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My Cell 負 : 入水前の追憶

作者: 福鳴大葉

 彼に別れを告げられた。それは私にとって初めての失恋であり、同時に具体的な希死念慮が生まれたきっかけでもあった。


 鞄の中に煙草が2本入っているのを確認する。悲しいことにこれが私の最後の晩餐となるのだ。といっても、本来晩餐という言葉は夕食を示すので、厳密に言うと昨日食べた生姜焼きが最後の晩餐なのかもしれない。細かいことはどうでもよかった。

 コップに水を注ぎ、昨日ドラッグストアで買った睡眠薬を砕いたものを混ぜる。それをイッキ飲みし、ぷはぁ、とまるでお酒のコマーシャルのようなリアクションをする。何してるんだろ私、と独りで笑ってしまった。

「ついに死んじゃうんだね」

「うん」

 やけに軽い鞄を持って、リビングに向かって手を振る。何かが始まる時のような、高揚と焦燥が身体の中で広がってゆく感覚がした。


----


 高校に入学した日、新しい環境に少し怯えていた私に笑顔で話し掛けてくれたのが彼だった。それから度々一緒に行動するようになり、気付いたら常に隣に彼がいた。お互い部活をやっていなかったから、毎日二人で帰っていた。

 彼の純粋そうな笑顔に惹かれていた。瞳の奥の光が眩しくて、目を合わせるだけで心が照らされた。

「私、彼のこと好きなのかな」

「気付いたら彼のことを考えてるもんね」

「うん、だから少し落ち着かないの」

 何かと自分自身と対話する癖があった私は、毎晩のようにこんなやり取りをした。彼のことを考えると、柔らかい春の風に吹かれた時のような感覚に包まれる。それと同時に心に棘が刺さったような痛みに襲われた。


 彼と知り合って1ヶ月ほど経った晴れの日、いつものように帰路を共にしていた時のことだった。

「佑唯ってさ、彼氏いないんだっけ」

「うん、いないよ。できたこともないもん」

 普通より低めで優しい彼の声。彼に名前を呼ばれると、少しだけ胸が高鳴る。

「俺さ、佑唯のこと好きかもしんない」

「……へ?」

 目も合わさず唐突に告白されたので、気の抜けた声が漏れてしまった。彼の顔を見上げる。0.5秒だけ私の顔を見た後、再び前を向いた。

「佑唯と付き合いたい、俺は」

 いつもよりぶっきらぼうな口調。緊張を隠しているのが分かった。普段ならいくらでも彼をからかうことができるのに、今は私にも余裕がなかった。好き、付き合いたい、という言葉が私に向かって飛んできて喉を詰まらせた。

「え、えっと……」

 平然を装うのなんて無理だった。彼は何も言わなかった。2人の会話に長い間が生まれる。

「あの、ちょっと、時間欲しいな」

「……分かった」

 それから彼は何事も無かったかのように好きな音楽について話し始めた。でもいつもより少し早口だった。彼なりに平然を装っているのだろう。その姿が可愛くて、暴れまわっていた心臓が落ち着いた。代わりに母性が暴れだしそうになって、それをどうにか抑えるのに苦労した。


 その晩、私は興奮で寝つけなかった。

「告られちゃった、どうする?」

「ついにリア充になっちゃうね」

「彼とどこまで行っちゃうと思う?」

「高校生だしね、親密なことしちゃうかもね」

 私は既に付き合ってからのことを考え始めていた。彼は今どんな夜を過ごしてるのだろう。やっぱりそわそわしているのかな。そう考えると余計興奮してしまい、抱き枕を彼と思って抱いて眠りについた。多分眠りに入った後も、ずっと口角は上がったままだったと思う。


 明くる日、彼は私に声を掛けなかった。まだ席替えをしていないから隣同士なのに、彼は顔すら向けてくれない。寂しくて、心に闇が生まれかけたが、私から話し掛けてみるといつものように会話してくれた。でも目が明らかに泳いでいた。きっと私からの返事の行方が気になってそわそわしているのだろう。それに気付くと余計に愛おしくなって、思わず可愛いねと言ってしまいそうになった。その日の授業はいつもより何倍も長く感じた。


