黒山羊の紋
黒山羊公ロドリック・クィスタンフ・ツィーベ・ヴィルベリヒト・オン・バルデンリンド――バルデンリンド公爵家当主にして、赤の位を有する騎士、そして天位の脅威足り得る者の証、丞天の称号を与えられた鬼才の魔導博士。
アズルトが忠節を尽くす彼の人物は、悪逆にして傲慢なる魔道狂いの外道公爵としてムグラノ全土に悪名を馳せている。
これは概ねにおいて事実だ。
金銭で人心を買い、武力で道理を捻じ曲げ、強権で秩序を踏み荒らし、目的のためには手段を選ぶことなく、ヒトをヒトとも思わぬ残虐さで以って邪魔者を排除する。
冷酷な人となりは多くの恐怖と憎悪、そして敵意をその身に集めてきた。
だが各界に渦巻く負の感情すべてが、彼の御方の所業に根差したものと断じることはできない。バルデンリンド公爵家そのものが、長いムグラノの歴史で呪いを育んできたためだ。
バルデンリンドの興りは後レナルヱスタ時代より遥か以前、ニザ後、あるいはニザ期などとも称されるルンテ・セチナ時代初頭にまで遡る。
しかし、今日における西バルデンリンドはその長い歴史の大部分を、ニザ東域守座の後背地として歴史の片隅に記されるだけの存在だった。
ベルニ人の共同体としてのバルデンリンドが歴史の表舞台に立ったのは、後レナルヱスタ教会歴も百八十年代に入ってからのことになる。
当時のムグラノ地方は、サスケント寺院が支持するイドラ、メルバ・イドラ諸族連合と、東のウダ・ガヤン主教座が支持するアメノ人、そして北のソトゴニア主教座が支持するメルフォラーバ人が覇権をかけて相争う長い戦乱の渦中にあった。
ベリトラーシュ大陸史上において初となる、主教座による本格的な代理戦争。
ムグラノ主教座最大の汚点、歴史から抹消された大ムグラノ教会戦争は、超国家的機構の介入により終わりの見えぬ泥沼の戦いと化していた。
状況を打開するため策を講じたのはサスケントであったと、バルデンリンドの記録には残されている。だが如何な過程があろうとも、バルデンリンドの領域をメルフォラーバ陣営が侵したという事実が、静観を続けてきたバルデンリンドに動機を与えてしまうこととなった。
そうして引き起こされたのがバルデンリンドによる東伐だ。
これによりムグラノ西部戦線の趨勢は決し、最大の勢力を誇っていたメルフォラーバ陣営は大きく力を削がれ、徐々にサスケント正当教会連合によって追い込まれてゆくことになった。
今日、東バルデンリンドと記される広大な地域は、この東伐でバルデンリンドによって築かれた西バルデンリンドとを隔てる緩衝地帯だ。元々メルフォラーバ陣営の勢力圏にあったこれらの地域には、当然のことであるがメルフォラーバ人が居住していた。いや、いると言うべきか。
四百年あまりが過ぎた現在においても、東バルデンリンドではメルフォラーバ人が最大多数派を形成しているのだから。
過去、ムグラノ主教座を得たメルフォラーバ人はムグラノ諸族を弾圧し、メルバ・イドラ人がこれを奪還した後は彼らがメルフォラーバ人の大規模な粛清を行った。けれどこれら血で血を洗う殺戮の歴史は、アメノ樹獄の発生の混乱とムグラノ主教座による徹底した隠滅に合い、多くが失われた歴史として闇に葬り去られることとなった。
その皺寄せを受けたのがバルデンリンドだ。いかに事実を隠匿し欺瞞で塗り固めようとも、現実としてそこに生きる人間までも無かったことにはできない。バルデンリンドの土地には今なお多くのメルフォラーバ人が囚われ、ランクート公国が言うには、不当に搾取と弾圧を受け続けているらしい。
バルデンリンドとメルフォラーバ人との確執は『ムグラノの水紋』において、同胞の解放を大義名分としたランクート公国によるバルデンリンド侵攻の形で噴出する。そしてあろうことか、ムグラノ諸侯はこれを黙認するのだ。
情勢がメルフォラーバ派との対立を許さなかったのだという見方もある。だがそれが建前でしかないことを、今のアズルトは肌身で感じていた。彼らの望みとは畢竟、バルデンリンドとランクートの共倒れなのである。
アメノの臨界を目前に控え、ムグラノの戦力を削る行いは極めて愚かしいことだ。けれど再封印後の勢力の均衡を考えた時、ランクートの野心を思えば余力を残されては厄介であったし、なによりも東征に参加しないバルデンリンドに相応の負担をさせたいという、極めて貴族的な思惑が働くであろうことは疑う余地もない。
そもそもの話として、バルデンリンド公爵家はほぼすべてのアーベンス貴族から妬みと恨みを買っているのだ。先に述べた東征の免除を皮切りに、バルデンリンド公爵家には他の諸侯とは一線を画す特権がアーベンス王家より与えられている。
バルデンリンド公爵家は国法で縛れない。与えられた――と言うよりは建国に際し認めさせたこれらの特権は、言うなれば治外法権に等しい。
統治者である王家に準ずる権力を一貴族が有する歪さは、国家としての在り方を覆し得るものだ。にもかかわらずこの例外が認められた背景には、ムグラノ主教座の積極的な後押しがある。
ムグラノを統括する主教座としては、ニザ東域守座でもあるバルデンリンドがムグラノ地方への過度な介入を行うことを阻止したい狙いがあったのだろう。バルデンリンドの要求を呑みその所領への王権の介入を禁止するとともに、自らを調停役と定め、バルデンリンド公爵家が王国内で権力を濫用することを抑止する。政治的な仮想敵の存在と抑止力としての主教座、これらによって不和を抱えるアーベンスという国家を一つに纏め上げようとしたわけだ。
