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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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52 宮川の戦い 前編

 諏訪頼継一派により諏訪郡の拠点上原城より自勢力が駆逐されて後、武田晴信は支配地奪還のための軍勢を招集し、その先陣を宿老板垣信方の指揮で出発させた。


 続いて自身は千代宮丸と改名した諏訪の先代頼重の遺児寅王丸を擁し本隊を率いて出陣した。産まれて一年と経たない乳飲み子を連れての進軍はゆるゆるとしたものだった。


 頼重による諏訪制圧から軍勢を招集し甲府を進発して諏訪へと着陣するまで二週間。その間ただのんびりとしていたわけではない。多数派工作、切り崩しに腐心していた。


 これが武田側の放った鬼手である。死んだ先代の子を盛り立て、一時の苦難を忍びお家再興を目指す。まさに浪花節。日本人の心に訴える筋書きだ。


 これを前に奮起しない者は侍では無い。これを示されて心震えぬ者は男では無い。幸いにも諏訪の武家には侍の男子に不足してはいなかったらしい。


 先代の叔父、諏訪家の長老格たる満隣の号令の元、諏訪一族と旧臣は先を争って武田側へとはせ参じた。中にはこっそり頼継側から出奔してきた者もいた。


 人はパンのみに生きるにあらず。例え今日が苦しくても、明日への希望があれば歯を食いしばって立ち上がれる。正に人の心を攻めるは上策であった。


 板垣率いる先陣は、晴信率いる本隊との兵力差を縮めつつ来たるべき決戦の時を待った。本隊と合流したならば、賽は投げられることだろう。


 今回、竜胆と静は先陣に含まれていた。先駆けを期待されての事では無い。教来石ら武川衆率いる武田信繁が先陣に所属していただけのことだ。


 実弟に場数を踏ませ、また経験豊富な老臣の采配を間近で見ることは良い経験になるだろうとの兄晴信の思いやりであった。それは周囲も知っていた。


 静は竜胆のしたり顔の解説からそれを知った。時代劇好きが高じての戦国知識と称してはいたが、それだけでは無いことにいい加減気付いてもいた。


 そんなことよりもまず気にすべき事は他にも色々あった。その一つを静は質問としてぶつけてみることにした。

「主殿、馬に乗せたあの葛籠はなんですか」


 対する竜胆は生返事で反応した。まるで伝え忘れていたことに今まで気付いていなかったとでも言うように、戦利品入れだぞとあっさりと答えた。


 戦利品。その単語に静の中の何かが拒否反応を示した。現実世界でのそれは自らの手にかかって死んだ者達の装備品だからだ。自分たちはいつから死体漁りの輩になったのか。


 俯いて立ち止まった静の様子からその内心を見て取った竜胆は肩をぽんぽんと叩くと噛んで含めるように舌を動かした。

「今回勝てば、家臣を雇うことになる」


「なら、その分の刀や槍、鎧兜だのなんだのを準備しておかないといけないだろう。まさか丸腰で戦に行けとも言えないし」

 女侍の口から失笑が漏れた。


 武田の軍勢が悠々と勢力を増しつつ接近してくるとの報に接し諏訪頼継は動揺していた。頼みとしていた諏訪衆は当初の目論見の半分も同心していなかったからだ。


 味方にならなかった人数は中立を決め込んだのでは無い。敵方に回ったのだ。一人味方が減り一人敵が増える。二倍数で効いてくるのだ。


 かくなる上は一戦し敵の出鼻をくじき寝返りを誘うしか無い。戦う前から追い詰められた頼継はその場所の選定に取りかかった。急ごしらえの諏訪の地図に目をこらす。  


 味方は守り易く、敵が攻め難いところは何処か。その条件を満たす地形は無いか。そう呟きながら地図の上をさ迷う手が一点で止まった。そこには宮川橋と書かれていた。