 いつもの帰り道。北風が強めに吹いて肌寒かった。彼は一言も発さず歩いている。私の心も少しだけ引き締まっていた。肺の空気を入れ換えて、彼を見上げた。

「昨日の返事なんだけどさ」

「……うん」

 声と表情には不安が含まれていた。だから私は彼に向かって微笑んだ。

「私も、陽斗のことが好きだよ」

 その瞬間、彼の表情は太陽よりも輝いた。そしてすぐに顔を背けられた。思わず「何照れてんだよ~」とからかってしまう。

「ごめんごめん。普通に嬉しくて、恥ずかしかった」

「だよね、顔も耳も真っ赤だよ」

 彼は俯いて耳を手で覆った。その仕草で母性が息として溢れ出た。悟られないように、どうにか自分を制する。

「じゃあ、これからは恋人としてよろしくね」

「うん、よろしくね」

 同時に前を向いた時、彼に手を握られる。唐突の出来事に、胸が大きく弾む。それに気付いたのか、彼が少し不安げな表情を浮かべた。

「手繋いじゃダメだった?」

「ううん、違うよ。突然だったからちょっとびっくりしちゃっただけ」

 私が手を握り返すと、彼の表情はまた晴れた。

「ちょっと気になるんだけどさ」

「うん?何?」

「私のこと、いつから好きだったの?」

 私だったら恥ずかしくてなかなか答えられないであろう質問をあえてぶつけてみた。でも彼は表情を変えず、ほぼ間髪入れずにそれに答えた。

「まぁ一目惚れ、かな」

「え、なんて?」

 一目惚れ、という単語は私の耳に届いていた。でもその単語は私に向けられたものとしてはあまりに奇々怪々だったので、思わず聞き返してしまったのだ。

「入学式の日に隣の佑唯を見かけて、ああ可愛いなって思って、仲良くなりたいなって思ったのがきっかけかな」

 淡々と話す彼とは対照的に、私の方が恥ずかしくなってきた。女子に可愛いと言われたことは何度かある。でも男子に、恋する人に可愛いと言われたのは始めてで、顔が熱くなった。それを冷やすためにも、無理矢理話題を変えた。

「陽斗って、家まで何分かかるんだっけ」

「歩いて30分くらいかな」

「ちょっと遠いね。自転車使わないの?」

 こんな会話は脳内過去ログにも存在している気がするが、咄嗟の誤魔化しのための会話だからどうでもよかった。ちなみに私は家から近い高校を選んだのもあって、片道15分程度だ。

「でも自転車使ったら佑唯と一緒に帰れないじゃん」

 こんな返答は脳内過去ログには無かった。私はさらに顔が熱くなるのを感じた。幸い顔色に出る人間では無かったので、からかわれることはなかった。いや、からかわれるのもそれはそれで良いのだけれど。

「なんか、ありがとね」

 心から生まれた感謝の言葉だった。彼は照れているのか顔を背けて笑った。彼が私の家まで送ってくれると言うので、私の家の前までお互いの手の温もりを分け合った。

「じゃあ、また明日ね」

「うん、また明日」

 少しだけ、キスされることを期待したが、流石にそれは気が早かった。彼は笑顔で手を振ってくれた。私も笑顔で振り返す。明日また会えるのが楽しみだった。


 また明日、とは言ったものの夜も彼とお話したくて、私はベッドに横になりながらメッセージアプリで《やっほー》とメッセージを送った。

《やっほー、今ご飯食べ終わったところ》

《あ、奇遇だねぇ、私もだよ》

 端から見たら私はスマホを見てニヤニヤしている変態だった。

《ねぇ、好きって言って?》

 文字だけのやり取りになると少し大胆になってしまう。既読はすぐついたものの1分ほどの間があった。

《好きだよ》

 彼はどんな表情でこれを送っているのだろう。1人で顔と耳を真っ赤にしながら文字を打ったのだろうか。ベッドの上でじたばたして少し落ち着いた後、

《私も大好きだよ》

と送った。送ってみると少し恥ずかしくて、またベッドを荒らしてしまった。


 元から私は不幸ではなかった。むしろ幸せだった。親は一人娘である私を愛してくれていると思うし、学校も楽しむことが出来ていた。私はそれで満足していた。

 しかし、今感じている幸せに近い感情は、今まで感じてきた幸せとは重みが違った。心の中にどっしりと存在するものだった。あまりに大きく心の土地を陣取って来るから、少しだけ苦しかった。そしてこれが無くなると私は空洞になってしまうような気がした。

