53 宮川の戦い 後編
天文十一(一五四二)年九月二十五日、武田、高遠両軍は諏訪郡の安国寺門前、宮川橋付近で対峙した。実はここは武田よりも高遠にとって因縁のある地である。
奇しくも二ヶ月前頼継は杖突峠越えてここから諏訪へと侵入。安国寺門前町に火を放ったのだ。不利を悟った頼重は上原城を捨て桑原城へ後退し、その後降伏した。
昨日までは焼け落ちた建物を撤去し、そこかしこに再建のための槌音が響いていたが、今日は一変し軍馬のいななきや鎧のこすれる音に支配されていた。
午前から双方軍勢を徐々に集結させ、弁の立つ者が互いの正当性を主張し合っていたが、昼食を取って午後になると風向きが変わった。双方から先走る者が出始めたのだ。
抜け駆けの罪も功を上げれば帳消しになる。そんな自分勝手な論理で独断専行を敢行してしまうのが戦国の世でもある。自立性の強い者を従える弊害でもある。
とはいえ、始まってしまった物は仕方が無い。一度火が付いてしまった以上、あいやしばらく、また明日仕切り直しましょうなどと寝言を言えるはずも無い。
双方先陣から順に相手方へとぶつかっていった。武田方の先陣は定石通り新参の諏訪衆である。死傷率の高い場所に配置することで忠誠心を測る事が出来る。ある種の踏み絵だ。
対する高遠勢は諏訪頼継が手勢を率いて先陣を務めていた。これは異例の事だ。頼継が討ち取られぬまでも負傷して退けば敗北に直結する。
だがしかし、総大将自ら先陣に身を置くことは味方を鼓舞し士気を奮い立たせるには大変分かりやすく良い手である。同心した者達もこれで引くに引けなくなった。
その甲斐あってか、高遠勢がじりじりと武田勢を押し始めた。士気の高まったこともあるし、何より一度に多数の兵を投入し数で上回ったことが大きい。
裏を返せば、そこまでせねばならぬほど高遠勢は追い込まれていると言うことでもある。何より万一ここを耐え凌がれるかすれば形勢が逆転してしまう諸刃の剣なのだ。
果たして武田勢の宿将板垣はその盤面を見切っていた。自身の指揮下の第二陣に戦場を迂回させ河の浅瀬を渡らせ、晴信の第三陣に諏訪勢の援護を要請した。
戦場において新たな戦力を投入する、つまりは予備兵力の使用は一気に情勢を傾ける切り札である。武田はそれを使用した。しかし対する高遠にはそれが無かった。
もとより兵数に差のある勝負である。実際の合戦では双方の兵数と使用武器を平等にしましょうなどと馬鹿なことを言う者など居はしないのである。
崩れ気味の諏訪勢の後ろから武田側の総大将晴信率いる本隊が援護の矢を文字通り雨あられと射かけてきた。いくら遠射で狙いが甘いと言っても数打たれれば当たるのだ。
高遠勢の先陣に目立って被害が出始めた。そこへ急報が入ってきた。姿を消して晴信と入れ替わったと思われた板垣勢が宮川の浅瀬を渡河、側面に襲いかかっているという。
戦場を迂回し浅瀬を渡河しろとの命令が出たとき、竜胆は隣の静と目配せし合った。合戦中に橋も架かっていない河をざぶざぶ歩いて渡るとなれば隊列も崩れる。
お行儀良く譜代先達の後ろを付いて歩くのでは無く、どさくさで先頭集団にまぎれてしまう余地が生まれたと言うことだ。可能性さえあるならば、あとは何とでもなる。
弓と槍を担いだ大男と大女の二人組が騎馬武者をすいすいと抜かして河を渡っていく様を、多くの武田兵が呆れ、感心し、歯ぎしりしながら目撃した。
河を渡った先の高遠勢の側面を守っていたのは頼継と同じ上伊那郡の領主藤沢頼親の軍勢である。竜胆等はここに他の武者達と同時に突っ込んだ。
流石に可能と言っても馬相手に駆け足で勝つほど目立つ真似は自重した。結果として竜胆はまず先陣を切る騎馬武者を弓で援護することから始めた。
既に弓に矢をつがえ狙いを付けている者。腰を低く槍を構え騎馬の突進に備えている者。そういった危険度の高い者から優先的に射貫いていく。
