04
霧の道を抜けるとそこは湖であった。湖面に映る月が夜の底を白く照らしていた。
二人はどちらからとも無く手を離すと、男は夜空を見上げると何かを指さしながらぶつぶつとつぶやきはじめ、静は一通り周囲を見回し人影の無いことを確認すると抜きかけていた刀を鞘に収めた。
「何を見ているのです、主殿?」
周囲の地形を確認し、山中の湖だけではとても候補を絞りきれないなと落胆をできるだけにじませないよう努力して声をかければ
「ああ、とりあえず別世界とか、そんな変なオチは無いようで助かったよ。北斗七星があって、オリオン座があって、少なくともここは地球で昼間の人影からすれば日本だ」
安堵のため息を漏らしながら男はそう答えた。なるほど、夜空を見上げていたのはそのためかと納得しながら静は改めて声をかけた。 「それで、これからどうしますか?」
「うん、予定通り自分たちのチカラの確認だ、少し跳んだり跳ねたり変身したりしてみてくれ」
男の言葉に数度地面を踏みしめ感触を確かめると、文字通り砂を蹴立てて爆ぜたように走り出した。途中数度に渡り跳ね回り急激な方向転換をする様などは見ているだけで目が回るようであった。最後は一瞬立ち止まったかと思うと体が一回り以上膨れ上がり額に角まで生えた上で湖に向けて居合いを放ち、湖面を一部割るまでした。近くの木に止まっていた鴉が鳴き声を上げて飛び立った。
「おー」
ぱちぱち、と歓声と拍手を送ってきたのは勿論静に力を振るうよう依頼をした男である。 「何をしておいでですか、主殿」
問われた男の方もこれはこれで異様であった。
紺の小袖に空色の股引き、白の脚絆に樫の杖、あまつさえ風呂敷で包まれ肩掛け紐を付けられ「くすり」と墨書された背負い木箱である。静の脳裏をお庭番の言葉がかすめた。
それが多少の運動の熱などすぐに冷めてしまいそうな寒さを伴う夜の湖畔で木箱を下ろし引き出しを開け中から数種の薬を取り出してひとつずつ服用しては目を閉じたり手を開いたり握ったりして何かを確かめている。
昼間の街角であれば薬の行商が自分の製品の確認をしているで済ませられるが、状況が状況である。静は一瞬自分が怪しげな薬物取引の立会人か用心棒にでもなった気分になった。自分が引き起こした湖の波が収まりつつあるのを視界の端に納めながら話しかけた。
「梅子の薬の効果は確認できましたか、主殿」
「分かっているのに何で質問するかな」
「こちらにはこの寒さの中運動させておいてご自分はのほほんとおくすりとは、いいご身分ですねと言いたいのです」
まあまあ、と身振りもまじえてなだめながら男は結果報告に移った。
「強化薬は効果あり、持続時間はともかく効果幅も変わらず、あとはーーっ」
懐から小刀を取り出すと自らの腕を傷つけ仕舞い、代わりに木箱から軟膏を取り出し少量塗りつけた。がまの油もかくや、というほどに傷はきれいさっぱりと消えた。いつの間にか近づいていた鴉がこてんと首をかしげた。
「傷薬も効果あり、静、念のため自分でも確認しておいて」
軟膏の瓶を差し出した。静は右手で受け取ると左手で腰の刀の鯉口を切ると指を滑らせ、目の前に持ってきて出血を確認すると軟膏を塗りつけた。こちらも傷はきれいさっぱりと消えた。男はそれを見届けると
「ん、各種薬品の確認は終了っと、それでは本命の連絡用品に行きますか」
木箱から今度は札を取り出した。六寸ほどの長さのそれを左手に持つと
「あーあー、静さん静さん、聞こえますか?どうぞ」
静の耳朶と頭の中をそれぞれ同じ声が刺激した。微妙にタイミングがずれて聞こえるので声が響く。敢えて口では無く心のみで返答する。
「はい、聞こえておりますよ」
「よし、じゃあ次だ」
男は返答を聞くと手に持った札を投げ捨てた。札は音も無く崩れ始め瞬き二つ程度の間に塵となった。そして新しい札を取り出すと今度は
「玉藻ー、玉藻ー聞こえるかー」
と声をかけたが、むうとひとつうなると
「効果範囲外か」