 二度と、この感情を、彼を離したくない。

 私は少しだけ怖かった。彼を見失ったら私はどうなってしまうのか。彼の姿を隠す霧が、やがて綿となって私の呼吸器を覆い尽くしたら、私は息が出来なくなってしまう。

 私は思った。ならばその霧が発生しないように、彼を愛し続ければいい。そして彼が私を愛してくれればいい。私が彼を離さないように、彼も私を離せなくなればいい。


 そんなことを考えていたから、彼からのメッセージを既読無視してしまっていた。慌てて《ごめん、眠くてぼーっとしてた》と送り返す。

 私は余計なことを考えすぎてしまっていた。先のことを考えても何も生み出さない。むしろ不安になって、闇が生まれるだけだ。

《眠いなら、もう寝る?》

《うん、もう寝よっかな。なんかごめんね、私からメッセージ送ったのに》

《全然大丈夫だよ、じゃあまた明日ね》

《そうだね、おやすみ》

《おやすみなさい》

 私はただ明日を待ちわびてベッドに入ればいいのだ。だからさっさと寝てしまうことにした。

 彼からウサギが眠っている様子のスタンプが送られてきた。私もネコのスタンプを送り返した。液晶を介しても、彼の可愛さは何も変わらなかった。


----


 今思えば、この時点で私の運命は決まっていたのかもしれない。

 

 私はとある場所へ向かっていた。荷物は煙草とスマホしか入っていないショルダーバッグだけだ。

 何も考えなくても、彼との日々は目まぐるしくフラッシュバックした。それに苦しんでいた時期もあった。でも今はもう気にすることもなくなった。安っぽい恋愛ドラマを観ることと大差なかった。

 彼は今きっと幸せなんだろう。きっと彼は私がいなくても幸せを得ることができるのだ。でも私は違う。私にとっては彼の隣にいることが幸せの完成形であり、二度とそれは叶わない。


 言葉を選ばずに表現してしまえば、私は死ぬためにその場所へ向かっている。頭上の満点の青空と私の心の中はどこか似ていた。

 あの日もこんな青空だった。人生で最後の夏休み。私の幸せのピークと言ってもいいほどに、心に強く残っているデートの日。私はまた少し、思い出を眺めることにした。


----


 待ち合わせ場所には既に彼がいた。私の姿を認めると子供のように笑顔で手を振ってきた。私も手を振り返す。

「お待たせ、いつも待たせちゃっててごめんね」

「全然大丈夫だよ。佑唯とのデート楽しみでめっちゃ早く来ちゃうんだよね~」

 付き合ってもうすぐ3ヶ月になる。外でのデートはこれで6回目で、毎回彼は私より早く来て私を待っていた。

 前々回のデートで、たまには私が待つ側になろうと意気込んで、約束の時間より30分以上早く着くように待ち合わせ場所に向かった。しかし、なんと彼はそこのベンチに座っており、やはり子供のように手を振ってくるのだ。流石に驚きを通り越して心配になり、「いつから待ってるの?」と聞いたのだが、少し照れたような笑いを浮かべて「秘密」と言ってきたので、私も折れて深くは追及しなかった。

 待たせてしまうのは申し訳なく思うが、それほど私のことが好きなんだと思うと心底嬉しくて、私もより彼が大好きになった。

「佑唯が言ってた公園ってここから何分くらいだっけ」

「10分くらいで着くと思う」

 私達は今ショッピングモールに来ていた。今までのデートは全て屋内だったので、たまにはピクニックをしようということになった。そこで今朝は私がサンドイッチを作った。ここではジュースやお菓子を調達することになっている。

 彼と手を繋いで専門店街を巡る。店内は冷房が効いていて半袖だと少し肌寒いくらいだった。

「ちょっとここ寄っていい?」

「いいよ」

 専門店の1つのファッション店だ。特に用もないのに物色したくなるのは恐らく女子特有の病気だろう。彼は嫌な顔1つせず付き合ってくれた。

 目当てもなく品物を眺めていると、1つの小さなショルダーバッグに目が留まった。水色を基調とした夏の匂いがしそうなものだ。何故目に留まったかというとセールの札がついていたからで、元値が4000円のものが半額になっていた。