目を見張ったのは突入している当の騎馬武者達だ。本来なら命の危険と背中合わせな筈の一番槍が、一人の弓手が突破口を開けてしまったのだ。
目を見開きつつも右手の槍を握りしめ左手の手綱を操る。誰だか知らぬが相手の男気には、男気で応えるのが甲斐の侍の有り様という物だ。眼前の敵兵を蹴散らした。
竜胆と静は合戦前に相談していたことがあった。果たしてどの程度の手柄が妥当であろうか、と。抜きん出て、しかも人の範疇にとどめる程度の手柄とは。
参考にされたのは、やはり戦国時代の逸話だ。それも順境では無く逆境にあった者の話だ。何かしらの失態を犯し罰を受けた際に、それを挽回できるほどの手柄である。
参考にされたのは前田利家だ。若き日の利家は刃傷沙汰を起こし出仕停止に処せられるも武功を上げてそれを解かれた。その際の手柄を参考にした。
桶狭間において首三つ。更にその後美濃の斎藤との合戦で首二つ。合計五つの首級を上げた。ならば今回、竜胆と静で五つずつ。合計十の兜首を自分たちに課した。
走りながら目星を付け、立ち止まり数度弓を引き絞り放つ。それを繰り返し敵陣の前衛に隙を作り騎馬隊に道を切り開いて貰った。そこから竜胆と静も敵陣へ突入した。
陣笠や練り革甲の雑兵足軽などは目もくれない。邪魔となれば倒すがそうで無ければ捨て置いた。狙いはあくまで兜首。それも名のある者ならばなお良い。
だがそれをどうやって見つけるか。簡単だ。目立つ者がそれだ。鉄砲集団投入前のこの時代は個の武力の全盛期である。武名鳴り響く者はそこに居るだけで価値がある。
それゆえ、背中の旗や兜の飾り、鎧の着色や馬を飾り立てるなどして敵味方からの注目を集める装いを求められていた。そしてそういった者は危地に優先して投入される。
静が見つけたのもそんな一人だ。数名の従者を引き連れた馬上で槍を振り回す大柄な鎧武者。内心で御免、と一言詫びると従者の隙間に割って入りその喉元に槍を繰り出した。
狙い違わず頸骨を貫き通し一撃で相手は絶命した。周囲の従者は静の突進を見た竜胆が射倒していた。槍を抜いて相手がぐらりと傾きようやく周囲がざわめきだした。
戦果をふいにするわけには行かぬと左手でその馬の轡を取りながら静は槍で周囲を牽制しつつ次の獲物を探し始めた。ついで竜胆は倒した従者の槍を拾い集め始めた。
まさか、と静はその腰に目をやると果たして箙に刺さった矢は残り少なくなっていた。元々二十本程度しかないのだ。援護を考えれば持った方だ。
しかし自分たちの都合など相手は考えてくれない。むしろたった二人と見て取りわらわらと襲いかかって来た。竜胆と静は馬を挟んで背中合わせになり対応に追われた。
敵討ちに来たらしい数名の侍は、ある者は静が槍で突き伏せ、またある者は竜胆が奪った槍を投げ胸板を貫き仕留めた。馬から落ちたりしたその侍を回収するのも一苦労だ。
普通の武者は一族郎党やその場で行き会った者同士などでとにかく集団を作る。その方が戦いやすいし襲われにくい。何より互いの戦功を確認し合えるからだ。
しかし竜胆と静はたった二人。しかも馬は荷物運搬用に後方に置いてきて両方徒歩だ。敵兵には初陣で逸って突出した鴨にも見えたことだろう。
しかも討たれた味方の遺体を回収するという大義名分もある。侍雑兵問わず襲いかかってきた。文字通り周囲全て敵の状態が生まれていた。
しかし、そんな傍から見れば絶体絶命の窮地に竜胆は笑みさえ浮かべていた。今も向かってきた侍を一人突き伏せその槍を拝借し二刀流ならぬ二槍流の構えを見せていた。
矢が尽きると早々に弓を手放し槍で戦い始めたものの、流石に遠巻きから矢を浴びせられると辛いものがあった。何より後ろの馬も守らなければならない。
