054 終戦
騙されたーー
藤沢頼親の内心を占めていたのはその一言であった。自分は何故諏訪頼継などの口車に乗ってしまったのか、と。
居城である福与城の本城から眼下を見下ろせば数多の四つ菱旗がはためいている。小高い丘の上に立つその城は、敵対者たる武田軍の包囲下にあった。
事の発端は儲け話ならぬ領土分割話であった。頼継はこう言った。現在武田と折半している諏訪郡を貴殿と分かち合おう。事が成った暁には諏訪の三分の一を譲渡しよう。
上伊那五万石の半分を領有する身にとっては、諏訪郡三万石の三分の一、一万石が手に入るならば領土は一気に四割増しとなる。飛躍の好機だった。
しかし、絵に描いた餅では話にならない。頼継に勝算のほどを聞いてみた。諏訪と武田は先代では血で血を洗った仇敵同士。討ち滅ぼされたからとて安易に従える筈も無し。
まして惣領と大祝双方を喪っては担ぐべき旗印もない。反乱を企んだところで実行には移せまい。それが武田の目算であろう。しかし、そここそが狙い目。
頼継も分家とは言えれっきとした諏訪の一門。主家が滅ぼされた際には血縁の分家を頼るのは武家の習い。一肌脱げばたちどころに旧臣がはせ参じるであろう。
地の利と人の和を得れば武田如き、恐るる間でも無し。貴殿も一枚噛んで栄華を味わわれるが良かろう。胡散臭い笑みと酒臭い息で頼継はそう言った。
返答は簡単だった。言うは易し。ならばまず独力で武田を諏訪から打ち払って見せるが良かろう。その結果で言葉の真贋を占うとしよう。
そう言ってその場は追い返した。だが困ったことにその後頼継は兵を集め上原城に在番していた武田兵を諏訪郡から叩き出してしまったのだ。これには困った。
武士に二言は無いとも、仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言うとも言われるが、兎にも角にも自分の出した条件を頼継は達成してしまった。なら次はこちらの番だ。
傍観は許されぬ。武田に付くか、頼継に付くか。選んだのは同じ上伊那郡の頼継である。地縁血縁が重視される戦国の世においては、常識的な判断であった。
だがしかし、その結果は目を覆うほどのものであった。頼重の裏切りに対し武田は想定外の鬼手を打ってきた。先代頼重の遺児、寅王丸の擁立である。
晴信が後見となり、彼を諏訪へと帰還させる。諏訪の一族よ、先代頼重公への恩義ある者よ、諏訪大明神の旗の下へ集うが良い。そう武田は喧伝したのだ。
結果は惨憺たるものだった。頼継に同心した一部の者以外、諏訪の者はこぞって武田方へと馳せ参じた。頼継の行動が返って諏訪を結束させてしまったとさえ思えた。
結果、宮川橋の合戦で頼継方は完敗。実弟の頼宗さえ討ち取られる有様だった。武田は余勢を駆って追撃、上伊那への侵入を許し今に至る。
「あやつめ、本当に未だ勝算があるのか。こちらもいざという時に備え武田に詫び言を入れる準備をしておくか」
爪を噛みながら一人こぼした。
藤沢頼親が自らの領地が略奪に遭う危険を冒しながらも福与城に籠城することを選択したの理由があっての事だった。密使に届けられた書状を見ながら頼親はそれを確認した。
頼継の書状によれば、勢いに乗る武田軍と敢えて戦わず高遠城を突破させたのは苦肉の策である。福与城にて武田を撃滅する秘策我にありというのだ。
現在自ら下伊那へと足を運び周辺の国衆へ援軍を要請している。諏訪の次に武田が狙うのはこの伊那だ。反乱鎮圧より伊那侵攻を優先させたのがその証拠である。
自らの領地を守れずして何が領主か。何が国衆か。伊那の侍は自分の主君も守れぬ諏訪の腰抜けとは違うと、武田に思い知らせてやるのじゃ。
そう言って頼継は伊那郡の国衆達を焚き付けた。武田の戦争目的の一つに他国の収穫物で自国で不足する食糧を補填することがあったのだから、あながち的外れでもなかった。