 少しだけ長めに眺めた後、それを戻して店を出たら、彼に声を掛けられた。

「あれ、良かったの?」

「うん、他にもバッグ持ってるし」

「ふーん」

 食品売り場に向かおうと歩いている間、彼は急に無口になってしまった。どうしたんだろう、と思っていると、彼は意を決したように「ちょっとトイレ行っていい?」と言った。

「いいけど……お腹痛い?大丈夫?」

「大丈夫、ちょっとね」

 彼が小走りでトイレに向かったので、近くにあったソファに腰かけてスマホを取り出した。

 彼の温もりがないとほんの少し寒かった。早く帰って来ないかな、そう思いながらタイムラインを眺めた。

 5分ほどたった頃、私を見下ろす気配を感じた。彼かと思って見上げると、顔も知らない2人組の男が目に映った。

「ねぇ、暇だったりしない?」

「誰か待ってるの?」

「一緒にお茶しない?」

 口々に声を掛けられて私は混乱した。いわゆるナンパというやつだ。私はいつもより脚の露出が多めの服装にしていた。彼等の視線は時折私の太腿に向けられた。

「え、えっと……」

 彼氏持ちだと言えばきっと退散してくれるだろう。そう分かっていても口が上手く回らない。全身の血液が凍っていくような感覚がして呼吸が浅くなる。

「おまたせ~佑唯~」

 もう少しで器官の機能が停止しそうだったところに、耳慣れた声が聞こえた。少しずつ血液が解凍されていく。

「あれ、この人たち誰?友達?」

 見事に不純な瞳をしているナンパ師と並ぶと、彼の純粋な瞳がより透き通って見えた。私は何事も無かったかのように、「何でもないよ、行こ」とナンパ師を背にして彼の手を引いた。

 強ばっていた身体が少しずつ戻っていく。彼は先程の男について特に言及はしなかった。代わりに手に新しい袋を提げていた。

「あれ、これどうしたの?」

「あ……」

 彼は少し耳を赤くした。そしてその袋を私に差し出した。

「これ、佑唯へのプレゼント」

「え~?なに~?」

 中身を見ると、セールの札がついた水色のバッグが入っていた。

「え、これ、さっき買ってきたの?」

「うん、なんか、欲しそうだったから……」

「これからピクニック行くのに?」

「あ、そっか」

 新しい知識を発見した時のような表情を向けられたので、私は思わず笑ってしまった。そして何故か涙が滲んできて、慌てて袋を覗き込んで隠した。これは彼に貰った始めてのプレゼントだった。

「ありがとね、陽斗」

 彼は綺麗な歯を見せて笑った。それからすぐに、2人は腕を組んで歩き始めた。


 必要な物を買い終えて自動ドアの前に立つと、外の湿っぽい空気が身体に貼り付いてきて思わず顔をしかめてしまった。今年はここ10年で1番の冷夏らしいが、それでも十分に暑かった。

「めちゃくちゃ暑いね~佑唯無理しないでね」

「うん。公園には水遊び場もあるから、ちょっとは涼めると思うよ」

 その公園は私が住んでる市の中でもトップクラスの広さを誇る場所だった。公園の中に川が流れており、川とは別に水遊び場があるので、この時期は家族連れでよく賑わっていた。

 自転車に乗り、公園に向かう。少し汗ばんだ身体に吹くぬるい風は程よく気持ちよかった。


 公園の駐輪場には私達のものより一回り小さい自転車が並んでいて、自分たちが出る杭のように見えた。久しぶりに自転車に乗ったので、私の太腿は文字通り棒になってしまった。

「やばい、歩けない!どうしよう!」

「運動不足過ぎじゃない?俺がおんぶしてあげよっか?」

 ニヤニヤしながら私を眺める彼に「調子乗んな」と言葉を投げつけ、私は歩き出した。最初の数十歩はペンギンのような歩き方になってしまっていたが、だんだん張り詰めた筋肉が緩んでいった。

「めっちゃ暑い、水のところ行きたい」

「私も、じゃあ最初にそこ行こっか」

 まだお盆休みでは無いからか、思っていたより家族連れは少なかった。水遊び場はちょっとした小川のようなものになっており、足首くらいの深さだった。それなりに長さがあるので、私達は小学生の群れから少し離れたところで靴を脱いだ。

「足湯ならぬ足水だね」

「はは、何それ。語感悪すぎない?」

 汗ばんだ彼の顔は日光にあたって輝いていた。男らしい顔と言うわけではなく、どちらかというと中性的な顔をしているが、日光が似合う男だな、と思った。

「足だけ入ってるだけでも結構涼しくなるもんだね」

「ね、気持ちいい」

 5分ほど小川で涼んだ後、お昼を食べることにした。木陰を見つけて2人でレジャーシートを引き、ほぼ同時に寝転んだ。

「はぁ~。ずっとのんびり生きていたいね」

「ほんとそれな。夏休み終わんなきゃいいのに」

 寝転びながら見つめ合う。いつになっても、こんなロマンチックな空気には慣れなかった。彼は周りを一瞥した後、そっと唇にキスしてくれた。彼という人間をそのまま表したかのような、優しいキスだった。

