プロローグ 最初が最後
人を殺した。あまりに美しい女性だった。つい十分程前の出来事である。
今もなまなましく、人を引き裂く感触が爪先に蘇る。血で赤く染まった手が、乾いてひどく不快だった。見ると肉片が爪の間に残っていた。それを見て、嘔吐感がこみ上げてくる。我慢しようとしたが、逆らえず吐いてしまった。これで三度目だった。
胃液を出し尽くし、虚脱感が全身を襲うが、今は人に見つかるのだけは避けたかった。狭い田舎町だ。こんな姿を見られれば、明日からは殺人者と皆から指を指されるだろう。まあ、その前に警察に捕まってしまうだろうが。
人を殺したのに保身とは、自分がひどく矮小な人間なんだと思い知らされる。自首しなければいけないのだろうが、そんな勇気はなかった。その殺人がどこか他人事のように思えたからだろう。自分が殺した感覚がないのに、記憶では鮮明だった。
思い出す。思い出したくもないが、もはやトラウマに近い。思い出されたという方が正確か。
そう――とても、美しい女性だったのだ。
金と銀が混じったような輝く髪。白く透き通った肌。吸い込まれそうな金色の優しい瞳。黒色のゴスロリチックなドレスが、それらと対比になって、彼女のどのパーツも際立っていた。
彼女は空から落ちてきた。重力をどこかに置き忘れてしまったようにゆっくりと。夜空の黒に、輝く髪が揺れている様は、ある種畏怖の念を抱かせる壮美さだった。
着地、そして歩行。こちらに歩いてくる。
俺は完全に固まっていた。目の前の現象についていけなかった。
彼女が近くまでやってきた。二メートルほどの距離で止まった。なぜか彼女の頬は朱に染まっていた。
「は、はじめまして……」
綺麗な声だった。そう言いながらはにかんだ笑顔をした。
ここからは記憶の中でしか語れない。しかし、現実よりも鮮明に覚えている。ああ。これがすべて作り物。俺の幻想だったらいいのに。そう、切に願う。
はにかんだ笑顔――瞬間、得体のしれない感情が俺を抉った。
――このオンナをコロしたい。
――このオンナをバラしたい。
制御不能だった。わけも分らない感情の本流が俺の存在を消し飛ばす。もう彼女の血肉しか俺の頭にはなかった。
異常者。
殺人快楽者の思考。
あるいは――ケモノ。
果たして秒に届いたか。まず彼女の身体を切り裂いた。両腕で、バツ印が付くような切り方だ。もしかしたらまだこの段階では生きていたかもしれない。……心臓に大きな傷跡が付き、はらわたを全てかき切られ、抉り出されても生きている人間がいればの話だが。
しかし、次の瞬間には間違いなく絶命していた。右手で首を突き刺したからである。指先だけわずかに外気に触れている。貫通していた。そのまま持ち上げると、肉が伸びて、ちぎれそうだった。
空いた左手で、彼女を蹂躙し続ける。腕がちぎれ、足が破片になる。
いつまで続けたか、気付くと、もう人間の原型をとどめていなかった。唯一、転がっていた首が残っていたが、見つけた瞬間足で踏み潰した。まるで水風船みたいだった。
そこで俺はようやく理性を取り戻した。
そして罪の意識を抱えきれずにその場から逃げ、今に至る。
四度目の嘔吐。しかし、もう血しか出てこなかった。
よつんばいの状態から仰向けに寝転んだ。もう走れなかった。そして諦めた。もう、自首しよう。激しい疲労感が、俺を怠惰の方向に持っていたのが幸いに、そう思えた。
そのまま寝転んで休んでいると、次第に冷静に物事を考えられるようになった。夜空を見上げながら、死刑だろうか、と考えた。もしそうならば、最後に月が見たかったものだ。
しかし、なぜ俺は、見ず知らずの女性を急に殺したのだろうか。あの押さえ切れなかった感情は、いったいなんだったのか。しばし、考える。だがそんなことは関係なく、俺が人を殺したと言う事実は揺るがない。結論はどうせ分からないだろう。
立ち上がる。警察署の近くは、まだ人通りのある道を通らねばならない。身体を洗って着替えたほうがいいかもしれない。
足元がふらついていたが、なんとか歩けた。
幸い、誰にも見つからずに家までたどりつけた。家の鍵を開ける。しかし鍵を開けたときのガチャリという感覚がなかった。
鍵を掛け忘れたのだろうか。あるいは誰かいるのか、しかし俺は一人暮らしなので、そんな人はいない。もしかして泥棒かとも思ったが、これから刑務所に入る身だ。別にかまわなかった。
ドアノブを引いて家に入る。こうやって家に帰るのが最後なのだと思うと、少し寂しかった。
二階の電気がついていた。俺の部屋(ひとり暮らしなので寝室か)だ。外からは見えなかった。帰り道と反対の方向にあるから気付かなかったのだろう。
なんとなく、誘われるように階段を昇った。もしかしたら泥棒がいるかもしれないが、この際誰でもいい。何か少し話したい気分だった。誰かと話して決心を固めたかった。
扉を開ける。
自分の部屋だ。泥棒に荒らされた形跡もなく、朝出たときと変わらない物の配置。だが、唯一朝と違う点を挙げるとすれば、そこに、さっき殺したはずの女性がいるということだ。
「ほう貴様が私を殺した男か」
そして続ける。それは始まりの言葉。そして終末を呼んだ言葉。
「私は、どうやらお前のことが好きらしい」
告白されていた。
もう、俺の頭は破裂寸前だった。
あのとき、すぐに警察に駆け込むか電話すれば、もしかしたら違った結末を迎えていたかもしれない。彼女は永遠にこの部屋にいるか、もしくは帰ったのかもしれない。
この物語の結末はバッドエンドである。
だから俺は、望むのだ。
この世界の破壊と――幸せを。
みなさん初めまして。きなこ太郎と申します
いきなりシリアスな展開ですが、このあとしばらくはコメディな感じが続きます。