閉鎖的な環境では、近所付き合いが共同体を維持する上で非常に重要視される。そして伊那郡は伊那谷とも称され、盆地という周囲と隔絶されがちな環境であった。
結果として春近衆とも言われる伊那の国衆が決起した。ここに武田は前面の福与城に後方の春近衆と、南北腹背に敵を持ち挟み撃ちされる形となった。
この急報は武田配下の忍びの者の手によって早馬にて本陣に届けられた。本陣の主立った者達はどよめいた。中には思わず腰掛けていた床几から立ち上がった者さえいた。
まさか、まさかこれほどまでに上手くいくとは。幔幕の中の武将達はこみ上げてくる笑みをこらえきれずにいた。正に事前に思い描いていた通りの形になっていたからだ。
これで武田は諏訪頼継、藤沢頼親さらには春近衆と上伊那の主立った領主全てから攻撃を受ける事となった。逆に言えば、上伊那を制圧する大義名分を手に入れたのだ。
こちらから攻める筋の通った理由を用意しようと思えば骨が折れるが、相手から攻めてきてくれたのだ。単純に売られた喧嘩を買うだけの話になった。
そもそも最初に欲をかいて領土分割協定を反故にしたのは諏訪頼継なのだ。誰が何と言おうが、筋は武田にある。ならば士気はどちらが高いか言うまでも無い。
加えて伊那郡の石高はは上下合わせてようやく十万石、甲斐は一国で二十万石である。単純に動員兵力だけでも倍の開きがあるのだ。加えて指揮権の問題もある。
合従連衡のどちらに分があるかは歴史が証明している。抜きん出た者が主導権を握るのは納得できても、同程度の輩に指図されるのは納得いかないのが人の性だ。
兵力に劣り、足並みも揃わぬ者どもが、城に籠もっておればよいのにのこのこと出てきてしまえばどうなるか。武田首脳部には鴨が葱を背負って来たように見えた。
そこから先は一方的な蹂躙が開始された。元来、腹背に敵を受けるのは不利とされている。本来ならば安全地帯である後陣を敵に突かれるのだから当然だ。
実際、かの織田信長が九死に一生を得たとして有名な金ヶ崎の退き口も、兵数だけならば織田軍は浅井朝倉連合軍に勝っていた。混乱から脱し仕切り直すために撤退したのだ。
だがここで一つの仮定をしてみよう。もし挟撃されると事前に分かっていて、その迎撃の為の布陣をしていたら、結果は一体どうなっていただろうか。
一つの答えを、武田軍は実体験として得ていた。勝利を確信し意気こそそれなりではあるものの、統制が十分に行き届かぬのかどこかちぐはぐな足並みで突進してくる集団。
簡素ながら急ごしらえの堀と柵を設けた自陣から、弓隊の斉射にて武田軍はこれに挨拶した。矢を受けた先頭集団がばたばたと倒れ、陣形は更に乱れた。
矢の雨をかいくぐった幸運な、もしくは練達の者どもも次には堀に阻まれる。V字に掘り込んだ簡素な薬研堀だが、一度底へ降りて斜面を登り直す手間は厄介だ。
そこへ容赦なく槍足軽の長柄が突き込まれる。無論、堀の深さは底に降り立った武者に丁度槍で攻撃できる様にあらかじめ調整されている。
ただでさえ少ない兵は、断末魔の呻きを上げながら更にその数を減らすこととなった。左右に迂回しようと考えた少数の者も無事では済まない。戦場に法螺貝の音が鳴り響いた。
そこには武田自慢の騎馬隊がその出番を今や遅しと待ち構えていたのだ。騎馬武者の目方は足軽のそれの数倍に達する。それが集団で突っ込んできたらどうなるか。
弓や槍を使わずとも、騎馬はその速さと重さだけでも敵を粉砕できる上級兵科である。それが集団で集中投入されれば結果は火を見るより明らかである。
もはや勝ち目無しと見て取った兵どもは、武器を捨てて命あっての物種とばかりに一目散に背を向けてかけ出して行く。それこそ騎馬隊の待ち望んだ瞬間だった。