 口元だけを上げて、目を細めて私に笑い掛ける彼は、大人の表情をしていた。キスをした後、彼は毎回そんな表情を私に向けるから、私は更に彼に依存する羽目になった。

「さて、ご飯食べよっか」

 起き上がってお弁当を広げる。朝5時に起きて作ったサンドイッチだ。それだけだと飽きるかもしれないので、唐揚げや卵焼きなど、お弁当のおかずとして定番のものも作っておいた。

「すごーい、こんなに作ってくれたんだ」

 先程の大人の表情とは打って変わって、子供のようなキラキラした笑顔を向けてくるので、私は危うく漫画のように鼻血を出して失神しかけた。この男は自分の魅力を自覚している。仮に無自覚だとすれば尚更重罪だ。

 あまりに素敵すぎるから、彼が他の女に取られてしまいそうで常に不安感に苛まれていた。でもその不安感も、彼を前にすると全て忘れていられた。永遠に彼の傍にいたい。本気で、そう思った。

「美味しい、佑唯料理上手だね」

「ありがとう。料理褒められたの家族以外だと初めてだから、めっちゃ嬉しい」

 彼は唐揚げを頬張りながら、こう言った。

「良いお嫁さんになりそうだね、佑唯」

「私は陽斗のお嫁さんになりたい」

 私はそう言った後、ハッとした。心の中で留めておくつもりだったのに、声にしてしまったのだ。でも彼は「えへへへへ」とアニメでしか聞かないような笑い方をした後、

「俺も佑唯のお婿さんになりたい」

と言ってくれた。

 心底、嬉しかった。今すぐ彼を押し倒したい衝動に駆られたが、お弁当が広がっているので必死に我慢した。

 彼との結婚生活を毎晩のように妄想していた。仕事から帰ってきた彼をお出迎えして、手料理を披露する妄想。彼とお風呂に入りながら、お湯をかけあって遊ぶ妄想。彼と抱き合って、脚を絡め合って寝る妄想。

 どれもが理想的だった。私の幸せの完成形はそこにあるんだと確信していた。もう私の将来は、彼が傍にいることを前提としたものとなっていた。

「卵焼きに砂糖入れる派なんだね」

「うん。甘いのあんま好きじゃなかった?」

「親がだし巻き玉子派だからさ、多分初めて甘いの食べたけど、甘いのも美味しいね」

 彼は本当に美味しそうに私の作ったお弁当を食べてくれた。私は元々少食な人間なので、大部分を彼が平らげた。

「ごちそうさまでした。めっちゃ美味しかった」

「ありがとう。作った甲斐があったよ」

 お弁当を2人で片付けた後、不意に彼を押し倒した。彼が「ちょっと、今お腹苦しいからタンマぁ」と呻き声をあげたので、とっさに「ごめん」と彼から身を離す。

「大好きだよ、佑唯」

「私の方が大好き」

「いや、大好き度では俺の方が勝ってるよ」

「そんなわけないよ~私の方が絶対大好きだもん」

 聞いているだけで恥ずかしくなるようなやり取りだが、私はこれが楽しくて、大好きだった。

「ねぇ、キスしていい?」

「いいよ」

 今度は私から唇を重ねた。それから彼を抱き寄せた。沢山の愛を送るために。きっと彼への愛は、一生かけても全て伝えきれないだろう。そう思うくらい、私は彼を愛していた。

 それから20分ほど談話しながら休憩した後、帰りの支度をした。荷物もそれなりに多いので、この後はどこにも寄らず真っ直ぐ帰ることになった。お菓子は結局食べなかった。2人で分け合ってお金を出して買ったが、彼が全て私のものにして良いと言ってくれたので、その言葉に甘えることにした。

