち着かないというか……」
「知ってる。お前いっつもおんなじこと言ってるからな」
日浦満生はどこにでもいるような男子高校生であった。
身長は175センチ、体重は60キロ。短くも長くもない黒髪の、いつも柔和な笑顔を浮かべた少年。彼は、その人の良さから友人にも教師にも好かれている好青年であった。
そんな彼だが、一つだけ、周りの学生と比べて特殊なものがあった。
「今できることを一生懸命にこなし続ける。そうしていればきっと、どれだけ今報われなかろうと最期にはいい人生だったって笑えるはず──だろ?」
彼が口癖のように言うこの人生観こそ、彼を彼たらしめる特徴である。達観したこの考えを、彼はいつ頃からか信じるようになっていた。
「まあ日浦のそれは美徳だが、高校二年の夏休みは実質遊べる最後だからな? レギュラー入りしたばかりで部活も忙しいだろうけど、多少は遊べるようにしておかないとそれこそ後悔するぞ? こんなこと言うのは教師としてどうかと思うがな」
「あ、それは大丈夫です。ばっちりスケジュール組んでるんで。俺の夏休みには一切の死角もありませんよ」
「お前ほんとそう言うところだぞ?」
休みにすら全力で。手を抜けない彼の性分に、そこにいる誰もが笑いを堪えられない。
そんな声と笑いが教室に広がってすぐ、解散となった。
◇
意識が飛ぶ、別のビジョンが脳裏に浮かぶ。彼の残した後悔は、何気ない日常に点々と影を落とす。
◇
「よう日浦、期末前だろ? 何してんだ?」
「深山センパイ! 久しぶりじゃないっすか!」
試験前、誰もいないグラウンドで大学に進学した先輩に出会う。
「相変わらず頑張ってんな、今試験期間だろ? 試験勉強に意識向けなきゃなのにこんなとこでボール蹴る音聞こえたから、まあお前だろうと思ったんだよ」
「あはは。先輩こそ、大学の試験勉強はいいんですか?」
「今期はレポート課題ばっかりだから余裕余裕。おかげで暇なもんでな。久しぶりに高校に来て後輩の指導でもしようと思ってたんだが余裕すぎて試験期間だったの忘れてた。んでとりあえず先生に挨拶だけして帰ろうと思ったら、ボール蹴る音が聞こえたってわけ。お前こそ」
「最近無茶苦茶うまい一年が入ってきたんです。せっかくフォワード諦めてまでサイドバックのポジション掴んだんだし、譲りたくないじゃないすか 」
「俺に感謝しろよ? 周りがよく見えててカバーリングのうまいお前にはボランチかサイドバックが向いてるってアドバイスしてやったんだからな。そのおかげかは知らんけどお前スタメンじゃん? まあそれはそれとして、休める時に休まないと調子崩すぞ」
満生はサッカー部に所属している。小学校の頃から続けてきたスポーツではあるが、高校の二年、すなわち今に至るまで芳しい結果を出すには至っていない。
それに加えて、有力な新入生も加入。ようやく手にしたレギュラーの座も、雲行きが怪しくなっている。
しかし、彼は決して焦りから自主練に励んでいるわけではない。
「いやー、ずっと続けてきたことなんで、今更止めるとかすると逆に調子崩れそうなんですよね」
勉強も、部活も、彼は手を抜くことはない。前提にあるのは自分が優れた人間ではないという卑下。そんな自分が努力さえも怠ってしまえば何も残らない。諦観にも似た人生観はそんな中で培われた。
才能に恵まれず、努力の結果もついてきているわけではない。それでもその歩みを止めないのは、自分の人生が良いものだったと胸を張りたいから。
──今できることを一生懸命にこなし続ける。そうしていればきっと、どれだけ今報われなかろうと最期にはいい人生だったと笑えるはず。
心の中で、今日も彼は繰り返す。
「まあお前に言っても仕方ないとは思ったけどな。で? 次のメニューは? せっかくだから付き合ってやるよ」
「あざす! さすが先輩頼りになる!」
二人がボールを蹴る音は周りが暗くなるまで続いていた。
◇
意識が切り変わる。違うビジョンが視界に映る。彼が大切にする宝物。産まれてから死ぬまで、想い続けた家族の姿。
◇
「ただいま!」
「満生、お帰りなさい。今日の晩御飯は満生の好物だから早く着替えてきてね 」
「はいはい。勇生も試験前だろ? 余裕こいてて良いのか? たまには勉強見てやるぞ?」
「今までボール蹴ってた兄ちゃんがそれ言う? てか相手してくれるなら俺もサッカーの方が良いんだけど」
「明日、朝早起きしたら付き合ってやろう」
「無理。兄ちゃんの早起きはレベチだし。どうせ五時とかだろ?」
