三章 九話 『王国 ─マルクト─』
◇
「魔法の国。読んで字の如くであるが、キミは何を想像するかな?」
今となっては昔の話。自警団にも入っていない頃。ミツキはアダンから常識について学んでいた。
「そりゃやっぱ『魔法』でしょ。すごい魔法使いがわんさかいるとかじゃないっすか?」
「実に良い。安直でなんの捻りもない回答。心地よさすら感じるね」
「俺もそっくりお返しします! 先生のそれはもう気持ちいいくらいですよ!」
「気持ちいいは少々気持ち悪いね。罵倒に興奮する質なのかい?」
「こ、の……くぅ……」
教えを乞う立場ゆえにミツキは強く出られない。悪態をつくのも当然の状況で、口をつぐんで黙ってしまう。
「はっはっは。冗談だとも。そう落ち込まないでくれたまえ」
「今の何を冗談ですませばいいんですかね? 教えてくれます?」
「ねー。早く始めようよー」
「地理の話は僕らも聞かないといけないんですが。二人の漫才はお呼びじゃないですよ」
ゲルダもカイも、今自分達がいる世界を詳しく知らない。忘れているのか、はたまた本当に知らないのか。いずれかは定かでないが、学ぶ必要があるのはミツキと同じ。席を並べて少人数授業中。
「おやおや。ミツキ君のおかげで怒られてしまった……失礼。いじり甲斐があってついね。始めよう」
ミツキだけじゃなく三人ともから冷ややかな目線が送られるのを感じ、流石にアダンも話を進める。厚顔であっても無恥ではないらしい。
「まずは立地だね。魔性の国から北東。しばらくしたところに広がるのが魔法の国だ。この世界でも屈指の領土を誇る国。今北東と言ったが、その西端は魔性の国の真北にまで及ぶ。反対に東端は、世界の端と呼ばれる海に面している。まさしく、世界を代表する地だろう。歴史においても、他国を圧倒する」
「それだけ広い領土だと、守りの構えが難しそうですね。壁とか塀とかで囲ってるとかじゃないと魔獣が危ないですし、予算は国防につぎ込んでるのかな?」
「いい観点だね。ミツキ君とは違い、純粋にそう思うよ」
「いちいち俺に話降らなきゃいけないんすかぁ!? ぼけるにはまだ若いっすよねえ!?」
堪忍袋の尾が切れたか、ミツキも声を荒げて抗う。アダンはそれを無視して、カイの疑問に答えを与える。
「答えはイエスだ。あの国は商いから集めた税収を、研究と国防に費やしている。だが、領土を守る防御柵のような設備は──」
◇
「──ん……」
カイとの模擬戦から一夜。定刻通りにミツキは目を覚ました。しかし体は疲れを蓄えたまま。甘い眠りが彼を誘惑するも、目を擦って布団から出る。
夢を見ていた。魔法の国を巡ったアダンの講義。今となっては昔のことで、懐かしむように思い出す。すっかり馴染んだこの世界に、馴染む前の自分の話。あの時は頭にきた会話も、ほんの少し名残惜しく。
「いや、それはない」
「いきなりどうしたんです? 昨日頭でも打ちましたか?」
「げ。噂をすれば先生みたいなやつが」
「……すみません。言いすぎたんで勘弁してください」
部屋を出て、同時に起きてきたカイと鉢合わせになる。二階、三人分の並んだ自室。その戸がぱたんと音を立てて閉じた。
「おはよ、二人とも。朝から元気だね」
「姉さん、今日くらいはゆっくり寝ててって言ったのに」
一足先に起き、朝食の準備をしていたゲルダが一階の台所から声をかける。二人のやり取りは階下まで伝わっていたらしい。
「この家、しばらく帰ってこれないじゃん。しっかり使ってあげないとね」
「帰ったぞ。全く、前日までこき使うとは。奴は私をなんだと思っているのか」
「団員じゃないっすか?」
そこにちょうど自警団の夜勤を終えたアテナが合流する。ミツキの返答にやれやれとため息をついて、一度浴室に向かう。竜であると言っても今は人の姿。人らしく疲れと汚れを洗い流したいのだろうか。
「できたけど先食べちゃう?」
「うーん……そうしよっ」
「上がった。飯にしよう」
「アテナさん服は着てください! もう少しなら待ちますから!」
一糸纏わぬ姿で戻ってきたアテナに、男二人は思わず目を覆う。今までも何度かあったが、その度注意しているのに一向に治らない。それだけ、ゲルダの食事が楽しみなのだろう。
「ほら。これでいいだろう」