 いつものように、彼は私の家まで送ってくれた。

「今日は楽しかったよ。またデートしようね」

「俺は夏休み中ほとんど暇だし、また遊ぼうね」

「うん。大好きだよ陽斗」

「俺も大好きだよ、佑唯」

 彼は私にキスした後、手を振りながら颯爽と去っていった。

 私は今日彼に貰った幸せを、心の中でゆっくり消化しながら玄関の扉を開いた。こんな日々がずっと続けばいいのにな、と思った。


----


 幸せにはタイムリミットがある。必ず破綻する時が来る。それを知っていれば、私の未来は明るいものだったのだろうか。


 私はその公園に、彼に貰ったショルダーバッグを肩にかけてやってきた。

 どうしてここを死に場所に選んだのか、自分でも良く分からなかった。単純に入水自殺するなら他にも良い場所があるはずだった。

 どうしてこんなことになったのだろう。どうして私は、自殺しなければいけないのだろう。

 考える必要も無かった。その原因を私ははっきり覚えているからだ。更に言えば、その原因を作ったのは他でもない、私だからだ。


 終わりの始まり。それは付き合ってから9ヶ月が経過した冬のことだった。


----


 外に出るのが億劫な今の季節は、デートも家で済ませることが増えていた。

 今日のデートも例外ではなく、私は彼の自宅に遊びに来ていた。

 付き合って9ヶ月になるのに、まだキスまでしかしていなかった。そのことへのもどかしさが日に日に増しており、今日は性周期の関係もあって尚更もどかしかった。

 彼と交わりたかった。共に愛を分かち合って、そのまま溶けて消えてしまえれば良いと本気で思っていた。

「今日は親が早めに帰ってくるからさ、遅くとも5時までしか遊べないと思う」

「うん。分かったよ」

 時計は3時を示していた。あまり時間が無いように思えた。私は全身の空気を入れ換えて、震えそうになる手を抑えて彼に近づいた。

「抱き締めても、いい?」

「……うん」

 私が立ち上がると彼も立ち上がって、私の腰に手を回した。私も手を回して、少し強引に彼のベッドに押し倒した。

 胸が大きく高鳴るのを感じる。彼の鼓動も良く聞こえた。私達はしばし無言で抱き合った。

 私が彼に覆い被さっている形で、見つめ合った。彼の瞳は相変わらず純粋なままだった。そして少しだけ、怯えた光が見えた、気がした。

「愛してる」

 私は彼と唇を重ねた。彼はほとんど無抵抗だった。私がこうしたかったように、彼も同じことを思っていたのかもしれない。お腹の奥が熱くなるような感覚がした。ほぼ無意識に、彼の下腹部へと手を伸ばした。

 その瞬間、その手が何かに強く掴まれるのを感じた。それとほぼ同時に、私は強い力によって押し返された。あまりに強いから、私は後ろに倒れそうになった。

 何が起こったのか、分からなかった。私の目に映っているのは、怒っているような、怯えているような、掴み所のない表情をしている彼だけだった。その輪郭にピントが合った途端、私の目には背けていた現実が一気にフラッシュバックした。


 付き合って半年が経った頃から、だんだんデートや通話の回数が減っていった。代わりに、彼が他の特定の女と会話している姿を見かけることが増えていった。

 私は毎日のように嫉妬して、不安になった。だから束縛、とまではいかないが、彼に何度も「他の女の子とはあんまり関わらないでほしい」とお願いした。彼は決まって「ただの友達だから大丈夫だよ」と言って聞かなかった。

 彼に好きと言われる回数も明らかに減っていた。彼から好きと言ってくれることは今はもうほとんど無くなってしまった。私が「好き」と言った時に「好き」と返すだけだった。

 私は日に日に焦りを感じていた。信じたくはないが、ほぼ確実に、彼は私への興味を失っている。私への好意が薄れている。このままでは彼が離れていってしまう。それが怖かった。捨てられたくなかった。

 どうにかして私をまた好きになってもらいたい。そう思って私は薬局で避妊具を買った。これしか方法は無いように思えた。私の身体を通して、また好きになってもらえると、そう思っていた。


 でも彼の顔を見れば分かる。彼は私の身体を求めてなどいなかった。いや、私は心の底では分かっていた。勘づいていた。でもそれを認めたくなくて、強引に行動した。結局は、自らの手で、存在しない愛を発見したようなものだった。


 涙が溢れてきた。ずっと私に溜まっていた感情の液体だった。止まりそうも無かった。彼は俯き気味のまま、何も言わずに漂っていた。

 10分以上、私は涙を拭くことを知らない赤ん坊のように、涙をボタボタと彼のベッドにこぼし続けた。もう彼の表情も見えなかった。

「ごめん、もう帰るね」

「……そっか」

 声が震えてもはや言葉にならなかったが、彼には伝わったようだった。彼は上着を着せてくれた。そして玄関まで送ってくれた。

「気をつけてね、佑唯」

「うん。ばいばい、陽斗」

 私は精一杯の笑顔を彼に向けた。目が真っ赤で、涙で頬が濡れている笑顔だ。彼の目にどう映ったのか、私はもう知ることができない。


 それから2日間、彼とは連絡がつかなくなった。私も連絡をしなかった。たまたま連休中だったので、私はずっと家に籠っていた。

 どうして彼との心の距離が離れてしまったのか。彼は私に飽きてしまったのだろうか。何か原因があるようにも思えた。でもそれを探りたいとは思わなかった。何となく、嫌な予感がしたからだ。