 川は緊要地形と言われる。渡河中は隙を晒すことになるし陣形も満足に組めない、加えて川の前後で兵力も分散するため本来の実力の半分も発揮できない。


 頼継はここを勝負の地と定め兵力の集中を開始した。まず一勝。武田の兵恐るるに足らず。その事実を示し流れを引き寄せなければならなかった。


 何と言ってもまず兵力で差が付いている。上伊那五万石と甲斐二十万石ではそもそもの動員兵力がお話にならない。そこで頼みにしていたのが地元の諏訪衆だ。


 地形を知り住民の協力も得られる地元の侍衆を味方に引き入れることの意味は、実際の兵数以上に大きな意味を持つ。しかしこれが二分した。しかも自分の方が少ない。


 これは由々しき事態だった。実際口先で誤魔化してはいるものの福与城の藤沢頼親などは勝利の目論見に露骨に疑いのまなざしを向けてきている。


 ここへ来て上伊那五万石さえも足並みが揃わなければ合戦に及ぶまでも無く自分は頭を丸めるなどして晴信に詫び言を入れなければならない。


 それだけは我慢できなかった。折角ここまで来たのだ。諏訪惣領と諏訪神社の大祝、本家の手中にあった二つの地位が空席となり、分家の自分にも機会が巡ってきたのだ。


 分家のままで終わるか、本家の風上に立つかの岐路なのだ。自分のためだけでは無い、一つといえど前例を作っておくことは子々孫々末代にまで影響するのだ。


 分の悪い賭けであることは承知している。罠の可能性も考えている。しかし、しかしだ。今までどれほど望んでも手の届かなかった地位が目の前に転がってきたのだ。


 ここで指を加えて好機を待とうなどと綺麗事を言えるだろうか。万全の準備を整えて然るべき手順を踏むなどとまどろっこしいことを言えるだろうか。


 否、断じて否だ。ここで勝負に出ない者は侍では無い。いや、そもそも男でさえ無い。勝負するべき時に勝負しない者はただの負け犬だ。


 舞台に上がる機会を手にしながら、みすみす棒に振る馬鹿者がどこにいる。したり顔で生涯機会を窺い続ける賢者より、危険を承知で挑戦する愚者であることを頼継は選んだ。


 などと言うことを考えているのであろうなあ、頼継めは。髭を撫でながら信方は相手の心中を思った。分家の者が本家に成り代わる機会を目の前にして何を考えるか。


 自らも武田庶流家である信方にはそれが手に取る様に分かった。ある程度の経験を経て自信を手に入れた者がかかる熱病のようなものだからだ。


 頼継の不幸は二つ。他者のそれを見て我が身に置き換えて考える事が出来なかった事。そういった際に諫め諭してくれる老臣を側に置かなかったことだ。


 忍びの者どもを偵察に放ちながら板垣は宮川の手前で陣を敷いた。晴信の本隊と合流するためだ。そして晴信の動向に関する報告を受け頬をほころばせた。


 九月二十四日、甲府から諏訪への中継地である若神子を経て境川の周辺に布陣していた晴信は諏訪大社の上社を訪問していた。戦勝を祈願するためである。


 具足一領、馬一疋、伊那郡百貫文の寄進を約束して、大膳大夫晴信の名で行った。これを受けて諏訪の侍だけでは無く民までもが武田側になびいた。


 先代の遺児を擁立したのは諏訪の血統を尊重する意思表示だ。。諏訪大社に戦勝を祈願したのは諏訪の伝統を尊重したのだ。その意味するところを理解したのだ。


 相手が誠意を示したなら、自分もそれに応える必要がある。相手の大切にしているものに理解を示して尊重する。それは信頼構築の基本であり極意だ。


 頼継にはできまい。わかるまい。なまじ諏訪の同族に生まれてしまったがために侍衆や民は自分にかしずいて当然と思ってしまっている。


 それを未熟や若さの一言で切ってる捨てるのは簡単だが信方はそうしなかった。身分社会の戦国の世にあってはある意味当然の考え方であったからだ。