雑兵には目もくれなかったが折角の手柄と時折回収していた武者の死体ははていくつになったかと益体も無いことを考えたとき、敵の後方でわっと喊声が上がった。
何事かと首を巡らせると武田菱とも言われる四つ割菱の旗が多数はためいていた。渡河の終わった後続部隊が陣形を整えやってきたのに違いなかった。
それを見た周囲の敵兵は顔を見合わせると逃げ出すものが出始めた。一度こうなるともう指揮官がいくら声を荒げても滅多なことでは歯止めが効かなくなる。
押され気味の場面で敵の新手が参戦すればもう勝敗は明らかだ。誰だって勝ち馬には乗りたいが負け戦に付き合わされるのは御免である。軍勢が、軍勢で無くなり始めた。
やれやれ何とかなったかとほっと息をついた時、馬鹿者、と割れんばかりの大音声が場に響いた。聞き覚えのある声に青ざめると果たして顔を赤くした教来石の姿があった。
教来石は内心頭を抱えていた。初めての部下が問題児だった。まあそれは良い。血筋も毛並みも良い若者ならば既に然るべき所が娘婿にして取り込んでいるだろう。
それゆえ何かしら問題を抱えた、よく言えば鍛え甲斐のある者を割り当てられて事については予想していた。しかし、これほど規格外の者はどうしろと言うのだろうか。
馬上から二人の男女を見下ろす。討たれた武士の一人が乗っていたであろう、馬鎧を施された一頭の馬の左右に幾多の侍の死体を積み上げていた。
首を取る暇も無く遺体を取り返そうと数多の郎党や同輩が押し寄せたのであろう、周囲に倒れる雑兵は十や二十ではなかった。とすると死体の山はわざわざかき集めたのか。
たった二人で一体どれほどの敵兵を討ったのか。同時に先走った結果自分たちの来援がもう少し遅れていたらあえなく戦場に散っていた可能性を考えているのか。
兎も角遺体をそのまま野ざらしにしては使者への冒涜となる。自らの郎党に周囲の警戒を命じると教来石は下馬して竜胆等に相手の首を取るよう命じた。
周囲では武田の旗が前へ前へと押し出され高遠の旗はばたばたと倒れていく。勝負はあったようだ。ならば上の者として下の者の手柄の報告をする算段をしなければならない。
一部の不心得者が周囲の雑兵の首や刀や鎧などの武具を持ち去る様を極力視界に入れないようにしながら教来石はまず積み重ねられた遺体を一列に並べるところから始めた。
合戦当初の羊刻(午後二時)には地元の諏訪勢に対し数の利を活かし有利に戦を進めていた高遠勢も側面を破られ酉刻(午後六時)には完全に敗走状態になっていた。
高遠方は七百もの死者を出し、諏訪頼継の実弟蓬莱軒頼宗さえも討ち取られたと伝えられている。文字通りの完敗であった。武田は余勢を駆って追撃に入った。
もともと頼重方の布陣していた安国寺周辺は諏訪へ攻め入る際に踏み入った地である。裏を返せば何かあればすぐに高遠へ退却できる場所に布陣した訳である。
実際に戦う前からそんな心持ちでは、既に勝負は付いたも同然であった。それでもなお一戦交えたのは武士の対面か。果たして数百の死者はそれに見合うのか。
翌二十六日、武田軍は諏訪大社神長官守矢頼真らに道案内役を命じ、高遠勢の諏訪への侵攻路を逆に辿り杖突峠を越えて諏訪頼継の本拠地上伊那へと今度は逆に攻め入った。
道中にあった藤沢城へと放火し武田軍は破竹の勢いで進撃、敗戦で満足な守備兵もいない諏訪頼継の高遠城を突破すると、次の城へと襲いかかった。
高遠城の北西、上伊那地方のほぼ中央に位置する山城、福与城である。それは今回諏訪頼継に同心した藤沢頼親の居城であった。武田軍はこれをぐるりと取り囲んだ。
この城を落とすことは武田が諏訪郡を越えて上伊那郡を掌握することを意味する。周辺領主に激震が走った。ここに、今回の合戦は新たな場面を迎えた。
登場人物に試練を与えるともっと面白くなるのかも