 連休の最終日、彼からのメッセージが届いた。《話があるんだけど》との事だった。私は深く深呼吸して、《何?》と返信した。

《別れてほしい》

 話の内容なんて、元から、分かっていた。

《もう佑唯への恋愛感情を抱かなくなった。だから、これからは友達として、仲良くしてほしい》

 文面だけでは、これが彼なのかどうか分からなかった。まるで別人のようだった。こんな大切な話を、文字だけでするような人ではないと思っていたのに。

《そっか。今までありがとね》

 私は震える手を抑えて別れを承諾した。あたかも常識であるかのように。彼の《こちらこそありがとね》というメッセージで、会話は終了した。あまりにも淡々としていた。

 それから私は、声を上げて泣いた。家には誰もいなかった。私の心にも、誰もいなかった。だから憚ることなく、幼児みたいに泣いた。

 私は彼を失った。私を求めてくれていた彼は、もう何処かに消えて無くなってしまった。私の心はもう、空っぽ同然だった。大きな穴が空いて、何もかも、こぼれて消えてしまった。

 彼との美しい日々がフラッシュバックして、私の泣き声は勢いを増した。もうあんな愛おしい日々は、私の元にはやって来ない。


 死のう、と思った。彼の愛は私にとってのガソリンだった。それが無くなったことによって、生存意欲がほとんど消え失せてしまった。

 でも、あと一歩踏み出せなかった。彼を諦めきれなかった。まだ死ぬのが怖かった。だから日常を取り繕うことにした。たとえ友達としてでも、彼の傍にいたかった。

 彼は友達として、思った以上に親しく接してくれた。学校では、彼の前では必死に笑顔を作った。だから余計に苦しかった。友人としての親しさでは、私の心の空洞を埋めることはできない。

 毎晩のように、泣いていた。良く眠れない日が続いた。心も身体も疲れてしまった。気分はずっと、沈んだままだった。


 別れを告げられてから2週間ほど経った頃の夜、スマホの通知音が鳴った。誰からだろう、と思って開くと、私は嫌な予感が少しずつ実体化していくのを感じた。メッセージは、彼とよく話している女からのものだった。

《急にごめんだけど、通話できたりする?》

 あまり話したこともないのに、いきなり通話に誘われた。実体化した嫌な予感が膨れ上がっていく。でも断れるほどの器は持ち合わせていなかったので、《できるよ》と送った。そのすぐ後、着信音が鳴る。

『もしもし~?ごめんね~急に通話さそったりして』

「大丈夫だよ」

 彼女は所謂スクールカーストの頂点クラスの

人間だった。だから正直、あまり関わりたくはなかった。

『いきなりだけどさ~本題に入っていい?』

 彼女の人を馬鹿にするような笑みが浮かんだ。声色すら馬鹿にしているように聞こえた。はっきり言って不愉快だった。私はこの人が本当に嫌いなんだろうな、と思った。

『陽斗が佑唯ちゃんを振った理由、知ってる?』

 不意に、呼吸が荒くなった。この先の彼女の言葉から耳を塞ぎたいと思った。嫌な予感は、現実となって、私に襲いかかってきた。


 彼と私が付き合って半年が経過した頃、この女は彼を家に誘った。彼はこの女に、「佑唯がメンヘラでしんどい」と相談したらしい。この女は彼に、「とりあえず話聞いてあげるから家に来て」と誘った。彼はほぼ間髪入れずに承諾した、らしい。

 彼を家に上げたこの女は、そのまま彼をベッドに誘い、彼の初めてを奪った。それから2人は度々この女の家で交わった。

 私は言葉を失った。勿論、そのような事実にも絶望した。しかし何より、この女がその事実を、笑いを含んだ声で私に報告しているのが、この世の何より不気味なことに思えた。

『流石に初めてを済ませた後、あいつは泣いてたよ。多分まだ佑唯ちゃんが好きではあったんだろうね。でも身体は正直ってやつで、私がそれとなく誘うとのこのこついてくるの。そして回数を重ねるうちにだんだん私に惚れてきちゃったみたい。男って馬鹿だよね、ほんと』

 私は心の中でナイフが精製されるのを止めることができなかった。生まれて初めて、本気で他人を殺したいと思った。

『それで佑唯ちゃん振った後すぐ告ってきたから、私は振ってやったの。流石に佑唯ちゃんが可哀想だと思ったから。って、ねぇ、聞いてる?』

 この女は彼を弄んで、今度は私を弄ぼうとしている。この人は、いや、この知能を持った肉塊は、この世から消えないといけない。この肉塊を私が消して、世界を浄化しないと。心の中がナイフでいっぱいになった。