「なんでちょっと上からなんすか……いつもだけど」
「よし! それじゃ食べよ! いただきます!」
机の上に並べられた朝食を前に、アテナは髪を濡らしたまま戻ってくる。水が滴るほどではないので誰も注意はしないが、威厳が消えていくことも同様に指摘しない。
今日の主食はパン。小麦で作られたそれは、しっかりと硬く焼き上げられており、長期間の保存に耐える。家を開けることの多い彼らには、そういった保存食が重宝される。主菜には目玉焼きが。偶然二黄卵が当たったので、ゲルダはアテナにそれを与えた。目にした時、子供みたく瞳が輝いたが、幸い誰も見ていなかった。
卵の隣には、分厚く切られた豚肉の塩漬け。ベーコンに近い加工肉を、表面がカリカリになるまで焼いたもの。ジューシーで、ナイフが弾むような肉質。滴る肉汁が、上物であると見せつけてくる。
そして小さなカップには真っ赤なスープが。トマトを使い、さまざまな野菜を一緒に煮込んでいる。傭兵の国、貴族区でよく食されるもので、アイリーンから学んだレシピの一つだ。
そこにサラダを加えて朝食が成立する。豪華に見えるが、これでも彼らにとっては日常。ゲルダの趣味も兼ねているので必然的に立派なものになるのだ。特に気取ったわけではなく、特別なことは何一つ。今日も、いつもと同じ朝を過ごす。
今日だからこそ、いつも通りの朝を過ごす。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
「おそまつさまー。じゃあ準備して、いこっか」
「おう。もう出発か? ちょうど間に合ったな」
「ディエスさん。見送りですか? そんなのいいのに」
朝食を終え、アテナとミツキが皿を洗っている時、ディエスが戸も叩かず入ってくる。
「あ? いや、要るだろ。送ってくやついねえでお前らどうすんだ? 外、車止めてるから手ぇ空いてるやつは荷物乗せろよ」
ディエスは今回同行できない。私情もあるのだが、最低限の戦力は魔性の国に残しておかなければならないからだ。せめて送迎くらいはと面倒な仕事でも買って出た。
「問題ないよ、ディエス君。今回はアテナ君が車を動かす」
「げえっ! 旦那ぁ!? いつの間に!?」
「キミたち、些か年上に対して失礼ではないかね?」
ディエスの後ろ、音もなく現れたアダンに腰を抜かす。少し前のミツキたちと同じ反応に、アダンも少々傷ついている様子。
「ちょうど戦功とやらが余っていたのでな。安物だが、動かすのに問題はないぞ」
「正直、僕はまだ信じてないんですけどね……アテナさんの運転……」
獣の国で盛大に嘔吐した経験がカイの口内を苦くする。それが移動に適しているのは事実であるから、反対こそしなかったものの、目は虚に遠くを見ていた。
「いや待てよ姉御。アンタがいねえとミツキはどうすんだ? 車、乗れるようになったのか?」
「無理無理カタツムリっすよ。できれば見るのも勘弁っす」
「……よくわかんねえが、じゃあどうすんだ? 歩いていくのか?」
車に尋常でないトラウマの残るミツキだが、今まではアテナやルナリアの操る飛竜を利用して乗り切ってきた。しかし、今回アテナは頼れないという。では、飛竜か。それも違う。彼はこの度、移動手段を手に入れた。
「ふっふっふ……見て驚け! これが俺の秘密兵器っす!」
「──こいつは……」
◇
一週間と少し前のこと。
「レイチェルー? 来たよー?」
「お疲れ様でしたミツキさん! わざわざお呼びたてして申し訳ありません!」
傭兵の国。会議を終えてミツキはレイチェルの研究所へと足を運んでいた。
「ゲルダさんも来てくれたんですね! ちょうどよかったです!」
「え? う、うん。良かったね?」
一緒に来ていたゲルダも若干押され気味だが、苦手意識は無いようで隠れずに対応している。自分より年が若いからか、それとも一歩踏み出せたからか。
「お渡ししたいものは、まずこれです!」
レイチェルは初めましての挨拶もなしに手っ取り早く要件に移る。取り出したるは金属の棒。手のひらに収まる程度で短く細いが、黒鉄色で見るからに重厚な存在感を放つ。
「これは……杖、だね」
「杖? 魔法の媒介にするやつ?」
