02
水面の向こう側に人の姿を見る、小説などではたまにある光景だが、実際に体験してみると光の反射や水面の揺らぎで存外と見にくいものだな、とやや場違いな感想を男は抱いた。
突然ゲームの世界から抜け出せなくなった混乱も落ち着かぬまま、行方不明の仲間を探して拠点都市内を捜索すれば、拠点中央の湖に異変が発見され、すぐさま全員集合となったのであった。
水面に人の姿が映る、と聞き慌てて湖畔に幾つかある桟橋のたもとまで来てみたがさてこの後どうしたものか、と考えていると鴉天狗の牛若が例によって考え無しな行動を取った。
「おおーい、聞こえるかー」
大声を上げて手をぶんぶん振っている。男が目を剥くより早く鬼娘の静はその手で牛若の口を塞ぎざま引き倒し、狐娘の玉藻は薄目を開けて油断なく水面を見つめ、河童娘の梅子はとてとてと牛若に歩み寄ると、組み伏せられているのを助けるでも無く額をぺちりと叩き腰に手を当てめっと窘めた。
「なんでだよ」
不満顔の牛若に男は半ばあきれ顔で
「まず状況を確認しよう。万一攻めてこられでもしたらどうするの」
そんな当たり前の注意に対して悪びれることなく
「ぶっ飛ばす」
穏当からかけ離れた答えを返してきた。湖面と玉藻を交互に見て異常の無いことを確認すると男はやれやれとでも言いたげに説明を始めた。
「例えば相手が十人二十人ならどうにでもなる」
梅子は横できょとんとしながら聞いていた。
「これが百人二百人になると結構厳しい」
静は瞬時思案すると苦々しげに頷いた。
「それが千人二千人になるともう手に負えない」
玉藻はようやく人影から注意を外すと扇子を開き口元を覆った。
「一万人二万人になったら逃げるしかない」
牛若は観念したのか叫び声を上げた。
「あーっもう、オレが悪かったよ。でも、そんな攻められるとか考えすぎでしょ」
ようやく静から解放され衣服の砂を払いながら立ち上がるや発せられたその発言に対し男は真顔になると
「間違いなく攻められるぞ。これだけの土地のある都市に住んでいるのがほんの数人となったら移住し放題だからな」
と噛んで含めるように言い聞かせた。
「いや兄貴、考え過ぎ」
少々呆れた物言いに対して
「そもそもその数人を殺してしまえば未発見の無人都市だ。利用し放題だぞ」
感情を含めず、淡々と告げるその口ぶりに流石に牛若も本気を感じ口を噤んだ。
「主殿、流石に心配のし過ぎでは?」
見かねた静のとりなしに対してしかし男は直接は答えず、
「湖面に映った人影の衣装を見たか?」
と、はぐらかすような物言いをした。
「ええ、ぼやけて見えづらくはありましたが主殿の好きな時代劇の様な格好をしておりましたが……」
ぼんやりとした輪郭で分かりづらかったが、雨か雪でも降っていたのか、笠に蓑らしきものが見えた。時代劇の庶民であろうか。静が脳裏にその姿を思い出したことを確認すると男は続けて、
「あの格好の人がいる可能性は三つ。一つ、仮装行列のはぐれ」
人差し指を立てると牛若は胡乱げな瞳でそれを見つめた。
「二つ。時代劇の撮影中」
続いて中指を立てると静はまじめにやってくれとでも言いたげに軽く睨んできた。
「三つ。『向こう側』が戦国時代か江戸時代か、ともかく時代劇の世界である場合」
薬指を立てると玉藻は続きを促すように微笑んだ。
「で、戦国時代は寒冷化による食糧危機の時代。江戸時代も何度か飢饉は起こってる。
そこへ手つかずの、しかも温暖な土地があると知られたら、周辺から見たら格好の進出先だぞ。ここには実際農地エリアもあるんだから」
「いつもの事だけど三つ目だけにできないわけ、兄貴は」
そこまで話し心無い発言を聞き流した上で、全員の眼を見て納得を得られたと判断した男は次の行動を示した。
「それでは静牛若と梅子の三人はここで待機して何かあったらまた知らせて頂戴、牛若はついでに四方に鴉を飛ばしてここの正確な広さを測っておいて。玉藻と俺は湖を一周して他に何かないか調べるから」