乱れた陣形の、更に手薄な一点を狙って敵陣を引き裂いて行く。後に残るのは戦意を喪ったかつて兵だった何者かだった。それを情け容赦なく討ち取って行く。
ここまで武田兵が戦意旺盛なのには理由がある。竜胆だ。前回に引き続き今回の合戦においても目立った戦果を上げている。一部には引き抜きの動きさえ出ている。
そんな中で首級の一つもあげられず手ぶらで帰ってきたならば周囲からどういう評価を受けるか。その答えも、何をすれば良いかも火を見るより明らかだった。
結果、今回武田は上伊那の地において文字通り血に飢えたと言われるほどの戦果を叩き出した。同時にそれは、相手の継戦能力と意欲をもへし折ることになった。
そして野戦で諏訪頼継と春近衆を武田軍が打ち破っていた前日、攻城戦を行っていた福与城においても一つの動きがあった。合戦は、最終局面を迎えつつあった。
福与城を囲んでいた武田軍は主力を頼継らの迎撃に当てていたため、旗や篝火こそ多く立て大軍に見えるよう偽装してはいたものの、実際の数はそれほどでもなかった。
それでも、名のある者としては晴信の側近として辣腕を振るう駒井高白斎、不死身とも称される原美濃守と錚々たる面子である。少数ならば、精鋭でなければならない。
竜胆を含む教来石隊はこちらに配属された。より詳しく言うならば、宮川の合戦で目立ちすぎていたのでもう手柄を他に譲れと周囲から圧力があったのだ。
現代にも通じる何かがあるよな、と竜胆は妙な感慨に浸りながらそれを受け入れた。実際、静と二人で七つも八つも兜首をあげて手柄は十分立てていた。
関ヶ原の折の笹の才蔵の如く、一日で三十を越える首を取ったわけでもないのに大げさな。それが竜胆の内心であった。それほどに周囲からは畏怖の目で見られていた。
もっとも静はその処置に安堵していた。竜胆は現代人の倫理観をいまだ持ち続けている。自分の都合のために戦争で人殺しをする精神的な負荷を心配していたからだ。
仲間を取り戻すために貴方の命を頂戴します。小説や芝居ならばそう言った筋書きもあるだろうが、実際にするとなれば本人の負担は如何ほどか。
割り切れれば良いが、そうで無い場合は心の奥底に澱を溜め込むことになる。少量ならば目も逸らせるが、大量になり溢れかえれば何が起きるか。静は想像したくもなかった。
そんな中、城方の藤沢頼親から甲斐国衆で武田一門でもある穴山信君を通じて和睦、実質的には降伏の打診が合った事は、素直に喜ぶべき事であった。
もともと、諏訪頼継の口車に乗せられて付き合いで出兵した感の強い藤沢頼親である。お家の興亡を賭けて、などと言った覚悟とは無縁である。
形勢が悪くなったのだから、詫び言を入れて本領安堵さえ保証されれば武田とわざわざ敵対する理由はなかった。城を囲まれれば、実にあっさりと旗を下ろした。
それは前線の武田兵には、敵の降伏という吉報とここで手柄を立てねば後がないとの覚悟を促す檄となって伝わった。その翌日が頼継と春近衆と決戦であった。
そして今回の一連の合戦で残るは頼継に同調し切腹した頼重とも軋轢のあった矢島満清ら諏訪西方衆のみとなった。もはや民百姓にさえ、結果は明らかだった。
状況を理解した諏訪西方衆は十月を待たず武田に降伏し、今後は忠誠を誓いますとして諏訪大社の宝鈴を鳴らした。首謀者の一人矢島満清は追放処分となった。
武田は満清没落によって空位となった諏訪大社上社禰宜太夫の地位を神長官守矢氏に与え、新たな大祝の職に今回諏訪一族をまとめた満隣の子千代宮丸を据えた。
こうして晴信は諏訪大社上社の神職再編を終えると甲府に帰還した。武田の勢力は、諏訪郡の東半分だけでなく西半分、そして上伊那郡にまで及んでいた。
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