試みは半ば成功したと言ってよいだろう。ムグラノの敵意と悪意を集めるバルデンリンドが他領からの直接的な攻撃を免れていたのは、偏に特権に支えられた絶対的な正当性を有していたからに他ならない。そしてそれは翻って、バルデンリンドによるムグラノへの介入の口実を潰す役を担ったという成果に繋がる。今日における宮廷の権勢、二公派の勃興も本を正せばこの特権成立の背景へと行き着くのだ。教会という国家の上に位置する機構の思惑によって、地上世界の秩序が形作られる良い例である。
だが国に根差し地に生きる者らにとっては目に見えるものがすべてたった。
ニザ瘴土帯よりもたらされる魔法資源は、アーベンス王国をしてムグラノ地方第一の国家足らしめる要因の一つともなっている。恩恵を独占するバルデンリンドへの批判と糾弾は内地貴族、果ては純血派に至るまで絶えることがない。アメノ大迷宮の恩恵すら受けられぬランクート公国に至っては言うに及ばずである。
そしてそんなバルデンリンド憎しを助長させたのが、歴代の公爵の権力を頼みにした有無を言わさぬ排斥だった。
教会に媚び諂い、私腹を肥やし、民を虐げ、王権を蔑ろにする悪辣外道。
今の世におけるバルデンリンド公爵家の評判は、底に穴を穿つレベルで目も当てられぬものだ。しかしこれがまた真実を含んでいるのだから救いようがない。
東バルデンリンドの政治の腐敗は著しい。それこそアーベンス宮廷とどちらが酷いかと論ずる域と言えば、具合の悪さも窺えよう。端から潰れ役を負わされた土地であり、本家からは見放され、その統治は大部分が分家の裁量に委ねられているのだが、分家――すなわち公爵家を継げぬ、西バルデンリンドへの立ち入りも許されぬ歴代公爵の子女が権力を恣にし、同地の全権の掌握を目論み権勢を競う蟲毒が如き様相を呈していた。
このことからも分かるように、バルデンリンド公爵家にとり封域とは西バルデンリンドのみを指すのだが、外界の理解は凡そにおいて東バルデンリンドに囚われている。
主たる要因は西バルデンリンドの情報が乏しいからだろう。
西バルデンリンドの領境は高く堅固な長城によって閉ざされ、住人の排他的な気質はその内情を窺わせない。加えて西バルデンリンド民にとっては外界の悪評など家畜の惨めったらしい叫びに等しく、興味の埒外にあるそれを労を押してまで訂正するモノ好きがそうそういないというのも理由になろうか。
そんなわけでアーベンス建国以来、バルデンリンド公爵家とムグラノ貴族とを隔てる溝は深まることはあっても埋まることはなかったのである。歴代の公爵はアーベンスの国政には関心を持たず、有する権力とは裏腹に政財界での影響力は失われつつある。それだけに、その娘リズベット・ベイ・バルデンリンドと第二王子ルドヴィク・ラファ・アーベンスの婚約がもたらした衝撃は大きかった。あまりにも、大き過ぎた。
数年のうちにムグラノは彼を中心に大きく揺れ動く。アーベンス諸侯はこの婚約に否定的な立場を固持し、ランクート公国もまたアーベンス王家とバルデンリンド公爵家との間に亀裂が生じる瞬間を虎視眈々と狙っている。であれば、それは定められた未来なのであろう。運命という言葉を使うのは癪だが、そうした類の逃れ得ぬ『ムグラノの水紋』の名を冠す時の流れ。
もっとも、アズルトに言わせれば「だからどうした」というものであったが。
たとえ未来が決まっているのだとしても、アズルトのやることは変わらない。やるべきことは、と言うべきか。
アズルトには果たすべき主命がある。そのためにアズルトは今、学園にいるのだから。
廊下の細い窓から外を見下ろせば、中庭を行き交う生徒たちの姿が目に映る。
そこに、高位貴族の一団が紛れ込んだ。
取り巻きが尾を為す彼らの行脚は遠目にもすぐそれと分かるものだ。
アズルトはその中に覚えのある姿を見つけた。
吹き抜ける風に豊かな青銀をたなびかせる。
貴族らしい優雅さでもってそれを押さえた大人びた少女が、傍らのすらりとした黒髪の少年に微笑みかけていた。
ランクート公国第三公女シャルロットと、目立つ服装からしてバルデンリンド公爵家長男クラウディスだろう。ならば彼女らを先導するように歩く金髪の少年はアーベンス王国第二王子ルドヴィクで相違あるまい。
アズルトはその在り得べからざる組み合わせに、手が早いことだと感嘆の念を抱く。
未だ二節と経っていないのだ。三家の立場を思えば、驚きを通り越してもはや呆れの境地であった。
「どうしたんだ?」
アズルトの足が止まったことに気づいたクレアトゥールが振り返り、疑問を口にした。
いや。外套を膨らませている尻尾を見るに、これは早くしろという訴えだ。相変わらず欲望には忠実と言うか、だからこそアズルトも助かっているわけであったが。
「いや、なんでもない」
手にした本を抱えなおし誤魔化す。わざわざ気の悪くなるようなものを見せる必要もなかろう。
アズルトは速足で空いた距離を埋め、すでに動き出していたクレアトゥールの隣に並ぶと歩みを合わせた。
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