とぼやいた。そして一度息を吸い表情を改めると
「雪、聞こえるか雪、聞こえたら答えてくれ」
改めて札に話しかけた。同時に静も体を男の方へと向き直らせた。しかし
「効果対象外?どういうことだ?」
男がぼやくうちに札はまたしても塵と化した。
「玉藻さんに対して使えなかったのはこちらとあちらが別物だという扱いとして、雪さんは効果対象外?こちらにはいるけれど仲間扱いでは無い?ありえないことですが自分から離脱した、もしくはあまり考えたく無いことですけれど捕らえられている、とか?まさか」
「状況要約ありがとう。でも本当に考えたくないな。」
男は謝意を述べながら頭を回転させ始めた。前衛担当のため脳筋扱いされることの多かった静であるが、実際は万能型である。それを理解できなかった馬鹿者たちにはきっちりと授業料を納めてもらったものである。
その静の分析である。一定の信頼はおかれてしかるべきであった。そして少し考えると言葉を発した。
「よし、一旦帰るぞ、静」
「こちらの環境は多少情報も取れた、雪がこちらにいて何か厄介事に巻き込まれただろうことも予想がついた。みんなも心配しているだろうし、一旦帰って今後の事を相談しよう」
そう方針を示された静はしかし、周囲を見回すと
「ええ、ですがどうやって帰りますか?」
問われ男も周囲東西南北を見回した。
東はやや開けている。遠目にいくらか明かりが見えることから人家もあるのだろう。
西は湖である。湖面には夜霧が漂い人気のなさと相まって幽玄の趣を漂わせている。
南は山である。ろくな明かりの無い、本当の意味で夜の闇をまとった山はそれだけである種の威圧感と不安を与えずにはおれない存在であった。
北も山である。北極星の存在で北と知れるが、麓が東と続きの平地になっているであろう事が見て取れる。
ここで男は牛若の言を思い出した。鴉は霧を通って帰ってきたと。つまりは帰り道は西の湖ということである。
ただでさえ肌寒い夜の湖畔であるが、さらに水の中へ入って行けということである。
知らず唾を飲み込み、男の喉仏が上下した。ため息と一つつくと、木箱の中へ広げた道具をしまい込み、蓋をして風呂敷包みで覆うとその背に背負い、片手で杖を持って静に対して声をかけた。
「悩んでいても仕方が無い、行くぞ」
「はい、お供します主殿」
声をかけられた方は軽やかに返事すると男の傍らに寄り添い、口笛一つ吹くと近くまで来ていた鴉を手招きした。
いぶかしげな男に対して
「牛若の鴉でしょう?一緒に連れ帰ってやらないと可哀想でしょう」
説明に男が納得の表情を見せるとさあ、と右手を差し出した。男はその手を取り湖へと足を踏み出した。
深夜の人気の無い霧の湖。手に手を取ってしずしずと進んでいく男と女。かたや行商の薬売り、かたや男装の女武者。演劇ならば終幕。今生で添い遂げられぬ嘆きと来世での再会を誓う言葉とともに、観客席からすすり泣きが聞こえてくれば成功であろう。
しかしこれは現実の物語。まだまだ幕は閉じる気配は無い。
二人は湖の中へと足を進め続ける。始めは足の裏が浸かる程度のちゃぷちゃぷといった風情もはや脛まで浸かりじゃぶじゃぶ、という音へと変わっている。
只でさえ寒中の更には水中である。足の寒さは文字通り刺すような冷たさであり、二人が感じているのも寒さでは無くもはや痛みであった。
行きは文字通りはぐれないように手をつなぐ、と行った形であったが今回は腕を絡めるような形へと変わっていた。そこに男の緊張を不安を見て取った静は今の状況から一つ悪戯を仕掛けることにした。己が右手と絡んでいる男の左手に体を寄り添わせるようにしながら
「主殿」
「うん?」
「太宰治をご存じですか」
「それ今一番言っちゃいけないやつだから」
叫び声とともに腕越しにびくりと全身を震わせる感触が伝わって来たことに、静は己の企みの成功を感じ取り笑みをこぼした。やはり深刻ぶって悲観するより、自分たちは珍道中で笑い飛ばす方が性に合っている、と。