「聞いてたよ、全部。貴重な情報をありがとね」

 私は溢れる殺意を隠さず肉塊に告げて、すぐに通話を切った。それから何件か通知が来たが、全て無視して眠りについた。久しぶりの、深い睡眠だった。


「やっほ~佑唯ちゃん、用件って何?」

 あれから3日後、この肉塊はのこのこと現れた。私はいかにも友好的な表情を作って、肉塊を校舎裏に呼び出した。この肉塊には危機管理能力というものがないらしい。

「まぁ、座ってよ」

 空けておいたベンチに肉塊を誘う。真っ白な肌と整った顔の輪郭。制服の上からでも分かる、豊満な胸。脇腹から腰にかけてのライン。私には全てが醜く見えた。

「人を本気で好きになったこと、ある?」

 この肉塊の名前を声に出すのも不快だった。肉塊は怪訝な表情を一瞬向けた後、次のように答えた。

「はっきり言ってないよ。性欲だけは強いから、中学生の頃から毎週のように色んな男と遊んでた。そのうち何人かに告られたけど、全部無視した」

 薄々勘づいてはいたが、やはりこの肉塊は私が思っていたような粗大ゴミだった。何故ここまで自分の醜さを簡単に人に見せることができるのか、不思議だった。私が黙っていると、肉塊は退屈そうに言った。

「え、用件ってこれだけ?」

 やはり、人を馬鹿にする表情だ。癇に触る声だ。私の怒りは頂点に達した。

 私が急に押し倒したので、肉塊は頭を打って顔を歪めた。そのまま馬乗りになり、左手で首を掴みながら、右手でカッターナイフをちらつかせた。

 肉塊は呻き声をあげながら、必死に抵抗する。私は力が強い方では無かった。でも全ての感情を肉塊に向けているからか、身体を固定することはできた。

「お前なんか死ねばいい、必要無い。お前を殺して、私も死ぬ」

 肉塊の目から涙が滲みだした。言葉にならない声をあげながら、最後まで抵抗し続けている。これが断末魔というものか、と思った。憐れだな、と思った。

「ちょっと、何やってんの!?」

 聞き慣れた声がして、思わず力を緩めてしまう。その隙を突かれて、私は肉塊に押し返されてベンチから落ちてしまった。そのせいで背中を痛めた。

 声の主は彼だった。私を捨てて、こんな肉塊に惚れた、彼だった。

「大丈夫?」

 彼は肉塊に駆け寄った。私ではなく。

「怖かった……殺されそうになった……」

「え?」

 緊張がほどけたのか肉塊はしゃがみこんで泣き始めた。彼は私に目を向けた。それは紛れもない、憐れみの目だった。私の心を抉るための目だった。

「……佑唯がそんな人だとは思わなかった」

 彼が最後に私に送った言葉はそれだった。泣きじゃくる肉塊の両肩を腕で包んで、彼は去っていった。


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 それが、今から2日前のことだった。


 私は川の前に立っている。この川は水量が多く深いので、毎年のように死亡事故、またはそれに準ずるニュースが流れていた。

 最後に見た彼の姿。その瞳には、恋人でも、友人でもない。殺人未遂をした肉塊が映っていた。私は感情に任せて人を殺そうとした、精神を病んでいる、ただの犯罪者だった。


 私はもう、誰にも必要となんかされていない。

 私の細胞全てが、負け組なんだと悟った。


 既に意識が朦朧としていた。睡眠薬が効いてきているのだ。私はバッグから煙草を取り出した。

 煙草なんか絶対吸わないだろうと思っていたのに、私は死ぬために煙草を体内に入れ込もうとしている。惨めだなぁ、と思いつつ、2本ともまとめて口に含んだ。

 噛む度に、強烈な苦味が広がった。吐き出しそうになるのを必死に抑えながら、何とか飲み込んだ。その頃には眠気もすっかり覚めてしまい、視界が涙で歪んで見えた。

 そして私は、また声を上げて泣いた。もはや何の涙なのか、分からなかった。5分ほど泣いて落ち着いた後、バッグと靴を並べて置いた。

「お疲れ様でした」

「うん、頑張ったね」

 声に出して自分と対話した、最初で最後の瞬間だった。


 足首が水に浸かる。冷たくて、体温が下がるのを感じる。もう怖くはなかった。学校が終わって家に帰ることと大差なかった。

 そのまま、川の深いところに静かに飛び込んだ。そして流されながら、自ら沈んでいき、水を吸い込む。苦しくはなかった。


 彼の幸せを願いながら、私はゆっくりと、目を閉じた。

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