一名を除きそれぞれの役割に納得し、納得できない一名は声を上げた。
「私だけどういう事ですか、旦那様」
その抗議に対して何を当たり前のことを、とでも言うように
「異常を発見して冷静に対処できるとなると年長組だろう?いや、いざとなったら牛若を双方無傷で制圧できるならお願いするけれど」
言うまでもないが鴉天狗である牛若の背には一対の羽が生えている。それを傷つけずに制圧するのは牛若自身が前衛よりの要員であるため、想像以上の実力を要求される。無論、完全な後衛要員である玉藻には単独では荷が重すぎるであろう。
その事を全員が思い至るより数瞬早く、玉藻はその口に扇をあてるとほほほ、と笑い声を上げながらその場を去った。言いつけ通り湖を一周してくるらしい。
「静さん、旦那様は走った際に着物がはだけて垣間見える太ももやふくらはぎに興味がおありの様ですよ。なんと破廉恥な。修正しておいて下さいましね」
去りながらもからかいの言を忘れない。しかもどうやっているのか、足も動かさずに地面を滑るように移動してゆく。無論着物の裾は揺らぎもせず、太もももふくらはぎも全く見えはしない。そのくせ頭の狐耳と背中の尻尾は動かしているのが何ともらしい。
「ときどき思うんだが、あいつは才能の使い方を間違えていないか」
そうぼやきつつ男も玉藻とは反対側の方向へ進みだした。途中で一度振り向き目を合わせると、
「じゃあ静、ここは任せた。何かあったら連絡をしてくれ」
「はい、わかりました。行ってらっしゃいませ、主殿」
その場を任せ駆け出した。脇目も振らぬ全力疾走ではなく、ちらりちらりと湖面を確認しながらの軽い走りである。
途中途中で湖畔だけでなく周辺にも視線を走らせ、桟橋があればその先まで足を延ばして確認するが異常はない。一人だけで成果の上がらぬ状態が続けば自然とよからぬ考えが内心に頭をもたげてくる。
「本当に湖に原因があるのか?」
「実は雪だけはこちらに来ることができなかったのではないか?」
「そもそも探して欲しがっているのか?」
「はぐれたのではなく、自分から出て行ったのではないか?」
考えが次第に頭の片隅をよぎるだけでなく、腹の底に沈んで溜まっていくのが分る。同時に体の芯が冷えて来る感覚が襲ってくる。そんな筈は無いと思いつつも、もしかしたらという思いも胸の裡から湧き上がってくる。
思わず叫びだしたくなる衝動を抑えるため、右手で左手を押し包み蹲る。薬指に嵌められた指輪の感触が、一時身の内で荒れ狂う不安を忘れさせてくれた。
内心を食い破りそうな激情に仮初の平穏が訪れる時を、歯を食いしばりながらただひたすらに待つ。幸いにも、さしたる時間を要することなく落ち着いてくれた。
額の冷汗交じりの脂汗を冷えてぎこちない動きの指で拭う。頭を振って気を取り直し、立ち上がると再び足を進め始めた。
ふと気になって辺りを見回した。誰かに見られていたような気がしたのだが……
今の醜態を見られたら放っておかれるはずもないか、と気を取り直した。
「まずは今できることを一つずつこなしていかないとな。」
独り言は、時に自分を奮い立たせるためにも使用される。
そのまま湖畔の周回と確認を再開し、途中で寄り道をしてから静たちの元へと戻る。すると奇怪な情景を目にすることとなった。
「……やりたいことはわかるけど、もう少し何とかならなかったの?」
呆れを隠そうともしない男の声に、三人の娘達はバツの悪さと不満をないまぜにした顔で応じた。
自分が一仕事終えて帰ってきてみれば、桟橋の上で水面を相手に石を投げるわ手を突っ込むわ顔も突っ込むわ、果ては鴉まで突入させて溺れさせ救助にあたふたしているとなれば、男の呆れは正当な物であろう。
「それで成果は?」
「人影の写る場所がほんの少し湖の中心へ動き、影自体も多少くっきりしてきたように見えます」
