三章 三十五話 『裏』
「山頂までは私の力で短縮できる。荷物は最小限で構わんか?」
「問題ないでしょうな。ぼくの調べた限りだと、『裏』にも居住地は存在します。悠長な話ですが、そこで何泊かすることもできるでしょう」
ゲルダたちの安否が不明の状況。やはり迅速な行動が理想となる。最小限の装備での電撃作戦。それが今回彼らに求められる。
「本当に、よかったのかい?」
「はい。それはまだ、俺が持つべきじゃない」
ミツキは、ルーファスが差し出した「跳躍」の奇跡を受け取らなかった。理由は一つ。
「俺、結構考えなしで。今それ取り戻したら、多分一人で突っ走るから」
もとより熱くなりやすい性分。そこに大切な二人の不在が上乗せされている。その現状で、仮に何か手がかりを掴んでしまえば、「無限光」と「跳躍」を持つ以上、誰の手も届かないほど速く先に進んでしまうだろう。
「ルーファスさん、二回も俺を助けてくれたでしょ? 俺より、適正あるんじゃないすか? なんて」
「……わかった。全部が終わるまで、預かるよ。きっと、うまく使ってみせる」
この世界に二つと存在しない規格外の奇跡。それを預かり、使うことを求められるのは多大なプレッシャーとなる。震える手で、彼は再び胸へと押し込む。また一段と、鼓動が早くなった気がした。
「『裏』は氷雪地帯です。防寒具は必須でしょう。手配致しましたので、明朝には届くかと」
「さすが総理どの。仕事が早い。それまで、各自休息と致しますかな」
ケセドの山頂から確認できた通り、「裏」の気候は非常に厳しい。年中降りしきる雪は、大地を永遠の白に包み込む。準備がなければ、とたんに命もその真下へと埋もれてしまうほど。
ギルベルトはコネと人脈を最大限利用し、準備の手配を完了した。パトロンとして、これほど頼れる存在はいない。
「みんな、これを持って行って。少なくとも六回は通信できるはずだから」
「これ……録画もできるじゃないっすか! よく作れましたね」
「みんなに手伝ってもらって、やっと数分できる程度。あまり、過信はしないでね」
襲撃からほんの数時間。その限られた時間で、ノヴェルは四人分の通信機を作成した。バージョンアップさせた上で、である。学生の力を借りたのだろうが、それでも恐ろしい手腕。不安定な精神状態でも。いや、そんな状態だからこそ、彼女はいてもたってもいられなかった。
「あざっす。なんかわかったら、すぐ連絡するんで」
「……ごめん。こんなことしか、できなくて」
「何を。遠隔地への連絡手段。隔絶した地へ行くのにこれほど頼れるものもあるまい。学者というのも、捨てたものではないな」
アテナはフォローするが、ノヴェルの胸中は、後悔と自責ではちきれんばかり。
例え通信できたとしても、こちら側から駆けつける手段はない。「迷いの結界」を潜り抜ける可能性があるのは、現状ルーファスだけなのだから。通信機など何の役に立とうか。せいぜい──遺言を、残すくらいだろう。
想像すると、また心が苦しくなる。若い子供を死地に送ることも。父を、唯一の肉親を送り出すことも。母の死、その記憶をこじ開けられた彼女は、畳み掛ける苦難に苦しみ喘ぐ。その姿に、凛々しかった報告会の面影はない。
リオンは何も言わなかった。一度だけ彼女を抱きしめて、その日、ささやかな休息をとった。
◇
明朝。
「ケセドまでは私の部下が送りましょう。ご武運を」
「ミツキ……ごめん、ボク……」
「心配すんなって。絶対、二人とも連れ戻してくるからさ。そしたらまた、湖でも行こう。約束な」
痛々しい包帯に包まれたフィル。即座に回復魔法を施したから命に別状はなかったが、腕の骨は砕け内臓にもダメージを負った。安静を要する彼だが、何より辛いのは力になれないこと。何のためにここに来たのか。結局、足手まといにしかならなかった。自分を責める思いに限りはない。
「せめて、これ、を」
「いや、それはお前が持ってて。また、『表』で何があるかわかんないし」
「極虹」を差し出そうとした手を遮る。防御が整ったと言っても、いつ何時敵の襲撃があるかわからない。死神一神教も機械神教も、いまだに目的は不明のまま。戦力は、残せるならばそれに越したことはない。
「お前が残っててくれるから、安心していけるんだ。ありがとな、フィル」
「……うん、ありがと。行ってらっしゃい、ミツキ」
こうして四人はケセドに向かう。だが、その過程で語るべきことは無い。
アテナの竜鱗を最大限に活かした登頂。リオンを探る必要のあった以前と違って、寄り道の必要がない今回は最短最速で行動できる。斜面に沿って飛ぶように登り、一時間も経たないうちに山頂に辿り着く。
「うわ、すっご……どうなってんだ……?」
「みなさん、そろそろです。しっかり、僕の手を」
「結界」を踏破した経験のあるルーファスを中心に、全員が彼の体に捕まって行動する。周囲にはアテナの竜鱗。以前のように兄妹、フルグスとデウスが現れれば危険だからである。
登って来た方向から真っ直ぐに進む。「結界」の効果がなければ、数分もしないうちに雪景色が見え始めるはず。