ゲルダは一眼でその本質を見抜く。魔法使いは、往々にして想像を補強するための媒介を所持する。例えば、ジェレンの魔法紙。あれは特殊なケースであるが、仕組みは同じこと。空間、世界という広大なキャンパスの塗り替えは、緻密な想像を必要とする。そこで、起点となる物質を定め、そこから魔法が広がるよう想像するのが通常の魔法使いである。
「うん。でもせっかくだけどあたし、杖とかいらないよ?」
しかし何事にも例外はあるもので。ここに集った二人はまさしくその例外。ミツキは言わずもがな。奇跡の効果で想像を容易にしている。いわばそれが媒介物のようなものか。
そしてゲルダ。彼女は幼い頃から手ほどきを受け、もはや息をするのと同じように想像を可能にしている。今更媒介など必要ないだろう。
「はい! 存じ上げてます! しかし、この杖の機能はそれだけではありませんので!」
そう言うとレイチェルは突然、部屋にあったクッション目掛けて杖を振る。すると、風が巻き起こった。それだけなら小さなこと。だが、たった一つの事実が、その特異を演出する。
「風……? でもレイチェルって」
「はい! わたしは土しか使えません! なので」
「その杖……魔法を格納してる……ってこと?」
「流石です、その通り!!」
今しがた放たれたのは、あらかじめ杖の内部に格納していた魔法だと言う。
「あ、そういえばなんか剣作ってたね」
「そうです! それとミツキさんの持っている箱。二つを組み合わせて作ったのがこの杖でして」
魔鉱石を研磨し組み上げ、魔力が漏れないように密閉。振りに合わせて先端が開閉するような仕掛け。これをもって、魔法の保管が可能になった。剣と違い小さいため、強度に機能を振り分けることにも成功。ある程度の接近戦にも耐える仕様になっている。
「咄嗟の場面でも、これで魔法が使えますので!」
「すごい! ……でももらっちゃっていいの?」
「大丈夫です! 王さまから許可はいただいてますので! 設計図なら保管していますから!」
これでただでさえ強力なゲルダがさらに強化される。受け取って小さく振ってみると、軽さに驚いた様子。見た目に反して軽量で、非力なゲルダでも容易に扱える。
「そして! ミツキさんにはこちらです! 車が苦手とお聞きしましたので!」
「……? これは……?」
ミツキが渡されたのは、これまた金属でできたような板。ミツキが連想したのはスケートボード。違いは、底部にいくつか噴射口のような装備が付けられている点だ。
「鉄の国で開発されていた『飛空板』です! それを改造して、燃費度外視の出力にしましたので! 車にも負けません!」
「これ、もしかして空も飛べちゃったり?」
「そこまではできませんが、地面からは浮いて進みます!」
「か……」
現代日本でもお目にかかれないハイテクノロジーの結晶。手にしたそれは、未知のアイテム。少年の心は当然ながらくすぐられてしまう。
「かっけええ!! 乗りたい! 乗ってきていい!?」
「もちろんです! これは恐らくミツキさんにしか扱えませんので! 魔力消費が酷くて使えたものではありませんでした! 注意点は」
「ありがとレイチェル! 行ってきます!」
試運転にと、外に広がる実験スペースへと走っていくミツキ。レイチェルが注意しようとしたのも気づかず大急ぎ。
「おわああっ!! 何これぇ! むっず!!」
外から悲鳴にも似た嬌声が聞こえる。転んだらしいがそれすら楽しそうに聞こえた。
「注意点は、非常に運転が難しいと言うことなのですが」
「練習は得意だもんね。だいじょぶかな」
ミツキはサッカーを嗜んでいて体幹には自信があったのだが、それでもバランスを取るのが難しく、結局運転を習得するまでに丸々一週間かかった。
◇
「おお……これが飛空板……かっけえなあ、オイ」
「団長壊さないでくださいよ……」
「軽く乗ってみてもいいか? すぐ! すぐ返すからよ!」
珍しい道具を見て童心に返ってしまったディエス。ガキ大将のようにミツキから飛空板を取り上げて乗ってしまう。
「あ! 団長危ない!」
「は? ……え……?」
するとどうしたのか、スイッチを入れた瞬間、ディエスの体がぐらりと傾く。泥酔したかのごとく、何が起きたのか理解できない。体には異常な倦怠感。力がごっそり抜き取られたような。
ミツキは慌てて飛空板を取り上げるが、ディエスは荒い呼吸で必死に酸素を取り込もうとしている。