 だが、ならばこそ自分たちの主君である晴信の特異さ、優秀さが際立つ。生まれによる驕り高ぶりとは無縁で、周囲の意見に耳を傾け民の進上にも寄り添う。


 板垣は守り役として幼少期より晴信を育て導いた自身の方針が間違っていなかったとの思いを新たにし左手で髭を撫でた。九月になっても、蝉の鳴き声は賑やかだった。


 信方は踵を返すと供の者を引き連れ陣幕へと戻った。晴信が諏訪大社に戦勝祈願をしたと言うことは、現地入りして陣も布いたと言うことだ。


 開戦の時は近い。早ければ明日にでも両軍はぶつかることであろう。そこまで事態が見えているのであれば、しなければならないことは多かった。


 地形の確認、戦闘時の順番と配置、敵方の伏兵の有無、内通者からの情報を手持ちのそれと照らし合わせることでの真偽判定、今夜は眠りを取れるか怪しいものである。


 相応の地位にある者は後方安全地帯でふんぞり返っていると素人は言う。だが実際は体系化もされていない情報処理に忙殺されて動けないのだ。


 そんな立場ある者にしか分からない苦労と苦悩を今は知るよしも無く、今回の合戦ではどの程度の手柄を立てておけば良いだろうかなどと陣中で相談している者がいた。


 竜胆と静である。髷も結っていない、つまりは元服前の男と女、それが下手な男より恵まれた体格をして連れだって歩いているのである。目立たないはずが無かった。


 加えて話題にも事欠かない。実際周囲にいる者達の中にはそのとばっちりを受けた者もいる。目立つと言うことは良くも悪くも引き合いに出されやすい。


 元服前、つまりは成人前の子供でさえ手柄を立てているのにお前は何をやっていた。今回の戦では手ぶらで帰ってくることはまかりならぬというわけだ。


 そして竜胆と静である。前回の戦功で武田への仕官を建前では無く本音で認められた。怪しげな根無し草から得体の知れない新入りへと扱いが変わったのだ。


 扱いは決して良いとは言えない。むしろ手持ちの資産を考えればどこぞの山奥の村でもいくつかまるごと買ってその領主にでも収まっていた方が余程良い。


 しかし、そうもいかない事情があった。仲間が一人、武田家の手の内にあるのだ。別段何かあったわけでは無い。ただ巡り合わせが悪かったのだ。今はそう思っていた。


 自分を含め他の仲間が転移している中、ただ一人だけが転生、しかも現地の姫君に転生してしかも領主の妻となっていてその子を出産していると誰が想像できようか。


 それだけならば話は簡単だった。一度は失敗したとは言えある種の覚悟さえ決めれば仲間全員の力を合わせて強行突破する、という選択肢もあった。


 しかしここに二つ現実的な問題が発生する。一つ、こちらでの生活基盤をどうするか。二つ、史実では仲間の転生先の諏訪家は今年中に武田家に攻め滅ぼされる。


 ならばどうするか。相談の結果は武田家への仕官であった。有力な戦国大名の家臣という立場と、戦功と引き換えに仲間の身柄も確保できる一石二鳥の妙手だ。


 転移直後の現地の侍との小競り合いにおいて自分たちの身体能力が規格外であること、もっと言ってしまえば伝承の域にあることを確信していた。


 大人と子供どころか達人と赤子ほどの実力差があるのだ。勝利の約束された出来試合の様なものだ。手柄などその気になれば立て放題である。


 確実に勝てる土俵で、他者に圧倒的な大差を付けて勝つことで自分たちの居場所を確保し確固たる地位を築く。今回の合戦はそのための一歩だ。


 竜胆と静が話しているのはそのさじ加減だ。どんぐりの背比べ程度のものではお話にならない。かといって本気を出しすぎて屍山血河を築いてしまっては逆効果だ。


 埋没せず、異常すぎて排斥もされず。そんな無茶ぶりをしてきた狐耳を思い浮かべながら、二人はそれぞれ弓と槍を持つ手に力を込めた。


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