「いや、やることいっぱいあるからしばらくは四時起き」
「論外じゃん。普通に死ねるわ」
父、母、そして弟の勇生。この家族に生をうけて満生は健やかに育っていた。彼が腐ることなく今の性格に育つことができたのは、この家族が良き人々であったからだろう。
満生は真っ当に家族のことを愛しており、家族もまた同様に彼へと愛情を注いでいる。なんの変哲もない、だけれども何よりも得難いもの。何気ない日常は、自らには何もないと卑下する彼の数少ない自慢だった。
◇
意識が切り変わる。最後のビジョンが視界に映る。
ここで、彼の人生が結末を迎える。培ってきた人生観に、答えが出される時が迫る。
◇
朝四時に起床する。試験期間に入ってから一週間、起床後二時間の勉強とその後一時間のロードワークは欠かしていない。それに夜十二時までの勉強時間も加わり、通常時よりもハードなメニューとなっていた。それでも彼はこれを苦と思うことはなく、周りも彼の様子になんらの不調も見出すことはない。
満生は、いつもと同じようにこれをこなしてきた。
こなせてきてしまった。
「ふぅ、そろそろロードワークの時間か」
天気は曇天、今にも雨が降り出しそうな様子。
「うーん。まあ念のためレインコート着ていくか」
そんなことは意にも介さず、満生は走り出す。
「流石にちょっと疲れたな。今日は早めに切り上げよっか」
二十分ほど走ったところで雨が降り出し、同時に蓄積していた疲労に思考が向かう。思っていた以上に足取りが重く、体が前に進まない。視界が天気以上に暗く感じられ、重い呼吸も整えるのに時間を要する。
流石に無理をしすぎたか。そう思い足を止め、家路につこうかと踵を返した。
「っ!?」
──瞬間、視界が揺らぐ。体から力が抜け、足から崩れ落ちる。かろうじて頭を庇うが意識は遠く霞んでいく。
「うあ…… 」
ほんの僅か、時間にして五分ほどの混濁。打ちつける雨の冷たさを感じながら意識は覚醒する。
「やっば……どれくらい寝て……っ!」
原因は過労。されどもそれ自体が致命となるものではない。
致命的だったのは、大雨が降りしきっていたこと。人通りの少ない時間だったこと。そして──
──意識を失ったのが車道の上だったということ。
「あっ」
衝撃、浮遊感、そして後頭部への深い一撃。脳が揺れたが痛みは無い。しかし、霞んだ意識でも容易に理解できるほどの事実。
(あ、だめだ。もう)
助からない。
ドクドクととめどなく血が流れる。体から血液が抜けていく。意識が抜けていく。魂が消えていく。
薄れていく意識の中、満生の脳内は過去の思い出、走馬灯で満たされていた。
家族との日々。友人とのたわいもない会話。一生懸命に何かに打ち込んでいた毎日。
(大変なことばっかりだった、特別な何かがあったわけでもなかった)
サッカーでレギュラーを勝ち取ったこと。初めて学年十位以内に入ったこと。先輩に自分の能力を評価されたこと。
(でも、できることはやってきた。後悔なんてする暇もないくらいに全力で)
自分より才能に溢れた新入生が入ってきたこと。自分より勉強量の少ない同級生が自分よりも順位が上のこと。先輩に今のポジションを諦めるように言われたこと。
(だからきっと、俺の人生は良いものだったんだろう)
流れる血の勢いが弱まる。ほんの一握りの意識だけが残る。一欠片の魂が、かろうじて彼をこの世にとどまらせる。
僅かばかりの時間の中で、満生は何度自分の人生をかえりみたのだろう。
その血と同じで、走馬灯はもう流れない。彼の脳内に最後に残ったのは、己の人生観。
──今できることを一生懸命にこなし続ける。そうしていればきっと、どれだけ今報われなかろうと最期にはいい人生だったと笑えるはず。
(うん、良い人生だった)
そうでなければ嘘になる。今までの自分が嘘になる。これまでの努力は、苦労は、苦痛は、なんのためにあったのかわからなくなる。信じてきた努力の日々が自分の命に牙を剥いたのだとしても。ひとりぼっちで命を終えようとしていても。何一つ成せなかったのだとしても。
もう体に力は残されていない。声を出すことにも足りないくらいに彼の命は小さくなった。
「ああ──」
それでも最期、魂をすり減らして出した声は
「──この終わり方は、あんまりだろ」
誰にも届かず、雨に呑まれて消えていった。
◇
斯くして一つ、小さな輝きは失われた。
それでも、終わりは始まりを。絶望は希望を。不幸は幸福を。連れてくるのが常である。
星の死が、新たな輝きを生むように。
──新たな物語が、星のように輝き始める。