「……なんだ……こりゃあ……」
「ふむ……これはほとんどミツキ君専用と見た。無限の魔力でもないと運用はできんだろうね」
「さすが先生。お見通しっすか。その通り。それ、えげつないスピードで魔力吸うんで、俺か、短い時間に限定してゲルダくらいしか使えないっす」
「そういうことは……早く言ってくれや……」
車と同等の速度を実現するために、レイチェルは燃費を完全に無視した。理屈ならば先日現れた機械神が放った魔力砲に近い。それを補うかのごとく、起動状態にあると驚くべき速度で魔力を吸い続ける。並の人間であれば数秒とたたず干からびるだろう。
「ってことなんで団長は自分で買ってくださいね」
「まだ流通してねえだろうが……素直に羨ましいぜ」
「何はともあれ、これで移動の問題は解決。そもそも国内を駆け回るのにいつまでもアテナ君や飛竜を頼りにしていてはダメだったからね」
魔法の国の国土は広大。列車をはじめとした交通インフラも整っているのだが、細かな部分で車が絡む。アダンも頭を抱えていた問題であったのだが、フィルの気遣い、それとレイチェルの好奇心に助けられた。これで、憂うものは何もない。
「荷物は車に積んだな? そろそろ出るぞ」
家の外には一台、真っ赤な車が停まっている。一眼でアテナのものだとわかるカラーリングで、低い車体はまるでスーパーカーのよう。カイはまた一段階、顔を青くした。車とのコントラストが映える。
「では我々はここで見送りということにしよう。ディエス君がグロッキーだ」
「うっせえ……悪ぃな、出発前にゴタゴタしてよ」
「全然! いいもん見れたんで!」
今のディエスに国の端まで向かう元気はなさそうだ。ミツキに舌打ちで答えると、雑に手を振って挨拶に代える。しばらく会えなくなる。その寂しさを隠すための仕草。
アダンは右手を差し出し握手を求める。ミツキもそれに応え、右手を固く握る。言葉なんて要らなかった。帰ってくれば、また嫌と言うほど飛んでくる。
挨拶は済んだ。彼らが向かうは新しい国。待ち受ける困難を知らない彼らは、今はまだ、笑顔で──
「──行ってきます!」
枯れた大地に緑が混ざり始めた。鉄の国から大きく北に外れた結果、開発の影響が及ばない地にたどり着く。次第に緑の数は増していき、なだらかな山に木々が青々と実っている風景が現れる。路傍には色とりどりの花々が。名前も知らないそれらにも、託された言葉があるのだろうか。
すっかり緑に覆われた地面。出立から一時間ほどで、国の境が形になって目に映る。
「──あれが」
ゆらりゆらめく七色の極光。そのベールは、確と境を区切るけれど、何人も拒まないような柔らかさで。見れば自分達以外にも多数の車がベールを潜っていく。近代機械と神秘とが交差する奇怪な光景は、その国の在り方を示していた。
一度、乗り物から降りてベールに触れる。とぷんと、水面に触れるような感触で指が沈む。不思議だったのは、冷たさも暖かさも感じなかったこと。海のような感触の空気が、色を帯びて形になっていた。そう表現するのが正しいかはわからないが、まさしく人知の及ばない業であるのは間違いない。
足下には花畑。ベールに沿って、ずらりと並んだ勿忘草。彼らの中に、その花の名を知るものはいない。込められた思いに気づく者は、まだ誰もいない。
国の南東に彼らはたどり着く。魔性の国をそのまま北上しなかったのは、一度寄りたい場所があったからだ。ひとまずは、そこを目指すことになる。
「大丈夫? ふらふらだけど」
「いえ……正直思いの外上手かったです」
車から出てきたカイは、少し足下がおぼつかない。また酔ったのかと見紛うが、理由は別。天高く、雲まで届くベールを見上げて、足下がおろそかになっただけ。
「すごいね。傭兵の国で見たのとはレベルが違う」
「魔法の国、その看板に偽り無し、か」
比べるのも烏滸がましい。国を覆うは神の業。幽世から世界を見守るたった一人が成した偉業。国土の周囲、数万キロをこのベールに似た美しき結界が囲んでいる。
「じゃあ、行きましょう」
これより挑むは神域の国。未だ実感なきミツキを、因果はその国へと誘っていく。
足を踏み入れ王国に至る。十から降りて零を目指す。幸福の成る、その樹の頂上を目指して。