しかし、どこまで行っても、広がるのは緑の景色。
「……だめ、だ」
彼らが辿り着いたのは、最初に訪れた地点。ものの見事に、結界の効果に囚われた。
「くそ、結局、役立たずじゃないか……運ばっかりの『七光』……! こんなだから」
「落ち着きたまえ、ルーファス君。これも考慮のうち。キミの奇跡に頼る以上、念頭に置いていた話だとも」
ルーファスには、特殊な奇跡が備わっている。その名も「五光」。効果は──
「もう一度挑むぞ。お前の運なら、億が一でも引き当てかねん。それだけで、十分価値がある」
──運がいい。ただそれだけ。
身体能力も魔法も。認識干渉も知力の強化も。何一つ及ぼさない奇跡。効果を実感することは稀で、人によっては、生涯発動せずに終わることもありうる。
この五つの光と、親の威光。加えて、ほんの少しばかりのルックス。総じて「七光」。研究者となって未だ芳しい結果を出せていない彼を、人々はそう揶揄する。
「……はい……すみません、弱気になってた。もう一回、行きましょう」
そんな自分を払拭したくて、彼は今ここにいる。逃げてばかりの人生から、逃げて前に進むために。
「あの……すんません、一個いいっすか?」
踏み出そうとした彼を前に、ミツキが手をあげ何やら提案を。何かに気づいた様子で、全員が固唾を飲んで彼に注目する。
「俺が、前行っても大丈夫すか」
「──ああ、頼む」
ミツキは、ルーファスについていく最中も、一つ考察を続けていた。
「迷いの結界」の性質。それは人の方向感覚を狂わせるもの。彼が見ていたルーファスは、前に進んでいるように見えて実際は同じ場所をぐるぐる回っていただけだった。それが、見えていた。
同時に、もう一つ想起する。それは「神官」。その八人に共通する一つの事項。
『認識干渉系の奇跡は、同系統の奇跡持ちには効果が薄いのよぉ』
『そんな子たちが多いのよねぇ、アタシたち』
戦闘と、バールの発言。それを総合して結論を出した。
「思ったんす。神官の人たち、似たような能力を使うな、って」
彼らと対峙した時、共通して受けた影響がある。
──それは、認識操作。
視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚。それらを始め、人間の認識に作用する能力を有している。恐らく、奇跡だろう。
「だったらこの結界も、同じ原理じゃないかと思ったんす」
いずれの能力も、自分には効果が薄かった。だったら。
「──思った、通りでした」
「迷いの結界」、それを潜るための資格は、つい先日まで二つだった。
一つは、「裏」の出身であること。もう一つが──
「──認識干渉系統の、奇跡」
寒さを感じる。降りしきる雪は、溶けずに下へ下へと沈み落ちる。積もった雪は次第に銀河を生み、銀は僅かな日差しを反射して煌めく。
緑と白の共演する幻想のような光景は終わり、また別の幻想を誘う。
一面、視界いっぱいの雪景色。結界を抜けた先には雪国が広がっていた。
「ここが……『裏』……」
リオンは、呆然と体を震わせる。五十年近く生きてきて、初めて到達した未知。残っていた恐怖も、洗いざらい流されてしまうほどに鮮烈な叡智。記録する余裕のないそれを、脳裏に焼き付け保存する。
しばし雪に目を奪われていた彼ら。落ち着いた後に、一つ、一際不可思議な光景に気づき始める。
「おい、あれは」
「っすね……どうなってんすか……?」
そこには村があった。山の麓、山頂から見渡せる場所に小さくぽつんと。寂しげな有様だが、雪の中でも確実に見つけ出すことができる。
──日差しが、降り注いでいたからだ。
雲が厚く空を覆う世界で、ピンポイントに日の光が注がれている。理解の外側にある光景。それこそ、彼らの追い求めるもの。
「行ってみましょう」
目指す敵の手がかりを求め、ミツキは崩れそうな雪を、自らの足で踏み締めた。
「あったけえ……ちゃんと日ざしだ……」
村には人が暮らしていた。子供の笑い声が響き、土を耕す音が聞こえる。家屋はどれも木製で、機材や機械を使わずに人力で作られたことが窺える。
「不用心だな……塀の一つも備えていないとは」
この世界には魔獣が潜む。故に、どんな小さな農村だろうと、柵や塀による防御は欠かさない。それが、この村には一つとして確認できなかった。
あるのは、周囲を囲む木々だけ。それだけが、この村の領域を区切っている。
「情報収集と行こうかな。できれば大人に話を聞きたいが……」
視界に入るのは子供ばかり。大人は隠れた場所で、農作業をおこなっているようだった。
「いらっしゃい。お客さんが来るのは珍しいわね?」
「──!!」
背後から、声をかけられる。たおやかで柔らか。清廉を絵に描いたような透き通った声。
彼女は白の外套を身にまとい、彼らの後ろで笑みを蓄えたまま歓迎する。
「ようこそ、捨てられた者たちの村、アイディールへ。長旅、大変だったでしょう? 少し、休んでいったらどうかしら?」
「──ベル、さん」
敵であるはずの彼女が、旅の始まりを讃えていた。