この一連のやりとりの間中、牛若の鴉は静の左肩に止まり、羽ばたき一つ、鳴き声一つあげずじっとしていた。主と違い、実によくできた鴉であった。
一方で脛まで水に浸かりなお水深の深い部分へと歩みを進めていることに一抹の不安も覚えていた。できることなら腰まで浸かる前に『帰り道』へと入りたい物だが・・・・・・
静の内心に応えたかのように、不意に足下の感触が変わった。先ほどまでの土台がありつつもどこか柔らかさを感じるそれでは無く、しっかりとした地面の感触である。なによりあの刺すような水の冷たさが無くなっている。 歩みを進める男女はどちらからともなく視線を合わせて微笑み合うと、踏みしめる足に力を込めた。
一方その頃拠点では
「兄貴達遅いねー、梅子は心配じゃない?」
「・・・・・・大丈夫、待ってる」
湖にかかる桟橋の先、わだかまる霧を前に暇を持て余す留守番組がいた。座り込んで足をぶらぶらとさせている。
本来ならば今のうちに明日以降に控えている本格的な調査のための下準備、食料飲み水医療品その他消耗品の用意をしなければならないが、いつ門が閉じるとも、いつ仲間が帰還するとも限らない。
ならばせめて、いつ『その時』が来ても動けるように待機している、というのは当然の人情でーー
「あなたたち、しゃべっているならせめて無駄話でなく段取りの話にして下さいまし」
苦情を言いながらも手にした帳面に必要品の数量その他を書き付け、段取りに余念が無いのは玉藻である。
留守番組の責任者であり、只一人の年長組であることが、彼女にだらけることを許さなかった。
「そうは言っても姐さんも心配じゃ無いの?」
「旦那様と静さんの二人でそうそう問題が起きるわけも無いでしょう、貴女がついて行ったのならともかく」
くだらないことを言うな、とばかりに鼻を鳴らす玉藻に対してしかし牛若は、
「いや、二人だけだからこそ心配なんじゃん、『間違い』が起こらないとも限らないし?」
と、とんでもないことを言い出した。
何を言っているのかと胡乱なまなざしを返す玉藻に対してしかし牛若は、
「そりゃ、兄貴が静姉に手を出すことは無いと思うよ。でも静姉からは?せっかく二人っきりなんだし、こんな機会そうそう無いとか考えちゃったら?」
と畳みかける牛若に対して玉藻は
「あなたじゃあるまいし、そんなことあるわけ無いでしょう」
そっけなく返した。
しかし先ほどまでと違い頭の狐耳は上下にせわしなく起き伏せを繰り返し、背中の尻尾は獲物を狙う八岐大蛇もかくや、といったうねりようである。そのあまりにも正直な内心の動揺を見た牛若は内心
「うわあ、静姉信用無いなあ」
と、己の失言を後悔した。普段まとめ役をしている分、いざその制約が外れたときには何をするか分からない、と見られていると言うことである。しかし、
「でも相手があの兄貴でしかもこの状況だもんなあ、誘われたって乗らないだろうなあ」
と先の自分の言とは違い、そういった方面の心配は全くもってしていなかった。するとその時、前方の霧から己の使い魔の気配を感じた。うん?と顔を向けると羽ばたきの音に遅れて霧の中より鴉が一羽飛んできて無事を知らせるように体の周りを一周した後肩に止まった。
「兄貴達、帰ってきたみたい」
知らせの声より早く梅子は立ち上がり霧の前へと進み、玉藻は帳面を着物の袖の中へとしまうと代わりに扇子を取り出した。
最後に牛若が進み出でて三人そろい、出迎えの準備が整ったところで霧の中から人影が見えてきた。
しかしそれが詳しく分かるまでに近づくと玉藻は扇子を取り落とし、牛若はにやにやと笑い、梅子は顔を赤らめ掌を頬に当てた。
歩み出てきたのは、自分たちの主であったのだが、一緒に帰って来た静はその左腕を抱きしめるように寄り添っていたのだった。
すみません。
4月中の予定が5月になってしまいました。
何とかペース上げないといけませんね。