兎にも角にも現在進行形で変化あり、という事である。ならば腰を据える必要があるだろうと、
「じゃあ今夜はここで見張りしながらキャンプな、玉藻が戻ったら静は俺と荷物運びをお願い」
素早く次の行動を示した。一晩交代で問題の湖面を監視し、何かしらの手がかりを得ようという事だ。だがその前に留守番を任せられるもう一人の年長組の帰りを待たなければならなかった。
時間が経つにつれ桟橋のたもとから先端へ向けて問題の場所が移動しているとなれば、このままいけばどうなるのか、と視線を移動させながら独りごちていると玉藻がようやく帰って来た。
そういえば両端から一周したはずなのにすれ違わなかったのは、寄り道をした際にタイミングをのがしてしまったからであろうか。
帰還の挨拶のつもりか男に視線を向けている。早速男は手を振ると
「お帰り、玉藻。そして早速で悪いけど今日はここで状況を確認しながらみんなでキャンプだから、静と道具を取りに行ってくるよ。それで留守番をお願い」
と頼んだ。玉藻の方は口元を隠しながら頷き男の側を通り過ぎざま
「何かあった時に頼られるのも女の甲斐性で御座います。あまり女に恥をかかせないで下さいましね、旦那様」
と顔を合わせずに男の肩を左手で叩いた。
男がはっとして振り向けば、何事も無かったように年少組の方へ移動しており相手をはじめている。
茫然と立ち尽くす男の様子にただならぬものを感じたのか静が
「主殿?何かありましたか?」
と声をかけるもあいまいな返事をしたまま次の動きへと移った。
――まったく、勿体無いほどのいい嫁を貰ったよ――
男は思わず口元が綻びそうになる内心を押し隠したまま歩みを進める。口や態度に出してしまえば他の者には何があったのかと疑問に思われる。そうなれば自分は顛末を白状しなければならなくなるだろう。
そこまで考えて自分の「男」を立ててくれたのだと思えば、その気持ちに応えないわけにはいかなくなる。
ならば自分の為すべきは明白だ。男は自らの心に気合を入れ直した。
一般に調査キャンプ、というと大仰なものを想像するが今回はさほどの用意は必要では無かった。何せ自らの本拠地内部での調査なのだ。いざとなれば当番を残し拠点内の自室での就寝も十分に選択肢の範囲であろう。
となれば必要な物も知れている。人数分のテントと寝具、今晩と明日朝の食料程度で十分と判断した男と静は、それぞれ手分けして倉庫から必要な物を取り出すと荷車へと積み込むと湖畔へと戻った。
「俺たちだけでバーベキューしてキャンプして、雪姉が聞いたら怒るよ、兄貴」
「その雪を探しているのだから、むしろ怒って出て来てくれるなら早く済むけどな」
他愛もない会話を積み重ねながら、されど全員てきぱきとした動作は止まらない。討伐にしろ調査にしろ、泊りの『仕事』など数限りなくこなしてきている。その意味で、この場にいるのは全員古参の熟練兵であった。
テントの設営を終え、早めの夕食を取りながら今夜の予定を打ち合わせる。
「キャンプはカレー、ととさま、ありがと」
「雪姉がいると熱いの文句言うもんな、こんな時ぐらいしか食べられないよな。あ、おかわり」
「はい、どうぞ。旦那様?甘口も良いですが、今度は辛口も用意してくださいまし」
「ああもう、おいしく食べてくれるのはありがたいけれど、あまり散らかさない。ここの桟橋は雪さんのお気に入りの一つなのだから。それにあなたたちは今何をしなければいけないか分かっているの?最後に、作ったのは主殿ではなく私です」
「うん、ありがとう静。それから見張り登板だけど、まずは玉藻と梅子な、次は静と牛若、それから最後俺で。後できれば明日の朝もカレーにしたいから、おかわりは一人二回までで頼む」
これできちんと各自が行動を取れる程度には、それぞれ修羅場も潜れば壁も越えてきている。年季と場数の両方をこなせば、大抵の事には対応できるものである。
投稿が遅れ申し訳ございません。
原因は全て私の力量不足です。